最後の王・109


膝を抱えて床に座る、そんな不自然な姿勢だったにも拘らず、久方ぶりの深い眠りがカミューを満たした。
廊下に響いた微かな靴音が安息の終わりを告げる。ふわりと意識が浮上して、四肢に力が蘇り、最後に目が開いた。普段は寝覚めが悪いのに、いざとなると恐ろしく反応が鋭い。すっかり傭兵だな、と自嘲しつつ、軽く伸びをした。
扉越しに気配を窺うと、靴音は一旦消えた。僅かな間を置いて聞こえた次の音も、同じように消えていった。朝の祈りとやらのため、司祭たちが本堂に集まっているらしい。
その後しばらく静寂が続いたが、辛抱強く待つうちに、つとめが終わったのか、\まった話し声が響き始めた。
声は二手に分かれ、片方が近付いてくる。やがて廊下の斜め向かいあたりに、皿の鳴る音が聞こえるようになった。当番の司祭たちが、二階の広間に食事を運ぼうとしているのだ。
ざわめきは長く続かなかった。一つ、また一つと足音が遠ざかり、程なく静けさが戻った。戻ってくる者がいないのを確信するなり、カミューは立ち上がって室内を見回した。
東の窓から入る淡い陽に映し出された遺品室は、闇の中で見たよりは整然としていた。様々な品の間から陶製の器を見付け、懐中にしまっておいた式典警備案書と礼拝堂の見取図を入れる。右手を翳して、ほんの少しだけ集中を高めると、紙束は瞬時に燃え上がり、一摘まみの灰を残して消滅した。
巧く焼けた、とカミューは笑みを浮かべた。
「烈火」を使うと、灰すら残らないのが常だ。だが、今回は別である。この部屋に居たという痕跡が必要だ。
騎士たちは、封鎖中の礼拝堂内に潜んでいた「暗殺者」の侵入経路を調べるに違いない。このところの世情の安定は置いても、抹消された抜け道の存在は、やはり教えておくべきだろう。生真面目な王は、自らの暮らす街のすべてを知りたいと考える筈だから。
さて、と気を取り直したカミューは、もう一度廊下の気配を窺って、一呼吸おいてから扉を開けた。眼前には、呼気さえ反響しそうな、静かで長い廊下が伸びていた。
猫のように足音を潜めて壁際を進み、上階へと続く階段に辿り着く。軽やかに段を踏み締め、最初の踊り場で足を止めた。
耳を澄ませたが、物音は聞こえない。広間は二階の最南、ちょうど隠れていた遺品室の上あたりだ。大事な式典前の朝食時に騒ぐ習慣はないだろうし、だからここまで音が届かないのだとカミューは考えた。
二階に着いて、司祭の個室と教えられた扉群の最初の一つを彼は選んだ。部屋割りは司祭の序列順になっていそうだが、白騎士から貰った図面だけでは居室の大小が分からない。「誰と擦り替わっても大差ない」との言もあったし、この選別には然程の重要性を感じなかった。
やや緊張を込めて扉に手を掛ける。
部屋の主が朝食を辞退していれば鉢合わせだ。念のため愛剣を剣帯から外して握った後、カミューはそろそろと扉を開けた。
部屋は空だった。寝台と小さな机、箪笥と書棚、家具はそれだけだ。祭事を司る人物らしい質実な生活ぶりである。
壁に掛けられた一枚の衣装を見た途端、失笑が零れた。「着れば親兄弟でも分からない」という白騎士隊長の言葉の意味が分かったのだ。
これは式服というより、布だ。漆黒の生地は高価そうだが、殆ど縫製の手間が要らないような作りのローブ。
両端を摘まんで引っ張ってみると、ひと二人くらいは優に入れそうなゆとりがある。手に取って丈を合わせたところ、ギリギリで床に付くかどうかといった長さだった。
見た感じ、寸法も何もないような服だが、司祭全員の裾丈が揃うように誂えてある筈だから、周りに合わせて背伸びがちに動くか、屈んで動くかせねばなるまい。
少し考えて、カミューは着ていた上着を脱ぎ、丁寧に畳んで寝台の上に置いた。
式服は布が多くて動きづらそうだ。それに、暗殺者が標的から貰った服を大事に着込んでいたというのも妙な話である。こうして残しておけば、与えられた厚情を捨てたという意思表示にもなるだろう。
それからローブに袖を通した。
着心地を確かめるため一回りする。見た目よりも布は軽く、纏わり付くような不快感はなかった。
合わせの内、剣帯にユーライアを戻してみた。そのままでは先端部の突起が布に現れてしまう。剣帯ごと前にずらすことで、これを解決した。やや歩行に障りが生じるが、厳粛な儀式では、歩調はゆっくりしたものになるだろうし、充分こなせる範疇だ。
問題は、とカミューはその場に跪いた。
司祭には、新王の足元に頭を垂れて、庇護を授かる所作がある。剣を隠したまま、この姿勢を取るのは難しい。いざ抜刀するにも手間取りそうだ。
ならば、屈む前に───と、考えたところで呆けた。司祭が進み出て膝を折るのは、王が剣と冠を授けられた後だったのを思い出したのだ。
あの男が剣を受け取る前に済ませようと決めたのに。落ち着いているつもりでも、ひょんなところで心の揺れは現れるものだと、自嘲せずにはいられなかった。
司祭は控え室に集合した後、壇上に整列して一連の儀礼を見届ける。早いうちに事を終えた方が良い。大勢の客を招いているのだし、後日やり直しという訳にはいかなそうだ。おそらく式は続行される。序盤で起きる暗殺未遂の衝撃が、その後の式事で薄められるのを祈るしかない。
つくづく端迷惑な計画だな、とカミューは嘆息した。
───そうだ。壇上、マイクロトフの傍には司祭長が居る。死に際に「ゴルドーに命じられた」とでも零しておけば、騎士たちの「後始末」の役に立つかもしれない───

