ゆるゆると立ち上がったマイクロトフが、カミューが倣うのを待って呼び掛けてきた。
「もう少し話していて良いぞ。おれは馬でその辺りを回ってくる」
肩を竦めてカミューは返す。
「そうもいかないさ。片時も離れないでくれと、宰相殿に泣きつかれているからね」
「おれも剣士の端くれだ。そこまで案じられると、少々複雑なのだがなあ……」
心外そうにぼやく男の傍ら、不意に琥珀色の瞳が鋭さを増した。背後の草原へと向き直りつつ、カミューは言う。
「そうやって慢心したときが危ないんだよ」
「慢心するほど、己の剣に満足していないつもりだが」
マイクロトフらしい物言いに口元は緩んだが、声音の緊張までは解けなかった。
「だとしたら、執務続きで少なからず勘が鈍っているらしいな、皇王様」
漸くマイクロトフも気付いたようだった。カミューが凝視する方向に目を凝らした後、感心しきりといったふうに首を振る。
「……本当におまえには驚かされてばかりだ、カミュー」
陽炎めいて揺らめく彼方に、薄く浮かんだ影がある。急いで馬まで戻ったマイクロトフは、改めて遠眼鏡を取り出しながら、低い語調で問うてきた。
「魔物か?」
「分からない。だが……もしそうなら、おまえの出番は無しだ、マイクロトフ」
え、と虚を衝かれたように振り返られて苦笑する。
「頼りにしていない訳ではないよ。ただ、もうここを戦いの場にしたくないんだ。踏み込まれぬよう、射程内に入り次第、「烈火」で片を付ける」
「そうか……そうだな、うむ。しかし、火魔法が効かない魔物だったら?」
「やむを得ないから、打って出る。そのためにも、早いところ自慢の品で相手を見極めてくれないかな」
マイクロトフは慌てて遠眼鏡を目に当てた。それから訝しげに首を捻る。
「魔物……ではないようだ。変わった獣だ、馬の一種だろうか? 人が乗っている」
独言じみた呟きが終わるか終わらないかのうちに、向こうも二人に気付いたらしい。速度を上げたのか、それは見る見る肉眼でも識別できるほどの像となっていった。
ティントとの国境を越えて以降、何度かグラスランドの民と接する機会はあった。ただ、彼らは噂に語られるほど「よそ者」すべてに敵愾心を抱いたりしない。このため、グランマイヤーらが危惧していたような面倒事は起きていなかった。
ひとたび街道を離れてからは、殆ど人の姿を目にすることもなくなった。草原とデュナン各国領とを隔てる山岳添いに北上する間、現れるのは魔物ばかりだったというのもあるのだろう。マイクロトフの声音には、警戒よりも、寧ろ珍しさのようなものが潜んでいた。
「このように奥まった地でグラスランドの民と行き合うとはな。二騎いるぞ、どうする? うまく遣り過ごせるだろうか」
片やカミューは、小さく息を呑んでいた。よもやここで再会に至るとは予期していなかったからだ。
馬よりもやや小柄で、背に縞を持ったしなやかな獣。風に乗るかのように軽やかに地を蹴けていたそれが、そこそこの距離を残して脚を止める。戸惑い顔のマイクロトフを残して獣に駆け寄ったカミューは、その一方から下り立った若い女をきつく抱き締めた。
「……らしくもない、情熱的な歓迎だな」
ポンとカミューの背を叩いた女が、いくぶん声を潜めて耳朶に囁く。
「が、離れた方が良さそうだ。おまえの連れが憤死しそうな顔をしている」
振り向けば、確かに指摘通りの表情であった。現れた人物が敵か否かを判別し終えぬまま見せ付けられた抱擁劇に──しかも相手が、うら若い女性だったのもあってか──マイクロトフは、「直視に耐えぬ」とでも言いたげな顔つきになっていた。
困った奴だと内心で溜め息をついたカミューは、女から身を離してマイクロトフへと向き直る。紹介しようとするより早く、高らかな名乗りが挙がった。
