支配の行方
友情────
長いときを掛けて育んだそれは、砂上の楼閣の如く一瞬で崩れ去った。
信頼────
薄暗い渇望に飲み込まれ、死滅した。
微塵の後悔もないつもりだった。
唯一望んだものに満たされる、それは甘美な枷に捕らわれた日々。
そして、何と暗澹たる地獄。
陶酔と苦悩に引き裂かれ、今宵も幸福な夢を見る。
────空しき骸を腕に抱いたまま。
到達の余韻を味わう間もなく、低く掠れた声が命じた。
「────抜け」
汗ばんだ身体をゆっくり起こし、命じられるままにマイクロトフは繋げた肉体を解放した。熱く絡み合っていた箇所からねっとりと残滓が溢れ出し、その感触に怖気を覚えたように白い肌が微かに震えた。
予め用意しておいた濡れタオルをサイドテーブルから取り上げて、彼は己の放出を余さず拭い取った。
無防備に四肢を投げ出した青年は無言で男の奉仕を受け入れて、改めて短く呟く。
「……水…………」
今度もマイクロトフは従順に立ち上がった。
机の水差しを手に戻ってくると、一旦サイドテーブルにそれを置き、横たわる青年をそっと起き上がらせる。
気怠げに半身を起こした彼は、支えられながら差し出されたグラスを受け取り、唇をつけた。緩やかに仰向いて水を嚥下する喉首には、薄赤い鬱血の跡が夥しく舞っていた。
共に理想を語り合い、微笑みを分けながら過ごした十年余りの歳月。
深い交友が結んだ絆を、穏やかで優しい笑顔を、壊すことは容易かった。
誰よりも誇り高く、跪くことを知らぬ赤騎士団長を己の汚れた欲望で刺し貫いたとき、燃え上がる至福の中で、いっそ滅びたいとさえ願った──。
残らず水を干して俯いた青年の手からグラスを抜き取ると、濡れた唇をそっと拭う。未だ肉体の火照りから醒めやらぬのか、常よりも深い色を佩いた唇に己のそれを寄せる。
「────カミュー」
琥珀色の瞳には一切の感情が浮かんでいない。マイクロトフは片手で彼の目許を覆い、湿った唇にくちづけた。
閉ざされたそれをこじ開けようと舌先に力を込めれば、抗うでもなく侵入を許す。絡めた舌を吸い上げても、なされるがままだ。やがて堪能したマイクロトフがゆっくり離れるまで、彼は人形のように動かなかった。
「…………おれが憎いか?」
大きな手で両頬を挟み、顔を覗き込みながら囁くが、ぼんやり見詰め返す瞳に感情の揺らぎはない。
「答えてくれ、カミュー……」
訴えるように言い募り、さっきまで思うがままに蹂躙していた身体を抱き締める。すべての力を抜き取られたようなカミューは、ただマイクロトフの情念の納まるのを待つとばかりに身じろぎひとつしなかった。
しなやかな背中を弄っていた掌が次第に移動し、引き締まった脇腹を撫で、汗に湿った下腹にたどりつくと、カミューはようやく口を開いた。
「──────もう戻れ」
余計な装飾の無い、簡潔な言葉。けれどマイクロトフには絶対の服従を要求する支配者の声。
マイクロトフは名残惜しさも剥き出しに、すでに嵐の過ぎ去ったカミューの証をひと撫ですると、もう一度軽くくちづけてから身体を離した。
衣服を整えていく彼を、鈍い視線が見守っている。
かつてそこから溢れていた愛情を、もはやマイクロトフは忘れそうだった。
見詰められるだけで温かな幸福に満ちた日々。
それはいつしか胸苦しいときめきへと変わり、最後に噴き出す情動となった。
そして、今────
カミューの視線に込められたものが何であるのか、マイクロトフにはわからない。暴力で身体を開いた者への憎しみか、己の言葉に諾として従う者への侮蔑か。あるいは、失われた友への惜別か────。
そのいずれもが当てはまるようでもあり、また、違うようにも思う。
マイクロトフは一度だけ振り向いて、ベッドに半身を起こしたままのカミューを窺った。氷の彫像のような美貌には、やはり読み取れる感情は浮かんでいない。
怒り、憎しみ、悲しみ。
およそ彼には似つかわしくない感情。
だが、おそらく彼の心で重く淀んでいるはずのそれらの想い。
こうした関係を強いるのと引き換えに、与えられることを覚悟していた負の感情を、カミューは何処で消化しているのだろう……──?
