その年、マチルダ騎士団領は異常気象に見舞われていた。
すでに冬も近いというのに、連日真夏を思わせる猛暑が続き、ただでさえ北方の領地に住まう民は慣れない暑さに次々と体調を崩していった。
そんな中、いつも通りに元気に日々を過ごしているのは青騎士団第一隊長である青年くらいのものだろう。彼は本日も日課である自部隊の早朝訓練を終え、健やかにロックアックス城を闊歩していた。
どうにも部下の気力が失墜しているが、それもやむを得ないだろう。自分のペースを他人に強要してはならないと、最愛の赤騎士団長から常々言われている。よって、今朝の訓練は通常の半分ほどで切り上げた。
────それでも栄えある青騎士団・第一部隊は壊滅状態に等しかったが。
さて、部下を瀕死に追い込んだ隊長が進む先は赤騎士団長・カミューの執務室であった。
ここ数日、つとめの関係で顔を合わせていない。この暑さをカミューがどう凌いでいるか、流石に気になってたまらなくなったのだ。今朝こそ訪ねてみようと決意して、それでも日課は欠かさず果たすあたり、マイクロトフは実に信念に熱い男だった。
「カミュー!! 幾らなんでも、この時間ならば起きているだろう?!」
叫びながら扉を開けると、そこには赤騎士団の数名の要人が所在なげに佇んでいた。
「あ、……これは失礼を────」
「おお、マイクロトフ殿……今朝も訓練だったのか。熱心なことだな」
赤騎士団が誇る屈強の第一隊長も、酷暑にげんなりしているようだ。やや声に覇気がない。
「ええと……その、カミューはまだ寝て……?」
「そのことなのだが」
カミューの副官を勤める壮年の騎士が深刻な眼差しでマイクロトフを見詰めた。
「マイクロトフ殿、君は……カミュー様の好物を知っているか?」
「好物………………??」
はて、と首を傾げるマイクロトフに苦悩を込めた口調が語る。
「実は……この猛暑でカミュー様の食が落ちてしまわれて、ほとほと困り果てているのだ」
「カミューが……?」
「それだけではない」
再び第一隊長が物憂げに口を開いた。
「夜もろくろくお休みになれないご様子で、昨日からは終に枕も上がらなくなってしまわれて…………」
「そ、それは大事ではありませんか!」
驚愕してマイクロトフは赤騎士たちを凝視した。
まったくもって初耳である。
確かに赤騎士団の団結は三種あるマチルダ騎士団のうちでも筆頭といえた。ひとたび情報の隠匿を決議すれば、それは決して他騎士団には洩れないのだ。
それにしても、自他共に認める親友───正確にはそれ以上の関係だが───にまで隠すことはないだろうに。マイクロトフの憤慨はもっともだった。
「何故、昨日のうちに伝えてくださらなかったのです!」
「それが────」
一同は困惑げに互いを見回し、代表するかたちで第ニ隊長が答えた。
「カミュー団長が……『マイクロトフには内密に』と仰って……」
「そのような!」
思わず拳が震えたが、彼らは敬愛する上官の命に従っただけなのだと思い直して自制に努める。
「それで────いつから食事を取っていないのです?」
「かれこれ一週間にもなろうか」
副長が心底つらそうに首を振った。
「はじめのうちは無理にでもとお勧めしていたのだが、戻してしまわれる。知っての通り、吐き戻すのは体力を消耗するし、悪循環なのだ」
マイクロトフはやや考え込んだ。『知っての通り』と言われても、一度口にしたものを戻すなど、勿体無くて経験したことがない。ただ、あの美意識の高そうなカミューにして非常に苦しい作業であるだろうという認識しか浮かんでこなかった。
「お好きなものならば喉を通るかとも考えたのだが……」
「カミュー様は甘いものを好まれますゆえ、ケーキ類など運んでみたのですが、どうにも……」
第四隊長が顔を曇らせて腕組みした。