「カラヤ族長ルシアだ。そちらは戦士ビッチャム、私の補佐役をつとめてくれている」
呼ばれた今ひとりが、騎獣から下りつつ軽く会釈する。やっと状況が掴めたふうに、マイクロトフは慌てて威儀を正した。
「し……、失礼した。おれはマイクロトフ、カミューの友人です」
「……だろうね。よほど心許した者でなければ、この場所に連れて来たりしないだろうから」
続いて、ルシアの横に並んでカミューを見据えた男が、厳つい顔立ちに似合わぬ穏やかな調子で言う。
「元気そうだな。前に会ったときとは雲泥だ」
───それは、マチルダの皇太子という「敵」に近付く手段を思いあぐねていた頃のこと。どうしてそうする気になったのか自分でも分からぬままに、グラスランドに足を踏み入れたカミューは、成り行きからカラヤの村に立ち寄った。
村は前族長を失って喪に服していた。そこでルシアから、族長の死がグリンヒルによる謀殺である可能性を聞かされ、同時に、ロックアックス入りするための策を与えられたのだ。
そうして訪れたグリンヒル領内の村で、ビッチャムをはじめとする数名のカラヤ戦士に迎えられた。グリンヒル公主ワイズメルの周辺を探っていた彼らは、族長ルシアの指示に従って、報復への第一歩となる舞台をカミューに用意してくれたのだった。
別れの日、ビッチャムは、幼子にするようにカミューの頭に手を乗せて「死ぬな」と言った。対して、「終わるまでは死ねない」と答えた記憶がある。ビッチャムは何事か言いたそうに口を開き掛けたが、結局は何も語らなかった。たとえ報復を果たしたところで、追撃から逃れ切れぬであろうカミューを痛ましく感じていたのかもしれない。
カラヤ族が誇る義侠の戦士。敵には苛烈きわまりなく、けれどひとたび仲間と見た相手には絶対の誠意を貫く男。長々とカミューを凝視した後、ビッチャムは微かな笑みを浮かべた。
「良い面構えになった。やっと本当のおまえを見た気がする」
カミューが知る限り、ビッチャムという男は、饒舌とは言い難い人物だった。しみじみと語る様を意外に思ったのか、ルシアも瞬きながら男を見上げている。
未だ驚きを禁じ得ぬまま、カミューは呟いた。
「会えて嬉しいよ。でも……二人とも、どうして……?」
「遠乗りついでに、寄ってみる気になったのさ。出掛けに思い出してね。確か今日は、月命日にあたる日ではなかったか?」
言いながら小石を積んだ墓まで進んだルシアは、倣ったビッチャムと二人、厳粛な面持ちで黙祷した。程なく向き直った彼らにカミューは笑み掛けた。
「ここを片付けてくれたのは、やはりカラヤの民だったんだね」
「戦士たちが狩りに出るとき、足を伸ばして少しずつ、な。焼跡を放置しておくと、魔物が棲み付くことがある。同胞が眠る地を魔物の根城にしてはならぬと、父の言い付けで」
「キアヌ族長が……」
「廃材は、あの山路にばら撒いた。同じ経路で敵が再度の侵入を試みたとき、容易には果たせぬようにな。幸い、杞憂で済んだようだが」
当時ルシアは十代半ばで、力を要する作業の役には立たなかった。男たちと同等にはたらけないのを口惜しく思った彼女は、悩んだ末に、自身に出来る作業を見付け出したのだ。
焼跡に不自然に突き立てられていた一本の柱。村人の墓標だと悟ったルシアは、それを除いて、カラヤ式の墓に作り替えた。しるしが木材では、いずれ腐り落ちてしまうかもしれないと考えたためである。
語り終えた後、ルシアは真摯な表情でカミューを覗き込んだ。
「村の流儀に合わせるのが筋だったろうが……、不快に思ったりしないだろう?」
問われても、胸が詰まって答えられない。ただ無言で頷いたカミューから墓へと、ルシアは再び視線を移した。