「………………おやすみ」
小さな声に、答えは無かった。
ただ、ゆっくりと閉ざされていく扉の向こうで、カミューがいつまでも自分を見詰めていたのが妙に心に残った。
わたしが欲しいのなら、おまえにやる。
代わりにおまえのすべてをよこせ。
暴力で手に入れた青年が、その誇りを守るために口にした言葉。
屈服させられた記憶を覆うため、相手を支配して優位に立つ。それがカミューの最後の矜持であり、意地だったのだと思う。
けれど最近になってマイクロトフはその意味に疑問を抱き始めていた。
表向き、カミューの態度はまったく変容していない。同じ騎士団長として言葉を交わし、政策や近隣諸国の情勢に論議を戦わせる。
廊下で顔を合わせれば穏やかな笑みを浮かべ、片手を上げて応じてみせる。訓練に出会えば明るく励まして去っていく。
だがそれは、すべて第三者の目を意識してのことだ。あれほど親しく過ごしていた二人が突然関係を違えれば、当然周囲は訝しく思うだろう。それを危ぶんで行われる、滑稽な儀式なのだ。
他の誰が気づかなくとも、マイクロトフにはわかる。
カミューの目は笑っていない。あれほど間近で見詰め続けてきたのだ。美しい琥珀に宿っていた親愛が今は枯渇していることくらい、どうしてわからぬことがあろうか。
もともとカミューは優しげな表情で周囲を韜晦することに長けていた。誰にでも均等に笑みを零す代わりに、決して深くは交わらない。
唯一の例外がマイクロトフだった。
困った奴だと苦笑を洩らし、他者には見せない感情を曝す。それがカミューの真なる友情の証であり、情愛の発露だったのだ。
なまじ態度が変わらぬだけに、落差は大きい。親しげに声を掛けてくる彼の瞳に潜む陰は、マイクロトフを凍らせるほど冷たく暗かった。
そこにあるのが純然たる憎悪なら、まだ理解できた。
暴力で自らを犯した者を、許せぬままに交友を続ける。その葛藤が非難となって現れているなら楽だった。それは正常な思考であろうし、与えられる憎しみにも耐える覚悟で踏み出したのだから。
だが憎悪も軽蔑も、ましてや愛情の欠片さえない骸のような視線を向けられるたび、マイクロトフは混乱に苛まれる。支配──それはどういうものなのだろう。
彼は肉体を自由にすることを許す代わりに、すべてを差し出せと命じた。けれどよくよく考えてみれば、それは何と意味のない取引であることだろう。
マイクロトフはとうの昔にカミューにすべてを捧げていた。
心も、身体も、命さえ。
彼への想いを自覚したときから、マイクロトフの持てるものすべてはカミューのものだったのだ。
死ねと言われたら死ねただろう。あの夜、幾度も機会を与えた。彼が自分を殺せないなら、自ら命を絶つことも厭わなかった。
死んでも許さない、そう呟きながら彼はマイクロトフの誓いを受け入れた。あのとき、彼はどういう気持ちでそれを口にしたのだろう。
生きて苦しめということだろうか?
