最後の王・60


石造りの回廊に点々と設えられた明かり取りの窓。
午前の柔らかな陽が揺れる中、何処からともなく微かな金属音と雄叫びが聞こえる。鍛錬場で青騎士団員が上げる気勢が、ここまで響いてきているのだろう。
重々しい階段を一歩ずつ踏み締めるたびに、絡みついて離れまいと思われた逡巡が剥がれ落ちる気がした。
このマチルダに来てからというもの、己を侵食してきた温かな感情が押し遣られていく。尽きず反芻を重ねた血の記憶、燃え落ちる故郷の前に凍りついた刻が、ゆっくりと動き出そうとしていた。

 

未だ暗いうちから皇子は鍛錬に向かった。その直後、カミューも後を追うように寝台を抜け出た。
時を忘れて睦み合った肉体は泥のように重く、しかし思考は恐ろしいほど醒めていた。長い一日になる───疑いようのない確信が、彼を眠りから隔てたのである。
身支度を整えて赤騎士団副長の執務室を訪ねた。
皇子の感覚に倣うあまり、訪問するには早過ぎたかと思われたが、どうやらこの人物は想像以上に謹直な質であるらしく、逆に早朝から行動を始めたカミューが感心される側だった。
絵心のある人物を、との求めに副長が呼んだのは、意外にも赤騎士団・第一部隊長であった。この人選に、カミューは些かの気詰まりを覚えた。
ルシアの助力を得て、首尾良くマチルダ皇太子の懐に潜り込んだ。宰相グランマイヤーが求める皇子の護衛は五名と聞いていたし、その中の一人に納まれば目的の半分は遂げたも同然だった。他の連中が仕事に精を出す間に、四人の騎士を探し出すつもりだったのだ。
なのに、計画は最初から頓挫した。皇子の「厚情」に邪魔された。
出会いはまったくの偶然だった。あの短い遣り取りで、自らが皇子の胸に重きを占める存在になってしまうとは計算外だった。
他の護衛候補を退け、自身のみが任官を許されたと聞いたときの戸惑いは生半ではなかった。宰相の要求は「片時も皇子から離れぬこと」、それでは仇を探す暇が得られない。
どうしたものかと思案した挙げ句、目を止めたのは騎士だった。
叔父とその一味に狙われる不運な皇子は、しかし大多数の騎士には愛されているらしい。ならば、彼らを使おう。己の代わりに皇子を護らせ、自由になる時間を手に入れれば良い。
言葉巧みに皇子を嗾し、青騎士団を引き込んだ。情報収集に長けていると聞いた後は、赤騎士団も味方につけることにした。
そんなカミューの思惑も知らず、信頼の眼差しを輝かせる騎士たち。誰にも先んじて忠節を誓う礼を取ったのが、この赤騎士団・第一隊長であった。
剣士は剣で人を知る、そんな格言めいた風潮を体現してみせた男。刃を交えた傭兵の力量に躊躇なく膝を折った男は、親愛を隠そうともせず、緋色の供物を差し出して、今も真っ直ぐにカミューを見詰める。
紙面に絵筆を走らせ、伝えるままに刺客らの面差しを描き出す騎士。意外な特技だと舌を巻くカミューに、「幼少時には画家を志した時もあった」と男は照れ笑った。
数刻を費やして描かれた絵姿を、版で複数枚刷り上げて国内の各村に撒くには時間が掛かる。二週後あまりに迫った即位式には到底間に合うまい。何より、刺客たちが未だマチルダに潜伏している可能性は殆どないだろう。
ゴルドーは、「配下」の青年が出鱈目の人相書きで皇子側の騎士を撹乱すると考えているに相違ない。仕上がった絵を見て、カミューは密かにほくそ笑んだ。
記憶に焼き付けた顔そのままを映した人相書きである。
間抜けな刺客たち───小金に目が眩んで領内に留まっているなら、捕縛されてしまえば良いのだ。ゴルドーが背反に気付く頃には、全てが終わっているだろうから。

 

 