 

不意に、物音が琴線を弾いた。
打たれたように扉へと駆けて、近付く足音を待ち構える。扉が開き、人影が覗いたと同時に、相手の服を掴んで、力任せに室内に引き込んだ。
半ば転げて、唖然として目を瞠る部屋の主。それらしい服を着ていなければ、司祭には見えない若い男だ。ぽかんと開いた口が叫びを上げるよりも早く、カミューは男に拳を入れた。鳩尾を深く捉えた一撃で、若い司祭は、呻きも洩らさず昏倒した。
「……すまないね」
崩折れる司祭が完全に床に付くまで支えた後、小さく囁く。両脇に手を差し入れて部屋の隅まで引き擦り、壁に凭れた姿勢を取らせると、衣装棚を漁って見付け出した腰紐で、手早く司祭の手足を縛り上げた。
司祭にとっても、即位式は晴れの舞台だったろうに。猿轡を噛ませながら、もう一度だけ小声で詫びた。
───手荒な真似をしてすまない。すぐに誰かが見付けてくれる。式の続きには参加出来るから。
許してくれ、とは言わなかった。
望める身でないのは分かっている。どう謗られようと決めた道を貫く、それが誇りの残り火だった。

 

 

 

 

 

「いよいよですねえ」
ロックアックス城・東棟にある皇子の居室、しみじみとした調子でフリード・Yが呟く。
「朝から何度目だ?」
襟を止めて振り返った皇子の笑顔に、若き従者は目を細めた。
「……立派な御姿です。これでマントを合わせたら、さぞ威風堂々と見えるでしょう。衣装合わせのときの何倍も素晴らしいです、殿下」
「おまえがそう言ってくれるなら自信が持てるな」
マイクロトフは姿見の前に進んで、自らに眺め入った。
白を基調にした礼服。襟や袖口に金糸の刺繍があしらってある。
胸元を止める皮ベルトが、少しだけ青騎士団長の装束に似ていた。職人が丹精込めて意匠した作は、非の打ち所のない逸品で、長身に良く映えた。
礼拝堂に用意してあるマントは濃紺だ。全体的な色味が、やはり青騎士団長に似通っている。皇太子時代にそれをつとめる王の印象が選ばせた色彩なのかもしれない。
「ダンスニーを受け取ったら、裁きの開始を宣言する。後は成り行きに任せる、……で良いのだな?」
明けて、着替えを手伝いに来たフリード・Yに昨夜の最終打ち合わせの概要を求めたが、説明はそれだけだった。
「成り行き任せ」で大丈夫なのだろうかと首を捻ったマイクロトフだが、仲間たちの阿吽の呼吸ぶりを思い出して、懸念には及ばないと思い直した。
寧ろ、事細かに決められてしまっては、いざ突発事項が起きたときに、まごついてしまいそうだ。己の不器用を知るマイクロトフとしては、そうした難を覆うための策なのだと納得するしかなかったのである。
ただ、一つ。フリード・Yが一切触れようとしなかったため、それは抑えようもなく膨らんだ。
「……言ってくれ、フリード」
躊躇がちに切り出して、従者へと視線を移す。
「カミューは来るか?」
直截な問い掛けがフリード・Yを打ち据えた。刹那だけ見開かれた目が、しかし柔らかく溶けていく。
「殿下は御自身のつとめを果たしてください。今はそれが一番大切です」
マイクロトフは瞬いて、次いで苦笑した。
「おまえもすっかり立派になったな……。従者などという役目はもう似合わない。他に相応しいつとめもあるだろうし、この先、何がしたいか、考えておいてくれ」
見る間にフリード・Yは顔を歪めた。
「そんなふうに言われては悲しくなります。わたくしは不要ですか?」
慌てて首を振るマイクロトフだ。
「そうではない。おれは一人のマチルダ国民に戻って騎士になる。従者を持つ身ではなくなるのだ」
