幸福な隷属
友────、それは幼く無垢な響きだった。
朋友───、それは力強く正しい、騎士たる者に相応しい響きだった。
親友───、それはまやかしと欺瞞に満ちた、長い苦悩の響きだった。
友情なんかじゃない。
信頼なんていらない。
おれが真実欲しかったのは。
「カミューを知らないか?」
問い掛けられた赤騎士が、少し考えてから答えた。
「……城の東の丘ではないでしょうか。時間が空くと、よくあそこで寛いでおられますから」
「……そうか」
軽く感謝の手を挙げて、マイクロトフは踵を返した。
まただ。苛立ちにも似た寂寥が込み上げる。
城の誰もが、彼をあの青年の唯一無二の親友だと認めている。同じ日に騎士のエンブレムをつけて以来、ずっと共に歩んできた。同じように地位を上り詰めた。
カミューの横に相応しいのは、青騎士団を率いる彼一人。誰もがみな、そう言うことだろう。
だが、現実はこんなものだ。所属が分かれ、まして一団の地位を極めた二人では、双方が出来る限りの努力をせねば、あっという間に未知の領分が広がっていく。
他人に聞いて、初めてカミューの行動を知る。はじめのうちは、それも致し方ないことと諦めもした。けれど日毎に募る焦燥を、不器用なマイクロトフには処理するすべがなかった。
日に一度は顔を合わせている。そのたびに、会えなかった時間に狂おしいまでの憤りを覚えるマイクロトフとは違い、あの美しい親友は、誰もが魅了される綺麗な微笑で彼を迎える。こいつはおれと一緒でなくても構わないのだ。
そう感じ始めたのはいつだっただろう。元来カミューは自分のことをあれこれ話す男ではないが、離れていた時間を埋めようと必死になって口を開く彼を、苦笑混じりに静かに見守るばかりだ。
カミューの好意は疑いようがない。彼は大抵誰にでも優しく穏やかであるが、その分関心が薄い。それがマイクロトフの持つ印象である。ならばその、その他大勢には見せない苦笑を向けられるだけ、自分は特別なのだと無理矢理納得しようともした。
だが、そこまでだ。
カミューはいつか自分から離れていくだろう。ただでさえ女性には絶大な魅力ある存在なのだ。
いつか、気まぐれな彼の心を捉えた女性が、自分からカミューを引き離していくだろう。
友人なら、それを笑って喜んでやるべきだ。
友情なら、相手が妻帯しても終わらないはずだ。
それが出来ないのは、自分が友人ではないからだ。
認められないのは、友情などではないからだ……。
マイクロトフは教えられた通り、ロックアックス城を出て東、小高く街を見下ろす丘に向かった。
ロックアックスは自然の要塞の如く山肌に造られた街だ。その至るところに遥か眼下を見下ろす小ぶりな見晴台のような場所がある。そこにはベンチが設けられ、人々の憩いの場となっていた。
しかし、教えられた丘は城に近いこともあり、一般の市民はほとんどやって来ない。設えられたベンチに腰を下ろしているのは、果たしてマイクロトフが捜し求めていた人物だった。
ほっと微かに弾む胸を覚えながら声を掛けようとしたとき、マイクロトフの足は竦んだ。
カミューの横に、乙女が一人。
頬を染めて真っ直ぐに彼を見つめる、それは恋する者の眼差しだった。
マイクロトフは愕然とした。カミューは乙女に向かって幾度か頷き、時折楽しそうに笑っている。以前はこうした光景をよく目にしたものだが、ここ最近は団長職に就任したことの忙しさからか、彼の女性の噂を聞いたことはなかった。だが、久々に見る女性同伴のカミューは、まさに一つの絵のように、完璧な芳香を放っていた。
ともすれば横の乙女よりも整った顔立ち。柔らかな赤味がかった栗色の髪が、ロックアックスを吹き上げる風に微かになびいている。色白な肌に似合う真紅の騎士服、ほっそり伸びやかな肢体。
剣を握れば無類の剣士でありながら、何処までも優雅でたおやかな若き赤騎士団長。
マイクロトフは目眩を感じ、彼らから背後にあたる大木の影に身を潜め、そのまま二人を見つめた。
乙女は薄紅に染まった頬を両手で包み、恥じらうように俯いた。何やらカミューがからかったのだろう、彼女は可憐に幾度も首を振った。それから、おずおずと一通の封書をカミューに差し出す。
かなりの厚みをもったそれを、カミューはにっこりしながら受け取って、懐深く納めた。
マイクロトフは意識のすべてから二人を遮断し、くるりと背を向けて歩き出した。
