正午を告げる低い鐘の音が、ゆっくりと城下に降り注ぐ。
勾配の険しい石造りの都市の頂に佇むそこは、建国の父と謳われる人物を祀った、街で唯一の礼拝堂だ。
かつてこの地を覆っていたのは夥しいばかりの失意であった。
未だ一国家としての機能を持たなかったデュナン北方地方が、強大なるハイランド王国の支配下に置かれてからの数十年、民は簒奪と暴力に怯え、けれど反抗の気概もなく、ただ漫然と生きる家畜に等しかった。
そんな彼らを、鼓舞し、導いたのは、僅か二人の勇敢なる男たちであった。
一人は、圧政者たちが統治の手間を肩代わりさせるために已む無く認めた「領主」、そして今ひとりは、その親友である。
稀に見る武人の才覚を持った彼らは、長い諦念に病み疲れた民衆の心を奮起させることに情熱を注ぎ、それが闘争の炎となって燃え広がるまでに至らしめた。王国の監視の目を逃れ、密やかに「騎士」と呼ばれる戦闘集団を築き上げ、そしてやがて一領を上げての蜂起に臨んだ。
熾烈なる戦場にて落命するその日まで、二人の指導者は常に人々の先頭に立って剣を振るい続けた。彼らの没後、終に独立を勝ち得た日、人々は二つの名を高らかに叫んで涙したという。
デュナン地帯北方に位置するマチルダ皇国───それはマティスとアルダ、現在は聖人と称される剣士を讃えて命名された国家なのである。
宗教的な色彩は薄く、だが礼拝堂は常に畏敬に満ちた神聖なる場であった。祭壇の中央には、いつの頃からか置かれた一枚の絵図がある。武器を握る民を率いて、今まさに敵に躍りかからんとする二人の男、「建国の父」らの姿である。
歳月を経て伝えられた風貌に、更に脚色の加わった筆であろうから、それが両者の在りし日の姿そのものとは言えまい。けれど、その片方が自らに酷似していると感じるのは何故なのだろう───絵図の前に跪いて夢想に浸っていたマイクロトフは、だから不意に背後に現れた気配に強張った面持ちで振り向いた。
「驚かせてしまいましたか、これは御無礼を」
上がったのは、申し訳なさそうな穏やかな声音だった。礼拝堂を与る司祭マカイである。
咄嗟の自衛とは言え、聖職者に──もっとも、マチルダにおける聖人たちへの信仰は、宗教といった意味合いよりも英雄崇拝の感が強かったが──向ける態度ではない。慌てて立ち上がって深々と礼を取ると、逆にマカイの方が困惑げに苦笑した。
「なりません、殿下。近く王位に立たれよう御方が、軽々しく頭を垂れるなど……」
それから、やや潜めた声で続ける。
「随従は如何なさったのです。よもや御一人でここまでいらしたなどと、仰せにはなりますまいな?」
「外にフリード・Yが控えている」
するとマカイは胸を撫で下ろしたような、あるいは複雑そうな笑みを浮かべた。
幾つもの感情を埋めた笑顔を見るたびに、マイクロトフは己の脆い足場を突き付けられるようで、堪らない心地を覚える。相手が真から自身を案じているのだと知っても、何ら慰めにはならなかった。
マチルダ皇国・第一皇王位継承者。
人はマイクロトフをそう呼ぶ。この国で成人と見做される十八の歳まで僅か一月、即位の日は刻一刻と迫ってきている。
四年前、父王の突然の崩御という悲劇に見舞われなければ、王位継承に暗い影が落ちる余地などなかった。
壮健かつ慈愛深かった父の庇護を、ある日唐突に失ったマイクロトフは、以来、醜悪なる闘争の渦中に投げ込まれたのだ。それは真っ直ぐで硬質なる彼の本質を決して歪めはしなかったけれど、確実に澱のように積もりゆく疲れは否めない。若い面差しには、同世代の若者には見られない険しい厳しさが棲み付き、この頃では声を上げて笑うことも滅多になかった。
王家と密接に結びつく関係にある司祭としては、彼の苦境の一部始終を知るだけに、どう言葉を紡ぐべきか悩めるところであるようだった。
「……御付きがフリード殿だけでは、些か心許ないかと思われますが」
呟くように言って、マイクロトフの表情を認めたマカイは慌てて言い添えた。
「いえ、決して彼が非力と申し上げている訳ではございません。しかし……」
「分かっている」
ポツリと俯くと、陰鬱に陥った空気を掬い上げるように明るさを装って続ける。
「グランマイヤーにも言われた。今日は新しい側仕えらに引き合わすとかで……午後は丸々、拘束される予定だ」
四年の長きに渡って未成年の皇子の後見人の立場を勤めてきた宰相グランマイヤー、彼はマイクロトフにとって面倒見の良い師といった存在だ。
前々からの忠言を、今に至って受け入れざるを得なくなった経緯は言わなかった。寝所に毒蛇が仕込まれただの、城の廊下を歩いていたら彫像が倒れてきて、危うく石の剣に貫かれそうになっただの、仔細を聞けばマカイのような善良なる男は、それだけで今宵、眠れぬ夜を過ごすだろうからだ。
「それは宜しゅうございます、……ええ、御付の増員は心強いものですとも」
だがしかし、よくよく人は吟味したのだろうな、という言外の響きをマイクロトフは苦笑いで往なした。
「そろそろ行かねば。フリードが暇を持て余しているだろう」
「殿下」
踵を返そうとしたマイクロトフを、粛然とした声が呼び止める。