「では、わたくしも騎士になります」
「これまでの自分をすべて捨てるのだぞ。訓練とつとめに明け暮れる生活だ。もっとちゃんと考えろ」
「……考えたら、お許しくださいますか?」
「その思考からして従者だぞ。己の道は己の意思で決める、それが自由なマチルダの民ではないか」
吹き出しながら諭した後、マイクロトフは一つ年下の幼馴染みの両肩に手を置いた。
「今日まで世話になった。おまえが居てくれたから、母上のおられぬ寂しさも、父上が亡くなった悲しみも癒された」
「殿下、何を───」
「一度きちんと言っておきたかったのだ。本当に感謝している、フリード・ヤマモト」
若者は堪らず鼻を啜り上げた。潤んでくる目で主君を凝視し、掠れ声で言った。
「嫌です、殿下……そんな、他所に嫁がれる姫君みたいなことを仰らないでください」
「誰が姫だ」
「他に言葉が見つからなくて……」
「───朝から喜劇の稽古ですか」
唐突に割り込んだ声に仰天して、二人は争うように戸口に目を向けた。真面目な顔の青騎士団・第一隊長が、僅かに開いた扉に手を掛けた姿勢で立ち尽くしている。固まる主従に、彼は大仰な溜め息をついた。
「……が、同感です。話に聞く、嫁入り前の一幕のようだ。それに従者殿、言っては何だが、君も娘を嫁がせる御母堂そのものだ。まだ早い、大事な仕事が残っているのを忘れてくれるな」
「いつから見ていたのだ。それに、その感想も不本意だぞ」
「……わたくしも、「母」はちょっと……」
むっつりとぼやいて二人は肩を落とした。先に気を取り直したのはマイクロトフだ。
「だが、早いというのは本当かもしれないな。証言者たちの堂内誘導、頼んだぞ、フリード」
裁きの場で証言する人物たちは、マイクロトフや国賓たちが使う控え室の続きの間に、見張りや警護を付けた状態で待たせる手筈になっている。進行に応じて彼らを堂に呼び入れる役がフリード・Yに割り振られているのである。
お任せください、と胸を張る若者を横目で一瞥しながら青騎士隊長が低く言った。
「扉は、白騎士団員が座る位置から遠くない。連中は武器携帯を許されているからな、念のため言っておく」
「はい。万一にも証言者を害されぬよう、充分に気を付けます」
「……君も一応、気を付けろ」
「ありがとうございます」
そこでマイクロトフが口を挟んだ。
「移動は済んだのか?」
「抜かりなく。礼拝堂の封鎖が解ける刻限には、赤の副長殿以下、到着された筈です。その際に牢の刺客は移送済み、他の証言者たちも時間を合わせて堂に入るよう、手を打ってあります」
自らも整理するようにゆっくりと騎士は答えた。
「三時下をもって招待客らの入堂開始。査証には例の確認もあるため、当初の予定よりも多く人員を配置して当たります」
───即位式が裁判に転じる。穏やかには済まないかもしれないから、立ち合う気になれぬ者には参席の辞退を勧める。
速やかに進む作業ではないと予想されるので、査証に多く人を割くのは当然の配慮と言えた。
「国賓方々は少し前に礼拝堂に向かいました。副長以下、我が部隊の三分の二の騎士が随行に当たっています」
「おれは残りの三分の一と共に城を出るのだな」
「はい。わたしと、こちらのフリード・Y殿、両名が御供致します」
そこでマイクロトフは初めて眉を寄せた。大事な人物が抜けているのに気付いたのだ。
「ゲオルグ殿は? 一緒ではないのか」
あ、と小さくフリード・Yが声を洩らす。先んじて騎士が答えた。
「先に行かれました。姿が見えずとも、役目は果たすから気にするな───と、お伝えするよう頼まれています」
「そうなのか……」