確かに現在、マイクロトフは苦悶している。肉体を得てしまったことにより、更に欲深くなる己を認め、業にのた打ち回っている。
身体を繋げ、ひとときの狂乱に酔った後は、いつも死体を抱いたような後味の悪さを覚えた。
感情のないカミューの瞳に見詰められるたび、心を得られぬ惨めさに苦悩した。
それを承知でいたはずの自分に、何処までも救われない強欲な自分に。
かつて当たり前のように行き来していた部屋を、カミューが訪れなくなって久しい。足を運ぶのは常にマイクロトフだ。特に締め出されたことはない。すでにノックの仕方だけでわかる相手を、カミューは無表情に迎え入れる。
激しく掻き抱いてベッドに倒しても、一切の抵抗もしなければ、拒絶の言葉も上らせない。ただ男の激情が通り過ぎるのをぼんやり待っているだけである。
捩じ伏せられた記憶がさせるのか、ベッドでの彼は常に従順だった。無駄だと悟っているように、頑なにシーツを掴み締めて、長い拷問に挑む囚人のように目を閉じている。
どれほど激しく奪っても、その腕がマイクロトフを押し退けるために使われることはなかったし、まして抱き縋ることもなかった。
行為の後ですら必要最低限の言葉しか口にせず、それでいてマイクロトフを責めるひとことも紡がない。一切の関心を失っているかのようなカミューの反応は、マイクロトフを焦燥に追い込むばかりだった。
愛する者の肉体を得る幸福な暗闇。
そして愛する者の世界から弾き出される絶望の困窮。
──まさに今の自分に相応しい地獄ではないか。
マイクロトフはうっすらと笑みながら、静かに自室へ戻っていく。その足取りは僅かに重く、廊下に伸びた長い影は肩を落としていた。
「……最近、少々お疲れのご様子ですな」
横に並んだ副長が、気遣わしげに声を掛けた。マイクロトフは肩を竦め、軽くいなす。
「気のせいだろう」
「しかし……お顔の色が冴えませんぞ」
なおも言い募る年嵩の副長に、彼は苦く笑った。さすがに始終行動を共にする相手には、隠せることとそうでないことがある。自らを苛む日々の苦悩は確実にマイクロトフの頬を削ぎ、目を濁らせていく。
そうした上官の変化のすべてを理解できなくても、思わずといった調子で洩れた言葉なのだろう。マイクロトフはその聡さに微かな憤りを覚えた。理不尽な感情だと思いつつ、今は放置しておいて欲しい気持ちで溢れている。
彼の沈黙に、副長も何事か察したように口を閉ざした。そのまま無言で廊下を進んでいたが、ふと彼は気を取り直したように明るく呟いた。
「おや…………カミュー団長…………」
回廊に囲まれた中庭の片隅のベンチ、そこに赤騎士団長が腰を落としている。マイクロトフも足を止めたが、即座に眉を顰めた。
カミューの隣には一人の青年が座っていた。まだ十代の終わりといったところか、一般人の衣服を身に付けた青年は、やや頬を染めて熱心にカミューを見詰めている。
だがマイクロトフはむしろ、カミューの表情に目を奪われていた。
もう長いこと見ていない、安らいだ顔つき。自分よりもほんの僅かに目線の高い相手を見上げる眼差しは温かい。口元には柔らかな笑みが浮かび、それが余所行きのものでない証拠に、時折青年の肩を小突いたりしている。
それはかつてマイクロトフに与えられていたものに等しい、紛れもない親愛の仕草だ。マイクロトフは愕然として、その光景に見入るばかりだった。
「……これはまた、随分と親しげな…………誰でしょう、ご存知ですか?」
「────いや」
「入団希望者……、それとも赤騎士の身内でしょうか」
邪気のない副長の言葉に、喚き出しそうな己を必死に抑えた。
「…………似ておりますな」
「え?」
「昔の────、まだ十代の頃のマイクロトフ様に」
「おれに……?」
副長は頷いた。
「あの黒髪、身体つき……何やら生真面目な表情まで、昔のマイクロトフ様を彷彿とさせます」
何処か沈んだ様子の上官を案じるためか、殊更に明るく話題を展開させた副長だが、すぐにまた押し黙った。己の言葉が更にマイクロトフを暗い顔にさせたのを敏感に感じたのだろう。
「あの……マイクロトフ様……?」
マイクロトフははっとして、怪訝そうに見上げる副長に視線を合わせた。懸命の自制で自らを取り繕うと、何気ない口調で言った。
「おれも昔、騎士団長などを前にしたら、あのように緊張して見えたのだろうか?」
「無論ですとも」
ほっとしたような副長が、詰めていた息を吐き出した。
「マチルダの騎士や人々にとって、騎士団長とは憧憬と崇拝の象徴ですから。そうですな、わたくしなどは………………」
一足先に足を進めだしたマイクロトフを追うような形で話し掛ける声も、いつしか遠くなった。
マイクロトフの胸に生まれた感情は、以前カミューが女性と同伴しているのを目撃したとき以上の荒々しい憤りだった。憎悪と紙一重とさえ思われる熱情を、もやは押し止めることはできそうにない。
真っ直ぐに前を見据えた瞳には何も映らない。唯一、心を許したようなカミューの懐かしい笑顔がどす黒い情念と共にちらついていた────。
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