それもまたひとつの選択 3
執務室を出て廊下を進み、奥まった騎士団長私室を目指す。
三年程前には日課の如く辿った経路だが、騎士となってからの距離は果てしなく遠いものだった。
こうして胸を張って入室の資格を得た上、これ以上望むべくもない役割までも運に味方されてもぎ取ったミゲルには、いまや青年騎士団長の懐かしい笑顔しか見えない。
そっと扉を開き、室内に足を踏み入れた彼は、以前と変わらぬ整然とした居住まいに安堵した。
部屋の奥に置かれた机には誰から贈られたものか、真紅のバラが朝陽に照らされ艶やかに輝いている。
────遠い記憶の中に燻る微かな痛み。ミゲルはゆっくりと目を逸らせた。
次に視界に捉えたのは、落ち着いた色合いの壁である。足音を顰めて歩み寄り、そっと指先でそこをなぞった。
カミューと初めて剣を交え、無残に敗れた自分。手放した剣が突き刺さって出来た壁の傷────
そう言えば、修復作業は巧くいかなかった。
苦笑しながら思い出す。
剣が抉った傷に粘土を埋め込んで、壁と同じ色で塗り上げる。ただそれだけの作業なのに、ひどく時間が掛かったのを覚えている。
慣れない仕事だったこと以上に、不貞腐れて渋々の行動だったのが原因だろう。当時のカミューはソファに寝そべりながら、呆れ果てた様子で文句を言っていたものだった。
今考えれば、あれも気を引きたい一環だったのか。
自分を見詰めるカミューの目、自分だけに注がれる意識。何と贅沢な時間だったことだろう。あの頃の自分はそんなことも気づかずに、悪態をついては彼から目を背けようと努めていた。
何と子供だったことか。
最初から捕らわれていたのに────穏やかで静かな姿に隠された、強く息づく炎の影に。
纏う緋色にも似た、激しいまでの情熱に。
ミゲルは今も胸を締め付ける想いを押し殺し、再び視線を巡らせた。
部屋の最奥、天蓋に守られた空間に、思い焦がれた人が眠る。彼の安らぎを独占出来たなら、どれほど幸福だっただろう。
静かに近寄る一歩ごとに、跳ね上がる鼓動が耳腔にけたたましく鳴り響く。薄く開かれた窓から流れ込む風、柔らかに舞う薄布に手を掛けたときには眩暈がしそうだった。
「────カミュー団長」
呼び掛けた声は掠れ、哀れなほど震えていた。恋はこれほどまでに人を臆病にさせるのかと改めて感嘆するほどに。
「カミュー団長……?」
応えがないのに思い切って天蓋を払って────
────絶句した。
「……………け、結構……凄いな……」
────寝相が、である。
広い寝台の上、幸福そうに眠るカミュー。
たっぷりした夜着に包まれたしなやかな両腕は、丸めた上掛けをしっかりと抱き締めている。
はみ出した片脚は夜着の裾が捲れ上がり、脛から先が露出していた。細く引き締まった足首、隆起するくるぶしや細い指の先の貝殻のような爪まで、普段人目に晒されることのない神秘を前に、ミゲルはしばし陶然として立ち尽くした。
布が遮っていた陽光が、ミゲルをすり抜けてカミューに注ぐ。煌めく朝陽は白く透き通ったうなじにくちづけ、産毛を金色に輝かせた。
「団長、朝です。起きてください」
「……んー……」
やや身を屈めて囁くと、カミューはきゅっと眉を寄せていっそう縮こまっていく。
「カミュー団長、起きてください」
「────…………嫌だ」
「い、嫌と言われても……」
殆ど反射のように洩れた拒絶に狼狽し、ミゲルは僅かに声を荒げた。
「朝です! つとめの刻限です!!」
「………………うー…………」
そこでカミューは抱え込んでいた上掛けを離してころりと寝返りを打った。相変わらずしっかりと目を閉じたまま。
うっ、と思わずミゲルは込み上げる感動の声を発しかけて慌てて口元を塞いだ。もともと襟の開いた夜着ではあるが、どうやら夜通しころころと転げた所為か、ボタンがひとつ外れているのだ。
覗いた鎖骨の窪みが何やら痛々しく感じる。
象牙のような肌も、伸びやかな四肢も、屈強の男たちを束ねる指導者とは思えない。それは三年前に抱いた印象と変わらなかった。
にも関わらず、彼は誰よりも強い輝きで周囲を跪かせる騎士団長なのだ。剣の冴えも意志の強さも、他者の追従を許さぬ絶対者なのである。
だが、この無防備な寝姿はどうだろう。
よほど安心しきっているのか、これほどまじまじと見入っている視線に目を覚ます気配もない。これが戦場ともなれば、早朝だろうが深夜だろうが凛とした指揮官であるのだから、まったく調子を狂わされる。並居る騎士隊長たちも、そんな落差に魅了されて起床係を争うのだろう。
────それにしても。
「いい加減に起きてくれないかな……」
ミゲルはぼやいた。
この様子では起こしに来たのが自分であることも理解していないようだが、これは少々まずいのではないだろうか?