「そこで……もはや頼るのは君しかいないと、つい先ほど意見の一致をみたのだ。どうだろう、カミュー様がどんなときにも思わず手を伸ばされる────そんな好物を知らないか?」
縋る眼差しを注がれたものの、それどころではなかった。ともあれ、そんな非常事態に陥っているならば、まずは様子を見に行かねばならない。
「と、とにかく少し待ってください。カミューに会ってきます」
「おお、それもそうだ。ついでに口に出来そうなものを伺ってきていただけるか」
「わかりました」
一応大急ぎながらの礼を取り、マイクロトフは部屋から飛び出していった。見送る騎士隊長のひとりが不安げに呟く。
「……大丈夫でしょうか。副長が足をお運びになった方が宜しかったのでは?」
すると問われた副長は溜め息をついて首を振った。
「いや────こうしたことは、やはり気心知れたマイクロトフ殿が適任だ。何とかカミュー様の食欲が戻られると良いのだが……」
赤騎士たちは勢い良く閉じられた扉に、祈るような視線を注いだ。
猛牛の如く廊下を突き進み、目指す部屋の前で急停止したマイクロトフは一旦息を整えて静かに扉を開けた。
「カミュー……おれだ、入るぞ……?」
ひっそりと静まり返った室内には誰が飾ったのか、いつものように花が置かれていた。だが、いずれも生気を失い、しょんぼりと頭を垂れて物悲しさを醸す。それが現在のカミューを思わせ、マイクロトフを切なくさせた。
「カミュー、起きているか……?」
最奥に設えられたベッドの天蓋の向こう、弱い声が答えた。
「マイクロトフかい……?」
歩み寄って薄布を捲ったマイクロトフは、力なく自身を見上げた青年に胸を突かれた。
もともと端正で艶やかな印象を持つカミュー。だが、今は消え入るばかりの儚さに包まれている。思わず呆然と敷布に腰を落とすマイクロトフだった。
「カミュー……何故こんな……」
「それはこちらの台詞だよ……おまえには内密にするよう命じたのに…………」
口元には変わらぬ苦笑がうっすらと浮かんでいる。だが、声の調子や投げ出された四肢は病人のそれだ。ただでさえ白い顔が青ざめて見える上、やや削げた頬が痛々しい。
にもかかわらず、憔悴はカミューの美しさに何ら損傷を与えるものではなかった。むしろ、これまで見たことのない脆く危うげな蟲惑に、不謹慎にも見惚れるマイクロトフである。
「おまえが苦しんでいるのをおれが知らない……そんなバカな話があるか?」
いたわるように撫でた頬は熱い。涼しげな見掛けとは裏腹に、普段カミューの体温は高い。しかしこれは平熱の域を遥かに越えている。苦しげにしていても無理ないことだとマイクロトフは眉を寄せた。
ふと、カミューが目を伏せて呟いた。
「……ユーライアと真紅のマントはおまえが貰ってくれ」
「────え?」
怪訝に思って覗き込んだ顔は、穏やかな諦念に満ちていた。
「何の……話だ?」
「────形見分けだ」
呆けたマイクロトフは、次の瞬間激昂した。
「何を言っているんだ! そんな……」
「おまえに出会えたことは……わたしにとって最高の喜びだったよ……」
「だから何を言うんだ、カミュー!!」
「遺言に決まっているだろう!」
カミューは苛ついたように半身を起こしかけた。が、すぐにぐったりとシーツに沈む。
「……暑いんだから、興奮させないでくれ」
「あ────す、すまない」
反射で謝ってしまってから、ふと『そんなつもりでは』と悩んでみる。カミューも体調を崩して苛立っているのかもしれない。
「だが……何をそんなに気弱になっているんだ? おまえらしくないぞ、カミュー」
「わたしは……もう駄目かもしれない────」
美貌の赤騎士団長はひっそりと言った。
「こんな北方の街で暑さに果てるなんて……思ってもみなかったよ」
「カミュー……カミュー」