奥まった廊下の手前に立つ白騎士が、歩み寄るカミューに気付いて背を正した。まるで接触はないが、皇子の傍近く侍るようになった人物だとは知るらしく、凡庸な顔に怪訝が浮かんでいる。
騎士は素早く前途を塞ぐように位置を変え、厳しく言った。
「待て、この先は白騎士団の位階者の方々の居室だ」
「存じております」
優美な笑みが男の虚勢を挫く。困惑を深めたように騎士は言い募った。
「……おまえは殿下の学友とやらだな、何用か」
この騎士が何処まで「ゴルドー側」なのかは分からないが、赤・青騎士団と親密に接している青年の訪いを不可解に感じる程度には自団を重んじているらしい。
カミューは粛々と礼を払った。今ではすっかり堂に入った騎士の礼の仕草である。長い手足が、いずれの騎士が取るそれよりも華やぎを醸し出していた。
「カミューと申します」
先ずは丁重な名乗り、そして続く親しげな微笑み。ただそれだけで、相手の警戒が緩んで行くのをカミューは心中で嘲いながら見守った。
「第二隊長殿をお訪ねしたのですが、在室でおられましょうか」
未だ訝しんでいるような面持ちながらも、男はあっさりと応じる。
「夜勤明けでお休みになっておいでだ」
これは既に承知している。つい今し方、赤騎士隊長から聞き出したのだ。無論、対象を特定される愚は犯さない。騎士団位階者すべての本日の予定を何気ない調子で問い、目指す男が午前のつとめを解かれていると知った上で訪ねたのである。
「そうですか……」
しどけなく息を洩らし、カミューは闇色の上着の隠しから一通の文を取り出した。
「ならば、これをお渡しいただけないでしょうか」
厳重に封をされた文を受け取った騎士は、眉を寄せてカミューを窺う。再び広がり始めた警戒を和らげるような声音が囁いた。
「昨日、ゴルドー様から依頼された件があるのです。その件に関して、隊長殿の御意見をお伺いしたく……文書に\めて参りました」
「ゴルドー様に、だと?」
はい、とカミューはにっこりした。
「何でしたら、ゴルドー様に確認していただければ───」
師からの手紙を盗み読まれたばかりだが、この白騎士にはそうされる恐れを感じない。まるで凡庸な男である。「確認をしても良い」と口にした途端に警戒が消え失せるのが感じられた。
「ならば、目覚められたときにでもお渡しする」
「間違いなく、お願い出来ましょうか。とても重要なのです、齟齬を生じればゴルドー様の御不興を被りかねません」
主君の不興、それは白騎士にも避けたいものであるようで、彼は慌てて咳払いした。
「心得た。必ずお渡しする」
「……ありがとうございます」
今一度、カミューは丁寧に礼を取った。つられたように騎士が会釈していたが、そのときには既にカミューの心に男の存在はなかった。
もと来た廊下を引き返し、階段を降りる青年の顔は、命を持たぬ仮面の如く感情を映さない。
ひとり異邦の地で、騎士団という組織の中に真実を潜めた日々。周囲を欺き、皇子の実直な護衛として信頼を勝ち取り、騎士団の重要書類に目を通す許可も得た。
名の他には所属すら分からぬ四人の仇。けれど、記録を見ればすぐにも手が届くだろうと考えていた。何処の国でも、軍務の記録には従事した人物名が記載されるのが常であるからだ。
五年を経た今では所属も変わっているかもしれない。騎士団を辞したものもいるかもしれない。それでも追える筈だ、そう信じて疑わなかった。
───なのに。
あの事件はまるで無かったが如く、書上に記されていなかった。後から削除されたのではない。すっぽりと抜け落ちていたのだ。
ならばあれは騙りだったのか。マチルダ騎士と名乗った彼らは、実はそうではなかったのだろうか。
束の間の呆然も、名鑑を見るまでの間だった。総員の名と所属を綴じた分厚い一冊の最後に\められている除籍者の一覧。五年前、あの事件の日付の後に、覚えのある名が延々と連っていた。
そこには作為が感じられた。死亡の日時が微妙にずらしてあり、死因も様々だった。
皇子の従者に探りを入れたところ、マチルダ騎士の他国出兵には皇王の裁可が要るとのことである。任務によって二十もの犠牲が出れば、騒ぎになるのが普通だろう。敢えて死亡を隠匿した、即ちそれは、グラスランド侵攻が公に宣言された命ではなかった証だ。
皇王亡き今、それが何を意味するのかは量りづらい。詳細を知るのは任務に就いたものだけだ。逃げた四騎士の最後の生き残り───その口から、事態の裏側を知るのも間もなくだ。
カミューは、周囲から寄せられる親愛の眼差しに艶やかな笑みを返しながら城門へと急いだ。

 

 

 

 

 

「仕立て上がりは御即位の後になってしまいますなあ」
壮年の男が、測り終えた寸法を紙面に書き込みながら小さく言う。従者と並んで見守っていた青騎士団副長が微笑んだ。
「即位式の衣装は仕上がったのかね?」
「それはもう」
仕立屋は得意満面といった表情で胸を張る。
「この道二十年の誇りに懸けた自信作……歴代の皇王様のどなたにも劣らぬ、荘厳な御衣装を用意させていただきましたとも」
それを聞いて、上着を羽織っていたマイクロトフは破顔した。
「おれの希望は入れてくれたのだろうな?」
男はにんまりと頷いた。
「華美に走らず、能う限りに値を抑える……難しい御注文でございましたな。仕立職人の技量を試されたと思って、精々気張らせていただきました」

 