他の騎士隊長はともかく、本気の恋情を抱えた人間を前にして、この無頓着極まりない寝姿はどうだ。これでは『襲ってください』と言わんばかりではないか。
「人の気も知らないで、呑気に寝てないで下さいよ……」
微かに開かれた唇。淡い色を佩く其処にくちづけた遠い日を胸苦しく思い出す。歳月を経ても色褪せることのないときめきと切なさが、ミゲルの視界を霞ませた。
「……起きて下さい、カミュー団長……」
身を屈め、息が届くほどに近づいてみる。柔らかな呼気が驚くほど熱い。この熱を独占出来る男を思い、知らず嫉妬が胸を焦がした。
「────キス……しますよ……?」
片手を寝台につき、ゆっくりと覆い被さりながら囁く。
今すぐ目覚めて欲しい。
でないと止まらない。
あれほど堅く誓ったのに────恋を忠誠に塗り替えるのだと。この人の横に立つのは青騎士団長ただ一人、決して自分ではないというのに。
無防備に眠る白い顔を、投げ出された長い手足をすべて得ることが出来たなら。
どれほど深く埋めたつもりでも、これほど容易く想いは蘇ってしまう。
「カミュー団長────」
吐息が鼻先を掠め、あと僅かで唇が触れんとした刹那。
ミゲルは顔の下半分に凄まじい衝撃を受けた。
「むごっっっ!!!」
殆ど跳ね飛ばされるようにして寝台の下に転がった彼は、打ちつけた口元を押さえて必死に苦痛を堪えた。涙目で見遣った寝台の上では、赤騎士団長が額を押さえてうめいている。
「……っ、何だ、いったい────」
肘で半身を起こした青年は、不機嫌極まりない口調で叱責した。
「痛いじゃないか!」
────それはおれの台詞です。
言いたかったが、まともに声も出ない。そのうちに頭突きを見舞った赤騎士団長がぼんやりと視線を巡らせてきた。
「何だ、おまえか」
「……おまへか、じゃありまへんよ……」
のろのろと床に座り込み、ミゲルは恨めしげにカミューを見上げた。
「タオル」
カミューは膝を抱えて額を埋めると、短く命じた。
「はひ?」
「浴室でタオルを絞ってきてくれ」
「はあ……」
未だ眩暈のする身体を叱咤し、ミゲルは立ち上がった。言われた通り、部屋続きの浴室でタオルを濡らして持ち帰る。無言で差し出すと、カミューはミゲルを見もせずに受け取って顔を覆った。
「────今朝はおまえが目覚まし係か……ひどい起こし方だぞ」
「────………………それはどうも」
こんな口の聞き方は許される間柄ではないだろう。だが、どうにも数年前に親しく接したことが脳裏をちらつき、礼節を通すことが難しい。他の騎士隊長らの言葉遣いに倣おうにも、巧くいかないミゲルである。
まして────
カミューと直接言葉を交わすのは何年ぶりのことだろう。時折愛想程度に声を掛けられることはあっても、それは騎士団長が自団の部下に対する呼び掛けに過ぎず、会話の域になど到底達しないものだった。久々の会話はミゲルを戸惑わせ、どう接したらいいのかさえ覚束ない。
「……どうでもいいが、殺気で起こすのは勘弁して欲しいな」
不意に言われて困惑に瞬く。
「殺……気……?」
「────身の危険を感じた。城で寝ているときくらい、穏便に起こせ」
────おれの真心は殺気か?