城へと戻る足取りは速い。そのうちに、駆け出しそうになっている自分に気づいて歯噛みする。何故おれが。
どうしておれが逃げ出さねばならないのだ。
まるで情事の最中にでも出遭ったかのように、こんなにも慌てて遠ざからねばならないというのだ。耳を塞いでも、カミューと乙女の笑い声が聞こえるような気がした。
そんなものは、一欠片とて聞こえはしなかったのに。
必死の自制で足を止めた彼は、城の固い岩壁を右手で激しく殴りつけた。ぱらぱらと小さな石の欠片が伝い落ち、大切な利き手は薄く血に染まった。
だが、痛みは感じない。
痛むのは、カミューを見たこの二つの目。
カミューの笑い声を聞いたような気がした耳。
そして、暗い憤りを確かめてしまった胸だった。
「マイクロトフ、いいかい?」
涼やかな声を掛けてカミューが部屋を訪れたのは、一日の任務がすべて終わり、ロックアックスが闇に閉ざされた頃だった。
彼は、ぼんやりと窓辺に座り込んで外を見ているマイクロトフに僅かに意外そうな顔を見せた。「ああ、よかった。おまえは夜が早いから、もう眠ってしまったかと思ったよ」
いつものように優しい微笑み、女に見せていたのと同じ笑み。
……白い顔を引き裂いてやりたい。「実は今日……、少し面白いことがあってな」
いつもと変わらぬ穏やかな声、女に聞かせていたのと同じ声。
……その口を塞いでやりたい。「城の東に丘があるだろう? 最近、あそこで暇を潰すことにしているんだが、珍しい訪問者に会って」
優雅な仕草で椅子を引くしなやかな腕、その腕で女を抱き寄せるのか。
……縛り上げて身動き出来ないようにしてやりたい。「聞いているのか、マイクロトフ?」
カミューが怪訝そうに眉を寄せる。マイクロトフは窓から顔を逸らせ、ゆっくり振り向いて笑った。
「……ああ、聞いている。それで?」
声の調子に何か感じるものがあったのか、カミューは僅かに逡巡したが、すぐに思い直したように会話を続けた。
「あそこはあまり待ちの人間が登ってこないだろう? だから好んで使っていたんだが……、今日は一人のレディが先客でな、あれこれ話し込んでしまったよ」それの何処が面白い?
マイクロトフはうっすらと笑みを浮かべたまま頷いた。「それで……これなんだが」
カミューが胸元から出したのは、一通の封書だった。確かにあのとき、乙女が彼に渡した書状だ。意味がわからず眉を顰めたマイクロトフに、カミューはいかにも可笑しそうに告げた。
「おまえに、だとさ」
「……何?」
「預かったんだ。そのレディはな、どうやらおまえにご執心らしい。あそこなら騎士がうろうろしているだろうから、誰かに言付けられないかと思い詰めてやって来たそうだ」
マイクロトフは目を見張った。差し出された封書が二人の間に浮いている。受け取ろうと伸ばされもしない手に、カミューは苦笑しながら言い募る。
「……受け取ってやれよ。考えてもみろ、年頃のレディが必死に思いを綴って、わざわざこうして届けに来たんだぞ? 男冥利に尽きるってものじゃないか?」
それでもマイクロトフは動かなかった。
乙女の思慕の先にいたのはカミューではない。だがそれは、何の気休めにもならなかった。むしろ、彼がこうして平然と恋の橋渡しをしようとしていることに目の前が暗くなる。
「……ほら、受け取ってやれ。別に減るものでもないだろう? それで少しでも心を動かされたら、一度くらい会ってみてやったらどうだ? 少し話して感じたが、悪くない娘だったぞ。おまえのように不器用な男には、あれくらい積極的ではっきりしたレディが似合っている」
おまえが離れていくのを恐れていた。
なのにおまえは、おれに離れていけと命じるのか。
おれに他人をあてがって、おまえは何も傷つかないのか。
おれだけなのか、こんな思いに苦しんでいるのは。こんな汚い、泥まみれの感情にのたうっているのは。
「マイクロトフ……?」
いつまでも無言の彼に、やっとカミューは不審を感じたようだった。突き出していた封書を困ったように一瞥し、躊躇いがちにテーブルの上に置く。
「まあ……、気が向いたら読んでやれよ」
だがマイクロトフはゆっくりと足を踏み出し、その封書を取り上げると、一気に二つに引き裂いた。カミューが驚いて見守る中、乙女の真摯な告白は、千々に砕かれて床に落ちていった。
「な……何をするんだ!」