面倒見の良いゲオルグのことだから、出発前に何かしらの激励を口にしてくれるのではないかと考えていたのだ。それも甘えだったかと思い直したマイクロトフは、気合いを入れるため大きく両肩を上下させた。
「交替に応じて礼拝堂の警備から戻った騎士の話ですが、堂前広場は立錐の余地もないほど人が溢れているそうですぞ。今日は馬から降りて民の相手をなさる暇はない。手を振る程度に留めてください」
分かっている、と苦笑混じりに頷く。
「礼拝堂まで乗る馬ですが、ミューズからの祝いの方を用意したそうです」
カミューが残していった雌馬と同居するようになってから、マイクロトフの愛馬は随分と気性が和らいで、おとなしく馬番の世話を受けるようになっていた。
だが、今朝は厩舎に異変が生じたという。品行方性だった雌馬の方が落ち着かず、それを気にしたマイクロトフの馬も、素直に鞍を受け付けない。やむなく新参のミューズ馬に初のつとめが回ってきたという訳だった。
「どうしたのだろうな、カミューの馬は……」
マイクロトフが考え込むと、青騎士隊長はさらりと言った。
「主人の動きでも感じ取っているのでは?」
え、と目を瞠って男を凝視する。
「カミューが来ると……おまえは思っているのか?」
「来てくれるよう願っています。そうすれば、説明が一度で済む」
知らず顔を強張らせる皇子を見詰めつつ、騎士は笑んだ。
「思い出していただきたい。これは彼を取り戻すための戦いでもあるのでは? 終われば、彼の皇王家への恨みは消える。後は我々の手で、同じマチルダ騎士が犯した罪を償っていく……彼には、間近で我らの今後を見守って貰う───それが最良の幕引きですからな」
「そうですよね」
勢い込んでフリード・Yが続いた。
「後から人伝に聞くより、直接立ち合った方が、より事情が呑み込み易いと、わたくしも思います」
「だが、どうやって……? 堂内に入るには───」
言い差したマイクロトフを、騎士は肩を竦めて往なした。
「その気になれば、飾り窓を割るなり、扉を蹴破るなりしてでも入るでしょう。それに……、下っ端の騎士には詳細を伏せてありますからな。入り口でにっこり笑い掛けられたら、喜んで中に案内しそうだ」
「有り得ますねえ」
ひとしきり笑った後、フリード・Yはきりりと威儀を正した。
「では、殿下。そろそろ参りましょう」
「ああ……そうだな、行こう」
頷いて、マイクロトフは寝台脇に立て掛けてあった剣を取り上げる。ダンスニーではなく、これは模造の品の方だ。
皇王家の宝である剣と冠は、しきたりに則って、昨夜のうちに礼拝堂に移されている。一夜の間、聖人たちの肖像画の前に捧げる「清めの儀式」のためだった。
礼装の一品、黒光りする皮帯に剣を佩いたマイクロトフは、更に文机の椅子の背に掛けてあった上着の隠しから一枚の紙片を取り出した。それを胸元の合わせに丁寧に押し込んだ後、従者と騎士に向き直った。
仕上がりを上から下まで検分した青騎士隊長が、ポツと呟く。
「騎士の心得、第二十二条・追項の四」
「……?」
厳かにして明るい声が室内に響き渡った。
「騎士団長の名において、騎士犯罪詮議を実行する権限を謳った条項です。お忘れなきよう、……マイクロトフ団長」


 

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注:三時下=中世タイムで朝の9時頃。
普通に午前9時と書いても良かったけど、
何となく気分で(笑)

 

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