「随分と伸びたな……、周りの草は抜かないで、そのままにしておけ。供えた花が根付いたようだ。毎年、春になると小ぶりの薄青い花が山ほど咲く」
着いてからの違和感のすべてが明かされた今、沸き上がるのは言葉に尽くせぬ感謝ばかりだ。何と言えば良いのか迷った末に、カミューは黙したまま今いちど丁寧に礼を払ったのだった。
若きカラヤ族長が、やや表情を改める。
「それよりカミュー、話がある」
言外に潜んだ「二人だけで」という意向を汲んだらしく、ビッチャムが山間の方を見遣った。
「久々に、あの路の状態を検分してこよう。若いの、一緒に来い」
呼ばれたマイクロトフが、ぱちぱちと瞬く。
「おれ、ですか?」
「他に居るか」と呆れ顔で往なすと、ビッチャムは騎獣に向かって歩き始めた。戸惑いを隠さず見詰めてきたマイクロトフに、申し訳なさを覚えつつ、頷いてみせるカミューだ。横からルシアが、揶揄混じりの声を放った。
「カラヤの馬は風のように走る。おまけにビッチャムは歴戦のつわものだ。付いて行く自信がないなら、ここで待っていても構わないぞ」
挑発的な言を向けられて、闘志に火を点けぬ男ではない。マイクロトフは、俄然、奮い立った顔つきで愛馬に急いだ。
競うように駆け出す二騎を可笑しそうに見送ったルシアが、少しして、ひっそりと口を開いた。
「先月、グリンヒルから和解のための使者が来た。その折、マチルダの情勢についても少し話が出たよ。あの男、マイクロトフと名乗ったな。あれが……そうなのか?」
こくりと相槌を打つ。
「マチルダの新しい王。わたしが討とうとしていた男だよ」
そうか、とルシアは腕を組んだ。
「死に際にワイズメルが洩らした言葉から、もしやと思ったが……やはり王は、焼き打ちとは無関係だったんだね」
「その件なんだけれどね、ルシア。聞いたよ、わたしに知らせようと、わざわざロックアックスまで足を運んでくれたそうだね」
「可能性の一つに過ぎなかったが、真の敵を残したままでは、おまえが浮かばれないだろうと思ってね」
窺うように彼女はカミューを一瞥した。
「……死ぬ気でいただろう?」
最後に会ったとき、決意を見透かされていたようだ。カミューは弱く微笑んだ。報復対象の一人はマチルダの皇子、命を捨てる覚悟なく立ち向かえる相手ではない───悲壮に思い詰めていた頃の自分が、今となっては滑稽でならない。
ルシアは続けた。
「直に会って話せたら良かったが、留守にしていたみたいだったからね。文を預けたものの、ちゃんとおまえに渡るか、少し不安だった。グリンヒルでおまえ宛ての伝言を頼んだときにも、ゲオルグは良い顔をしなかったから」
喉元まで浮かんだ言葉をカミューは呑み込んだ。どうにも言いづらかったのだ。文は知らぬところで開封された。挙げ句、自らがマイクロトフに鏡文字の成り立ちを教えていたばかりに、記された内容もすべて読み解かれてしまったのだ、とは。
あの文は、仮定を元に組み上げられたゴルドーの陰謀を裏付ける鍵となった。カミューに誤った相手を討たせまいとするルシアの意図は、充分に果たされたのだ。敢えて真相を伝えずとも、罪には当たるまい───そんなふうにカミューは自身を納得させたのだった。
「それにしてもゲオルグの奴は、何でまた、城なんかに潜り込んでいたのさ?」
「……案じてくれていたんだよ」
「聞いた話じゃ、ゴルドーとかいう騎士団長を斬ったのは、おまえではなかったようだけど」
「ゲオルグ殿だ」
目を閉じれば、鮮やかに蘇る。マイクロトフ、そしてカミューの将来を思い遣って、自ら汚れ仕事を買って出た男の厳しい一閃が。そして、静かな眼差しで見詰める彼の、深く、限りない情愛も。
「ゲオルグ殿が、終わらせてくださったんだ」
