宰相執務室を辞して皇子の居室へと戻る短い時間、マイクロトフはカミューがひどく寡黙になったのに気付いた。
今日のところはもう人と会う予定はないと説いても、夕餉の希望があれば宰相夫人に駆け合おうと持ち掛けても、首肯や曖昧な賛同めいた声が洩れるだけで、心ここにあらずなのが明白だ。
実際、カミューは思案に暮れていた。廊下を進んでいる最中にも周囲に警戒の網を投げているが、それ以上に、これまで掴んだ情報を整理・分析するのに忙しかったのだ。
やがて、気を引くのを諦めたように口を閉ざした皇子をちらと窺い見遣れば、落胆とも呼べる表情が厳めしい顔に浮かんでいる。
そこでカミューは青騎士団の副長の言葉を思い出して愁眉を寄せた。
情感を努めて顕にせぬよう、己を殺している───マイクロトフはそう称された。ある意味、事実かもしれない。端から見ても、皇子が騎士たちから一歩退いているのは感じられる。
けれど、納得するのは難しい。何故なら皇子は、カミューに対しては最初から実に真っ正直な男だからだ。
高貴な身ゆえの自制的振舞いに努めているのか、確かに感情の発露は極力抑えられたもののようだが、それでも喜んだり消沈したり、マイクロトフの機微は分かり易い。
宰相の部屋でミューズ特使に意見を求められたときもそうだ。無策という訳ではないのに、自身の権限で騎士を動かすのを躊躇い、言葉を掴みかねて真っ白になっていた。
一国の王位継承者たるもの、これで良いのかと心底思う。言いたいことを飲み込む癖などつけているから、いざというとき言葉が出ないのだ。
苛ついて、肘鉄の一つも食らわせてやりたい心地だったが、あの位置ではフィッチャーから見えてしまうので、背に触れるだけにとどめた。
それが皇子にとって励ましとなったらしいのは、その後の立派な主張ぶりで知れる。カミューは複雑だった。
午前のゲンカク老師との遣り取りからも、マイクロトフは自身に何らかの期待をしているようだ。始祖の横で、彼を助けたという聖人の片割れ。出会ったばかりの雇われ護衛に、そんな役割でも求めているのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
知らず洩れた独言に、たちまちマイクロトフが反応する。
「何がだ?」
問われて初めて声に出していたのを悟り、カミューは苦笑した。
「いや……「敵」が、さ。華美で権威を繕おうなど、愚の骨頂だと思ってね」
並んで歩く廊下の窓の外、城で見る二度目の夕陽が世界を鮮やかに染めている。視界に広がる紅と朱色の混濁。燃え盛る炎を思わせながら、穏やかで柔らかい。
遠い日に、故郷の村にて対峙した最後の夕陽は血色に見えた。
「それは心が血の涙を流していたからだ」と、後に出会った同じ慟哭を舐めた女が言った。
あの日々も今は遠い───遠いところへ来てしまった。
「カミュー?」
夢想に浸りこんだふうの青年を気遣うようにマイクロトフが覗き込む。現実へと立ち戻ったカミューは、急いで話の穂を接いだ。
「人の威は内から滲むものだ。才覚や経験、そうしたものが自然と人を際立たせるものさ。周囲を飾り立てたところで、多少は目を眩まされる者もあるかもしれないが、あの特使みたいな推察眼に掛かっては形無しだな」
そこでカミューは悪戯っぽく付け加えた。
「喜べ、マイクロトフ。たとえ「敵」と全面戦争に至っても、ミューズ市国はおまえの側に付く」
「……どんな戦争だ」
げんなりして首を振り、マイクロトフは嘆息する。
ミューズは古くからの最高の盟友だけれど、内々の揺れを曝すのは本意ではない。これでミューズが領土拡張に熱心な国柄だったなら、侵攻の隙を与えているも同然なのだから。
やれやれ、と顔を上げたところでカミューが一歩下がった。居室へと続く廊下を護る騎士が見えたのだ。マイクロトフは、青年の変わり身の早さに舌を巻いた。
迎えたのは赤騎士で、交代時間を経たのか、昼過ぎに二人を見送った者とは違う。皇子とその連れを見るなり、彼は丁重に礼を取った。
「変わったことは?」
「ございません、殿下」
いつも通りの応酬の後、マイクロトフは小声で続けた。
「……御苦労」