カミューは狼狽したように声を上げる。たとえ意に沿わぬとしても、マイクロトフがこんな乱暴な真似をするとは予想だにしていなかったのだろう。立ち上がり、止めようと伸ばされた手の間からも小さな紙切れは雨のように零れ落ちた。
「どういうつもりだ? 幾らなんでも……この娘がどういう思いでこれを書いたか、わからないのか?」
恋愛には殊更不器用な男。彼は自分の決めたおれの姿を信じている。マイクロトフは冷たく笑った。
「……わからなくもない」
「だったら、何故!」
珍しく語気も荒く詰め寄るカミューの手首を取った。
「独り善がりの自己満足。駄目でもともと、上手くいけば幸運。わかっているさ、カミュー……」
「マイ……」
友人の口から洩れたとは思えない冷酷な言葉。それがカミューから顔色を失わせる。
誰よりも生真面目で無骨な騎士。だが、思い遣りと誠実さは人一倍強いはずの男。
自分の中のマイクロトフと、目の前の男の姿が微妙にブレ始めているのだろう。カミューは戸惑いを隠せない、複雑な色の目をしていた。
「おれには必要ないものだ。いらないから、破って捨てる。それの何処が悪いんだ……?」
カミューの困惑は更に深くなったようだった。しっかりと握りこまれた手首を取り返そうと、微かに力が込められた。マイクロトフはそんな小さな反応をも見逃さなかった。即座にいっそうの力で彼の手首を握り直す。
「マイクロトフ……、手、離せ……」
「……………………」
「痛い」
「……嫌だ」
あくまでも静かに微笑むマイクロトフに、やっとカミューは本能的な危険を感じ始めたように強く命じた。
「離せ、マイクロトフ」
「嫌だと言っている」
「マイクロトフ!」
焦れたカミューは勢いをつけて手を振り解こうとした。が、一瞬早くマイクロトフは彼を引き寄せた。厚く逞しい胸に取り込まれて、それでもカミューは何が起きたのか理解出来ないようだった。
やや呆然としているように見える彼の顎を空いている片手で掴むと、マイクロトフは束の間苦悩に顔を歪めたが、そのまま覆い被さった。
初めて触れる唇は、しっとりと熱を持っていて、柔らかくマイクロトフを迎えた。驚きに見開かれているカミューの目を感じながら、無理矢理舌先で歯列をこじ開ける。
「…………っ!」
カミューは男の胸元に閉じ込められた両腕を突っ張るようにして、マイクロトフを押し退けようとした。その抗いを、背中に回した片腕で押さえ込み、なおも強く抱き締める。
男の肉体と、強く太い腕に完全に挟まれたカミューは、今度は顔を背けることで逃れようとした。
「…………やめろ!」
顔を仰け反らせてくちづけから逃げたカミューは、鋭く叫んだ。
「何をするんだ、マイクロトフ!」
顔を捩じ曲げたことによって目前に曝された白い喉首に、マイクロトフは己の衝動が確信に変わるのを悟った。顎を捉えていた手を離すと、背後からカミューの後頭部を押さえ、曝された喉元が失われないように固定する。
そこに唇を押し当てたとき、カミューがはっきりと戦いたのがわかった。すべらかな肌を一度舐め上げてから、きつく吸い上げる。肌に感じる歯の感触に怯えたのか、カミューの抗いは弱まった。
堪能するまで貪り吸い、ようやく解放した首筋には、青みを帯びた紅の花が咲いていた。
所有の証。もう何処へも逃がさない。
顔を覗き込み、カミューの初めて見せる表情に満足した。
親友が、見知らぬものに変貌したことをまだ信じられずにいる。悪い冗談ではないかと探っている。
夢であってほしいと願っている…………。「どういう……つもりだ……」
未だ笑みを崩さぬまま、拘束している腕に更に力を込めた男に、カミューははっと息を飲んだ。これだけ密着すれば隠しようがない、すでに熱くいきり立っている雄の欲望。
カミューの顔色が目に見えて変わっていく。
「マイクロトフ、離せ!」
「……さっきからそればかりだな、カミュー」
指先で陶磁器のような頬をひと撫でして、嘲笑うように彼は続けた。
「嫌なら自分で逃げろよ。命じれば、おれが何でも言うことを聞くとでも思っているのか……?」
ふと、カミューの双眸に怒りが燃え上がる。見慣れぬ感情の煌きを、心から美しいと思った。だが、そんな感傷も、次に起きた死に物狂いの抵抗を封じ込めるために四散した。
細いながらも男の力だ。いくら体格差があっても押さえ込むのは容易ではない。激しくもがくカミューを逃さないように抱きかかえるうちに、テーブルは倒れ、椅子が転げた。