思わず叫び出しそうになるが、ふと、のびやかに四肢を伸ばしたカミューに目を奪われて押し黙る。
寝乱れた柔らかな薄茶の髪を掻き上げる仕草、膝を抱えたままゆっくりと向き直る美貌の騎士団長。寛いだ様子がひどく幼げで、こんな彼を見るためならば騎士隊長らが毎朝必死になるのも已む無しと改めて実感させられる。
カミューはそこで何気なく自身を見た。弾け飛んだボタンに目を止め、不穏にミゲルを見る。
「………………おまえか?」
「じょ、冗談じゃありません。おれが見たときにはすでに外れていました!」
「────見たのか」
「うっ…………」
カミューはしばしミゲルを睨み付けていたが、やがて笑い出した。からかわれて、いいように手玉に取られているのを悟ったミゲルは、悔し紛れに毒づいた。
「……これでおれも晴れて団長の起床係とやらに任ぜられる資格を得たようですが、正直、気が気じゃありませんでしたね。ここでマイクロトフ団長と鉢合わせしたらどうしようか、と」
「馬鹿だな」
カミューはさして気を悪くしたふうでもなく、のんびりと応戦した。
「マイクロトフがここに泊まるときにはランドにそう伝えておく。それにどうせ、あいつはもっと早くにすっ飛んで訓練に出ていくから、別段支障はない」
「そ────そうですか」
はからずも自身の胸を抉ってしまった格好となって、ミゲルは悄然と項垂れた。しばらくして、穏やかな声が言った。
「…………何を誤解しているのか知らんが、多分……おまえの考えていることとは別物だと思うぞ? あいつの苦手な世情のレクチャーだの、新種のワインの吟味だの……夜の過ごし方は幾らでもあるからな」
「そ、そうですか?」
ぱっと顔を上げ、我ながら分り易いと苦笑する。案の定、カミューは子供でも見る目つきで笑っていた。が、すぐにその笑顔が曇った。
怪訝に思ったミゲルをそっと手招く。
「…………?」
呼ばれるままに寝台に身を寄せ屈み込んだミゲルは、しなやかな腕が自身に回されるのに呆然とした。
目の前に薄茶の髪が広がり、頬に温かな吐息を感じ────
唇の端に濡れた感触が走った。
────え……?
ゆっくりと身を離したカミューが呟いた。
「────血が出ていた。すまない、頭突きの所為だな」
火を吹きそうな羞恥が全身を走り、ミゲルは飛び退った。
「な…………な…………な…………」これは、所謂キスに等しいのではないか?
人の唇を舐めておいて、カミューはにっこりしている。自分の行為にまったくそうした意識がないらしい。
「あとで鏡を見ておけ、性悪なレディに噛みつかれたと噂が立たないように祈っている」
そこまで言うと、終に堪え切れなくなったといった様子で肩を震わせて膝に突っ伏す赤騎士団長である。
ミゲルは唖然としてそんな彼を見詰め続けた。
────人を子供扱いして、その実、より子供じみているのは彼ではないか。
自分に恋情を持った相手を無邪気に唆しておいて、罪なく笑って終わらせようとするなんて。
「畜生、次は────」
「ん? 何だい?」
「────いいえ、何でもありません」
…………次こそは。
ミゲルは不敵に笑って首を振った。「さて、そろそろ起きるか」
「さっさと起きて下さい。刻限は過ぎています」
「そう言うな、平時くらいは好きにさせてくれ」
「────好きになさり過ぎだと思います」
「……おまえは案外、生真面目だね」
カミューは笑いながら立ち上がった。
「それでは着替えよう。覗く気がないなら出ていってくれないか?」
多少惜しい気もしたが、素直に頷いて、一礼しながら扉に向かって歩き出した。
「ああ────ミゲル」
立ち止まった彼を迎えたのは、優美な笑みを浮かべた青年騎士団長。すでに寝起きの茫洋とした様子は消え去り、夜着に包まれながらも威厳が漲っている。
その変化に見惚れ、ミゲルは目を細めた。
「……忘れるところだった」
「はい?」
「────……おはよう」
なるほど、これが騎士隊長たる地位の特権か。
崇拝する青年の鮮やかな変貌を見守る役目。確かにこれは選ばれた者だけが味わう甘美である。
「おはようございます、カミュー団長」
威儀を正して返しながら、ミゲルは至福に包まれた。
────取り敢えず、次のアミダも勝ってやる。
明日はどの場所を選ぼうかと思案に暮れて、若き騎士隊長は扉を閉めた。
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タイトル・もうひとつの「選択」とは何か?
答え:アミダの場所。
話は真面目に終わりましたよね?
一応ちゅーもどきも入れましたv
オプションで頭突きがついてますが(笑)
明日も頑張れ、ミゲリン!!
誇りは君と共にある〜vこんなもんでどーでしょ、いつきさん??
今回も姉妹Nに「指〜」と文句を言われましたが。