すると騎士はぱっと顔を輝かせた。己の言動が相手に及ぼす力について、ここでもマイクロトフは感慨を新たにした。日頃から傲慢に振舞っているつもりはなかったが、些細なねぎらいを与える余裕を失していたのは確かなようだ。
嬉しそうな騎士の視線に送られて部屋への廊下を進み、扉に手を掛けたマイクロトフだったが。
「待った、皇子様」
低い警告の響き。マイクロトフの手首に自らの手を重ねた青年が、煌めく琥珀で扉を睨んでいる。
「朝も思ったが……いつもそうなのかい? 留守中に誰かが忍び込んでいるかもしれないという懸念は無し?」
「張り番を通さねば、この部屋には入れないぞ」
カミューは離れたところで背を向けて立つ騎士に目を当てて声を潜めた。
「……一味だったら?」
「それはないな」
マイクロトフはカミューに拘束されたまま、扉を押す手に力を込めた。室内は出てきたときのまま、ひっそりと夕暮れを迎えていた。注意深く目を光らせるカミューにも、変化は読み取れない。
「窓も閉めておいたし、そう神経質にならなくても良いだろう」
「神経質になるのがわたしの仕事なんだよ」
カミューは憮然と言い、漸く緊張を緩めて長椅子に沈んだ。
「慎重なのか鈍いのか、そこのところが良く分からないよ。自分の戦いに騎士を介入させないように配慮するかと思えば、騎士を頭から信じ込んでいる。張り番がゴルドーの手先でないと、どうして言い切れる? 見張りさえ抱き込めば侵入などしたい放題じゃないか」
「侵入者が在った場合、真っ先に張り番騎士が詮議を受ける。ゴルドーに殉ずるだけの覚悟がなければ出来まい。それに、今の騎士にはおれに対する悪意がなかったと思うのだが……それがそんなに無用心か?」
教えを請うように窺われて、カミューは肩を竦めた。
皇子とこうした議論をすると、これまで培ってきた自衛の力が抜き取られるような気がする。非難されている訳ではないのに、何かが間違っていると指摘される気がするのだ。
黙り込んだカミューの向かいに腰掛け、マイクロトフは切り出した。
「すまないな、カミュー」
唐突な陳謝が琥珀を瞬かせる。
「おれの勝手な希望で、側仕えをおまえ一人に限定してしまって……。やはり負担は大きいだろう、疲れたのではないか?」
疲れたとも、色々な意味で───心の呟きを声にせず、カミューは「まあね」と軽く返した。
「フリード・Yの一刻も早い本復を希望するよ。彼に留守番していて貰えば、戻るたびに神経を使わずに済むし」
実直な従者には聞かせられぬような台詞を吐いて、仄かに笑む。
「待ちの戦法は何かと疲れるものさ。昨日の今日だ、敵側も動けずにいるのかもしれないが、わたしとしては課題の手伝いよりも襲撃の方を歓迎するよ」
「襲撃は歓迎しかねるが、おれも持久戦は苦手だ。いや、……苦手だと思う。実戦に出たことはないのだが」
マイクロトフは憂さを晴らすように伸びをした。
「合間、合間に騎士団の訓練には参加しているが、現実のつとめまでは……な。やはり名のみの団長に過ぎない。ひどく中途半端な存在だ」
前に一度、青騎士団の国内査察に同行するという話が実現しようとした。が、例の鍛錬中の事故が起きて、グランマイヤーの必死の懇願を浴び、反故にせざるを得なかったのだ。
そんな皇子をじっと見詰めていたカミューが、ポツと聞く。
「マイクロトフ……今日みたいな予定が今後もずっと続くのかい?」
意味を量る眼差しに、「学問や使者との対面」と付け加えると、マイクロトフは壁際に据えられた机の上を探って一枚の書面を取り上げた。即位の日までの日程表である。はらりと卓に置かれたそれを摘まんでカミューは考え込んだ。
「商学、論述学、歴史学……即位まで一月を切っているのに、まだこんなものを?」
「それが」
マイクロトフは椅子に戻るなり、大きな体躯を縮めた。
「……おれはあまり良い生徒ではなくてな。学者を失望させてばかりいる。おまえの言う通り、とっくに修了していなければならないのに、式典準備の合間をぬって補習の講義を組まれてしまった。ゲンカク老師だけは、おれの希望で残ってくださっていたのだが」