その凄まじい反抗に焦れたマイクロトフは一歩、二歩と足を進めた。抱えられながらも必死に暴れていたカミューだったが、彼の進む先に気づいたとき、細い悲鳴のような叫びを洩らした。
「嫌だ…………!!」
室内の一番奥に設えられたベッド。マイクロトフが力づくで引き摺っていこうとしているのは、まさにそこなのだ。さすがにカミューは自身に襲い掛かろうとしている絶対の危機には敏感だった。
どれほど抵抗されようと、マイクロトフはゆっくりと、だが着実に目的を果たそうとしていた。
振り払おうと、勢いをつけてもがいたカミューの体勢が僅かに揺らいだのを見計らい、一気に距離を詰める。ついにベッド脇まで押しやられて最後の足掻きとばかりに滅茶苦茶に暴れるカミューに閉口し、足払いを掛けた。一瞬宙に浮いた彼ごとベッドに身を投げ、逞しい肉体で押さえ込む。
見たこともないほど息を切らせ、額に汗を滲ませながらマイクロトフを睨み上げたカミューは、それでもまだ信じられないといった貌を見せていた。
どうして友が、突然こんな真似を。その表情は雄弁だった。
マイクロトフはもう一度自分の心に問い掛けた。
衝動ではない。錯覚でもない。
確認と同時に侵略を開始した。
カミューのマントを毟り取る。続いて肩当てのベルトを外そうとすると、カミューはその手を掴み締めた。それを乱暴に払い除け、両手を一纏めにシーツに押さえた。未だに必死にもがいているが、先程の争いで消耗したのか、彼の抵抗はかなり弱まっている。
マイクロトフは片手で二つのベルトを外し、一旦カミューを引き上げるようにして肩当てを放り捨てた。そして再度、手首を掴んでベッドに押さえつける。カミューは荒い息のまま顔を背けた。
「…………わたしは男だ」
「ああ、少なくとも女には見えないさ」
薄ら笑いを浮かべた頬に、カミューは振り解いた掌を飛ばした。
乾いた音を立てた一撃に、だがマイクロトフは些かの怯みも見せない。かえって殴ったカミューの方が、はっとしたように顔を歪ませた。
こんなふうに感情的に、暴力に訴えたことなどないのだろう。まして相手はついさっきまで親友と信じていた男だ。むしろ自身が痛みを覚えたように眉を寄せるカミューに、マイクロトフは優しく囁いた。
「……中途半端な優しさは諸刃の剣だぞ、カミュー」
言うなり、今度は彼が大きく拳を振り上げる。カミューは殴打を迎えるため、きつく目を閉じ顎を引いた。
ただでさえ力には定評のあるマイクロトフだ。出来る限り衝撃を減らそうと身を縮めるカミューは、確かに恐れを漲らせていた。
いっこうに落とされない拳に目を開けた彼を、殴打の構えのままマイクロトフはじっと見下ろした。
「おれが……おまえを殴るとでも思うのか……?」
ゆるゆると下ろされた拳がまたも頬を撫でる。
殴りつけて服従させられる相手なら、もっと楽だっただろう。
けれどもう、そんなことさえ出来ないほどに溺れている。捕われている。
カミューはおずおずと口を開いた。
「……マイクロトフ、どうして……」
どうして? マイクロトフは自嘲に唇を歪めた。
わかるまい、おれの気持ちなど。
どれほどおれが、長いことおまえを見ていたか。
「……おまえにとって、おれは何だ?」
「…………友…………、だろう?」
顔を背けたままカミューは低く答える。その声は微かに震えを帯び始めている。
「友、か」
マイクロトフはいっそう暗い怒りに身を任せた。おれは何処にでもいる友の一人。
あるいは少しは意味のある存在だったかもしれないけれど、おまえとおれとはこんなにも違う。
互いに向ける思いの比重は、どれほどおれを悩ませ、苦しめてきたことか。
誰の前でも綺麗に笑い、どんな女にも優しく振舞い。
おれに平然と女を勧めて、邪気なくするりと逃げようとする。
おれの気持ちなど知ろうともしなかったおまえ。
そんなおまえを、どれほど憎んでいることか。
…………………どれほど愛していることか。
「…………足りないんだよ、カミュー」
騎士服の袷に片手を差し込み、一気に引き毟った。
「それだけでは……足りないんだ…………」
身を重ねていったマイクロトフに、カミューは掠れた声でもう一度だけ叫んだ。
「どうして…………!!」
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どどどどどうしよう(笑)
何も申しません、どうなさいますか?