初めて耳にした弱音に、マイクロトフはしっかりと彼の手を握り締めた。剣士にしてはほっそりした指先までが燃えるように熱い。
「グラスランドはロックアックスよりも暑かったのだろう? だったらこれくらい……」
「違うんだ」
カミューは溜め息をついた。
「あの地は乾いて湿度が低かった。それに始終風が吹いていたから、過ごしやすかったんだ……」
遠くに視線を飛ばしながら更に続ける。
「故郷を離れて十年あまり……長いようで短かった……」
「だから、それをやめてくれ!」
マイクロトフは叫び、薄い肩を掴んで責めるように言い含める。
「おれたちは騎士だぞ、こんなことで没してどうする?」
「……騎士だって、暑いものは暑いんだよ……」
終にしくしく泣き出したカミューにマイクロトフは唖然とした。どうやらすっかり参ってしまって、弱気を通り越して壊れかけているらしい。慰撫を込めて唇で拭ってやると、涙まで湯のように温かかった。
「カミュー……、一緒に生きようと誓っただろう?」
「……でも……おまえだけ元気そうだ。先立つわたしを許してくれ……」
「助けるとも────何としてもおれが助ける、騎士の誇りにかけて!!!!」
マイクロトフはきっぱりと言い放った。溢れる熱情に全身が燃え立つようだ。眩しげに見返していたカミューがぽそりと洩らす。
「────見ているだけで暑いよ……」
ぼやきの塊になっている恋人を取り敢えず無視して、諭してみた。
「カミュー、何か食べないと駄目だ。すべては健全な食生活から始まるからな」
「……何も喉を通らないんだ。ランドたちに言われて冷スープなども試したけれど……」
ふむ、と考えたマイクロトフは更に続けた。
「これならば食べたい、というものはないのか? さっき伺ったが……甘いものも駄目なのか」
「だって」
カミューは再びほろりと涙を零した。
「この暑いのにケーキなんて……クリームが溶けて……それはもう、薄気味悪い代物になっていたんだぞ?」
「う……、確かにそれは食をそそるものではないな」
同意してから、はっとした。
「プリンはどうだ? 好きだろう?」
「プリン────」
カミューはふと天井を見上げて黙した。青ざめた顔に笑みが広がっていく。
「……プリンか。いいね────氷でうんと冷やしたプリンなら……食べてみたいような気がするよ」
「────氷……?」
一度は希望に輝きかけたマイクロトフの顔も、洩れた単語に曇った。
「…………厨房にあるのか?」
「さあ……覗いたことがないからわからない。そういえば先日、洛帝山の山頂には雪が降ったというし……あそこには氷が張っているかもしれないな……」
ぼんやりと脈絡のない話を口にするカミューだが、マイクロトフはそこで天啓が閃くのを感じた。
「そうか、洛帝山────」
出来ることならカミューを連れて行って涼ませてやりたい。だが、こう衰弱していてはそれも叶わないだろう。
ならばマイクロトフにやれることはひとつだ。彼は勢い良く立ち上がり、満面の笑顔で宣言した。
「待っていろ、カミュー! おれが洛帝山の氷仕込みのプリンを食べさせてやるからな! 弱気にならずに帰りを待っていてくれ!!!!」
「え?? マイクロトフ……?!」
驚いたように目を見開く恋人の薄い唇に、掠め取るようにくちづけて、そのままマイクロトフは脱兎の如く部屋を出て行った。残されたカミューはただ呆然とその残像を見詰めるばかりだ。
「な……何故、そういうことになるんだ……? ああでも……駄目だ、何も考えられない……考えたって、マイクロトフの思考なんて分らなくても無理ないさ……」
すでに疲弊気味の頭脳は手短に自己完結を果たし、カミューは命じられた通り、おとなしく待つことにした。
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