「すべてはさだめにございます。御身が王座に昇られるのは、我がマチルダを安んじるがためのマティスとアルダのお導き……くれぐれもお忘れなきよう」
マイクロトフは片頬だけで笑って応じた。
「重い荷を与えられたものだ。せめて生きて即位の日を迎えるよう、心掛ける」
礼拝堂の扉を開けると、弾かれたように背を正し、眼鏡の奥の瞳を輝かせる人物があった。
フリード・Yはマイクロトフより一つ年少で、従者という己のつとめを無上の喜びとする誠実な若者だ。やや堅苦しい面もあるが、数少ない同世代の知己であり、こうして城下に足を運ぶときには真っ先に同行を申し渡す人物である。
「お済みですか、殿下」
満面の笑顔で歩み寄る若者を見ていると、マイクロトフにも仄かな笑みが浮かぶ。フリード・Yも多くの人間同様、マイクロトフの頭上に皇王位という権威を見ているけれど、決してそれだけではない、温かな親愛があるからだ。乳兄弟の間柄も相俟ってか、立場の上下では量れぬ情が二人の間には流れていた。
「すまない、待たせたな」
「とんでもない」
でも、とフリード・Yは周囲を窺う素振りをしてみせ、小声で付け加える。
「黙って城を抜け出たと知れたら、グランマイヤー様に大目玉ですね」
それこそ口煩い老婆のようにマイクロトフの身辺を案じる宰相の、誠意溢れるがゆえの叱責の長さを思い描いて、知らず渋面を誘われるマイクロトフだ。
「……違いない。出来れば御免蒙りたいものだ。急いで戻ろう」
ロックアックスは山肌を削って築かれた街である。長く他国の支配下を受けた経験が、この地を領土の要と定めた。
激しい勾配は堅固な守りの礎となる。山の頂きに鎮座する石城こそ、聖マティスの血脈が受け継いできた王の居所なのである。
礼拝堂から山頂へと続く道に街人の姿を見ることは稀だ。先に待つのはロックアックス城だけだからである。主従の胸に小さな油断が兆したのも、そんな気安さからかもしれなかった。
ふと、周囲に足音が沸き起こった。
往来を彩る木々の影から現れ出た複数の男たちが、グランマイヤーやマカイが恐れる暗殺者であるのは明白である。一団は剣を構え、斧を握り、たちまちマイクロトフらを取り囲んだ。
即座に主人を庇おうと身構えるフリード・Yだが、相手の数が多過ぎる。剣を抜きつつ、彼は叫んだ。
「無礼者! マチルダ皇国太子殿下と知っての狼藉か!」
───型通りとは言え、何と虚しき誰何だろう。知るからこその襲撃なのだ。マイクロトフを王座に昇らせないための、それは謀略を超えた非道。
しかし昼日中、人目皆無という訳にはいかない往来の真中で暗殺が決行されるとは予測の範囲外だった。甘かった認識に唇を噛む間にも、勇ましくもフリード・Yは臨戦の構えに入っている。
皇子の一の従者を自負する彼は、そこそこ剣の腕も立つ。けれど今、迫り来る敵の姿を鑑みるに、圧倒的な窮地であるのは確かだ。
いずれも覆面で顔を隠しているが、そこには噎せ返るような殺意が滾っている。王族を護る従者として、幼少から騎士の鍛錬を積んでいても、未だ本格的な殺し合いの場に立った経験のない若者には手に余る相手だ。
どうやら皇王位継承という刻限を間近に控えて、敵も本気を出す気になったらしい。この数週、グランマイヤーが悲痛なまでに訴えていた護衛増強の意味を、ここへ来てマイクロトフは痛感せねばならなかった。
襲い掛かった最初の刃を辛くも退け、主君の背を護る位置に回ったフリード・Yだが、敵は彼の未熟を悟ったようで、今では嘲笑うかのように得物を揺らめかせながら着々と包囲を狭めようとしている。
従者一人では、とても太刀打ち出来ない。そう考えたマイクロトフは、腰に携えた大剣の鞘をきつく握り締めた。
が、柄に手を掛けたところで、幼き頃より脳裏に刻み込まれた一節が過った。
───ゆめ忘れるな、己が一切を捧ぐ覚悟無く、その剣を抜くは能わず。
それは今は亡き父王に遺された絶対の教え、聖人の血を継ぐ身に与えられた、祝福であり呪詛だった。
躊躇を察したのか、忠実なる従者は必死に訴えた。
「殿下! 騒ぎが大きくなれば騎士が気付きます、それまでわたくしがお護り致しますから……!」
それは望めまい、と歯噛みしながらマイクロトフは心中で返す。
これほど城に近い場所に大勢の刺客が潜んでいた。正に警邏の助けは当てにならないという証ではないか。
マチルダ騎士団───父王の存命中には、あんなにも頼もしく誇らしかった自国の象徴は、既に「敵」の手に掌握されつつある。
嬲るように剣を突き付けられる乳兄弟を思い、指先に力が増した。不安を押し退け、剣を抜き放とうと葛藤を捩じ伏せた、その刹那。
場に不似合いな、柔らかな声が割り込んだ。
「礼節に厚い騎士の街と聞いていたのに、弱いもの苛めが横行しているとは嘆かわしいね」
抜刀寸前だったマイクロトフや決死の構えで脂汗を滲ませていたフリード・Yは無論のこと、両手を越える襲撃者までもが気を呑まれて硬直した。
一斉に集まる視線の先、いつの間に寄っていたのか、すんなりとした栗毛の馬が脚を止めている。
穏やかな午後の陽光で金に輝く薄茶の髪、溶かした蜜を思わせる琥珀色の瞳。稀なる美貌の青年が、馬上から冷ややかな眼差しで一同を見下ろしていた。
NEXT →