男は代々マチルダ皇王家に仕える仕立職人である。彼の父は、ちょうど前皇王の時代に意匠の腕を振るった人物だった。
早朝から遣いの騎士に起こされ、何事かと城へ馳せ参じた男を待っていたのは意外な申し出であった。申し訳なさそうに差し出された品は、亡き父が先王の皇太子時分に仕立てた騎士装束。無惨にも切り裂かれ、着用に耐えぬ姿と化していた。
「訓練に熱が入ってしまって」と皇子は詫びたが、仕立屋には偽りであると察せられた。鮮やかな切り口は躊躇のない剣先によってもたらされたもの。何処ぞの騎士が、自国の皇太子にこうまで容赦なく斬りつけるだろう。
だが、彼は多くを問わなかった。皇子が亡父の形見を纏って「騎士団長」としてのつとめに臨むようになったのは知っていたし、父の作品が時を経た今も生き続けているのを目にしたときには感涙に咽んだものだ。
その装束を傷つけてしまったことを悔いる皇子を責めるつもりなど毛頭なく、寸分違わぬ品を所望すると言われたときには胸が震えた。
皇子は先王の皇太子時代と似た体系だったが、まだまだ成長が続いているらしく、ほんの僅かではあるが袖丈などが短いように思われた。ごく最近、即位装束のために寸法を測ったばかりだが、仕事に強いこだわりを持つ仕立屋は改めて採寸を望み、皇子も快くこれに応じたのだった。

 

「それにしても……ありがたいことにございます。もう、この騎士団長衣を着けられる機会もないでしょうに、わざわざ仕立て直して御手元に残していただけるとは。亡き父も、草葉の陰で喜んでおりますでしょう」
皇太子マイクロトフは微かに笑んだ。ふと、語調を変えて切り出す。
「ところで……いま一着、仕立てを依頼したいのだが」
は、と瞬くのは仕立屋ばかりではない。青騎士団副長、従者フリード・Yの顔にも不思議そうな色が浮かんだ。
「色は赤、この騎士団長衣に似たかたちで……あまり派手に映らぬよう、着丈を短くするなど、工夫して欲しい。それと……起き抜けは半病人みたいな男だから、ベルトの類は少ない方が着易かろう」
「殿下、それは……!」
フリード・Yが見開いた目を輝かせる。軽く笑み掛け、更に続けた。
「装束の上に「真紅のマント」を重ねる。色味が難しかろうが、おまえならば巧く合わせてくれるな?」
そこで仕立屋は吹き出した。
「殿下の御注文には、いつも頭を抱えさせられますなあ」
そうして深々と考え込む。たちまち職人らしい自問が零れ始めた。
「真紅の、というのは……防具品のあれですな。光の加減では赤紫にも映る品……ならば明るい赤よりも、マチルダ旗のような落ち着いた色彩の赤に重ねれば───」
「何とかなりそうか?」
「二十年の経験を掻き集め、何とか致しますとも」
笑いながら男は胸を反らす。途中から皇子の意図を悟った青騎士団副長が苦笑混じりに呼び掛けた。
「カミュー殿に献上されるおつもりですな?」
「おれ同様、着る機会が訪れるかは分からんし、受け取るかどうかすら危ういがな」
「……赤、ですか」
やや含みを持つ声に、あ、とマイクロトフは眉根を寄せた。
「いや……、是が非でも赤騎士団に、という訳では……。どのみち揃いの騎士団衣とは違うし……ただ、おれが青ならあいつは赤、そんなふうに思っただけで───」
赤騎士団のみならず、青騎士団内にもカミューを求める声は強い。そんな彼らを裏切る行動と取られるのを憚り、慌ててフリード・Yが割り込んだ。
「もっ、申し訳ございません! 以前、わたくしがお勧めしてしまったのです。お二人が色違いでの騎士装束を纏われたら映えるだろう、と……」
副長はすぐににっこりした。
「冗談です。もし実現しようものなら、所属などは問いませぬとも。尤も、部下たちは斯様に言わぬ恐れがありましょうが」
三者の遣り取りを怪訝そうに聞いていた仕立屋が、論議が収束するのを待って口を開いた。
「カミュー殿と申されますか、その御方の寸法を取らせていただきたいのですが……」
「それがな」
マイクロトフは顔をしかめて腕を組んだ。
「素直に着てくれそうにないのだ。だからこっそり作っておいて、機を見て受け取らせようと思っている。寸法は……そうだな、背はおれより少し低い。身体つきは───」
昨夜、思うさま腕に包み込んだしなやかな肉体を過らせて、知らず頬に血が集まる。
「……身体つきは、このフリードと同じか、若干細いくらいだろうか。それで……、腰の位置が高くて、手足が長い」
懸命の説明に聞き入る仕立屋を、青騎士団副長は暫し見守っていたが、やがてポツと言った。
「後で、出来るだけ似た体型のものを探して遣わそう」
「……お願い致します」
あんなにも優美な肢体を持つ人物が騎士団内に居るだろうか。提案したものの、騎士は微かな不安を覚える。
しかし心から安堵しているらしい職人を見てはどうにもならない。彼は、片端から脳裏に浮かべた部下の中に、異邦の剣士に似た体格を探したのだった。

 

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赤と青。
緊張と、メチャクチャ緩和〜
……ってな感じですな。

 

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