カミューは吹き出した。語られた「失望」についても何がなし想像出来たが、それ以上に消沈する大男の姿が可笑しかったからである。
城内の鍛錬場で、騎士を相手に剣を振るっていたときにはあれほど果敢な王者だったのに、今のマイクロトフは尾羽打ち枯らした商家の跡取りといった様相だ。
「でも、そのゲンカク老師殿はおまえに合格点を与えておられた。それに、適切な助言もくださったじゃないか、苦手なものには補佐役をつければ事足りる───と、いう訳で」
カミューは書面を投げ捨てた。
「予定変更だよ、皇子様」
「え?」
「式典準備は外せないだろうが、他の予定はすべて白紙にしろ」
マイクロトフは驚いて声を荒げた。
「白紙に、とは……学問の時間を、か?」
「どうしても、と思う講義があるなら、それは残しておけばいい。でも……補習を受けているくらいだから、然程興味はないんだろう? 身に付く当てのない学問に時間を割くより、もっと有効的に過ごそうじゃないか」
ううむ、と腕を組んでマイクロトフは考え込む。
グランマイヤーが反対するだろうとか、与えられた責務も果たせないようでは恥ずかしいとか、ごく常識的な思考が脳裏を巡るものの、目前の楽しげな顔に引き込まれ、瞬く間に流されていく。
「有効的とは……何を考えているのだ、カミュー?」
「おまえの大好きな戦術起案さ」
美貌の傭兵は、はんなりとした容姿に不穏を帯びた。
「お互い、一方的な待ちの状態を好まぬ点では一致している。けれどおまえは謀殺を望まない。ならば残るは正攻法、防衛の布陣を固めて戦いに臨むのさ」
「防衛の……布陣……」
魅入られたように繰り返す男の目前に乗り出し、カミューは甘やかに囁いた。
「そうだ、「敵」と真っ向から戦うための力だ。フィッチャー殿のありがたい情報から鑑みても、ゴルドーに味方しているのは白騎士が中心らしい。だったら幸い、「名」は既におまえの手に在る。そこに「実」も掴め。名実共に、青騎士団を完全に掌握するんだ、マイクロトフ」
思いも寄らぬ進言に息を飲んでいると、語調が変じた。
「フィッチャー殿に言っていただろう、自分の信頼する騎士をアナベル殿の護衛に付ける、と」
───あの一瞬、これまで頑なに守ってきた青騎士団との距離を失念した。日頃から彼らに感じる信頼感が無意識に口を吐いたといった感じだった。形式上の団長の身で権限を行使して良いのか、などといった思考は過ぎらなかった。
「……あれは青騎士団長としての意見に聞こえたよ。そこまで信じているなら、蚊帳の外に置くのをやめて、いっそ共に闘って貰え」
「だが、カミュー」
湧き上がる興奮を必死に抑えようと試みながらマイクロトフは呻いた。
「おれの味方に付くということは……」
「ゴルドー様に盾突くこと、……かい? ならばおまえが青騎士団を護れば良い。団長が部下を護る、部下は団長を護る───理想的な関係じゃないか?」
王位を継ぐ身に用意された道。そこにまったく想像もしていなかった方向から不可思議な光が注いだ気がした。
マイクロトフは突き刺さる琥珀の輝きに言葉を失い、ただただ呆然として戦慄く。気付けば呟いていた。
「一月で……出来るだろうか」
「出来る。おまえは殆ど為し終えている」
力強く言って、カミューは続けた。
「後は行動だ。彼らと同じものを見なければ本当の意味での指揮官とは言えない。騎士として彼らに並ばねば、同じものは見えてこない」
その通りだ、と拳を握る。団長と呼ばれたところで、どうあっても輪には連なることが出来ない。それが当たり前だと諦めていたが、カミューはその線を越えろと言っているのだ。
「もし青騎士団が完全に味方になってくれたら……おまえやフリードの負担も減るな」
「まあね」
「騎士として民人を知る、それはティントのグスタフ国王のように、皇王になった後にも役立つに違いない」
「……そうだね」
白い貌が優しく微笑んだ。
「その気になったなら、宰相殿を御招待して了解を取り付けるんだ。言っておくが、助け舟は出さないよ。決意で相手を捩じ伏せてみろ。意思の力は上に立つものにとって重要な資質だからね」
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