ふうん、とルシアは首を傾げる。
「復讐には否定的でも、やっぱりおまえが可愛かったのかね。それで……、今もあの街で菓子屋巡りをしているのかい?」
その言いように破顔して、カミューは緩やかに首を振った。
───あてもない旅だが、一緒に来るか。
そう言って、焼け落ちた村から連れ出してくれた人。相も変わらず、気の向くまま、風の向くまま、飄々と世を渡り歩く男の姿が浮かぶようだった。
「行ってしまったよ。これまで通り、あの人の剣が必要とされる何処かに、……ね」
巡らせた視線の遥か先、山裾に着いたらしい二つの馬影。マチルダの若き王とカラヤの戦士、まるで接点のなかった二人が、会話の取っ掛かりを求めて苦慮する様が浮かぶようだ。
ふと、ルシアがカミューを振り仰いだ。
「あの男、おまえの過去を……?」
「知っているよ。ぜんぶ知った上で、真の敵を見付け出してくれたんだ。彼と、彼と心を同じくする騎士がいなければ、わたしはゴルドーに欺かれたままだっただろう。ただ……指示の出所はともかく、村を襲ったのは紛れもなくマチルダ騎士だからね。彼は王として、亡き人たちに詫びるつもりでここまで来たんだ」
へえ、と意表を衝かれたような声音で呟くルシアだ。
「悪くないな。そういう潔さは、嫌いじゃない」
「彼の価値観は面白いよ。とにかく一本気で、意志を曲げない。人を疑うよりも、信じて自分が傷つく方が良いと考えるような男だ」
それは、とルシアは顔をしかめる。
「王に向いてないんじゃないか?」
「……多分ね。でも、支えようとする者が周りに大勢いるから大丈夫だ」
たとえ王位から退いても、マイクロトフが求める正義は、確実に騎士団に浸透していく。やがていつの日にか、彼は本当の意味で、騎士たちの長に立つかもしれない。王から騎士団長へと名を変えても、マイクロトフが放つ輝きは、マチルダの前途を温かく照らすに違いない。
「ルシア、聞いても良いかな」
静かに切り出してみる。
「ワイズメルを討ったとき、その場に公女も居たそうだね。君はワイズメルの血を絶やすと決めていた。なのに何故、公女を生かしたんだい?」
深刻な調子の問い掛けに身構えていたらしいルシアは、そんなことかと言いたげに鼻を鳴らした。
「長老たちにも言われた。半端な真似をすべきではなかった、と」
「そうではないんだ、わたしが知りたいのは……」
説明しかねて口篭った隙に、答えが返った。
「あの女、テレーズが目を逸らさなかったからさ」
目の前で父を殺され、屈強の戦士に取り囲まれて。産まれたての雛のように震えながら、それでも揺らがなかった強き眼差し。
「あの女は父親とは違った。無様に命請いするでもなく、ただ真実を知って、己の為すべきを果たしたいと、それだけを望んでいた。私はね、カミュー……あの女に気圧されたんだ」
───武器も持たぬ非力な女に、戦士たちの長ともあろう身が。そう続けた声に、だが自嘲の気配はなかった。
「突き付けられた刃に、テレーズは心の強さひとつで抗ってみせた。こんな戦い方もあるのかと、目を開かされた気がしたよ。そして思った。この女は真実から逃げたりしない、父親の罪に蓋をして、知らぬ顔を通す人間ではない、とね。テレーズを生かしておくことが、おそらくカラヤにとって最良の道なのだろうと直感したのさ」
間違っていなかっただろう、とルシアはカミューに笑み掛けた。
「ワイズメルの罪は、マチルダ王の即位式……各国の権力者が居並ぶ中で公表されたそうじゃないか。公主と一緒にテレーズを殺していたら、そうはならなかっただろう。グリンヒルに同情したデュナンの連合軍が、カラヤの立場など理解しようともせずに攻め入ってきたかもしれない。カラヤの戦士は死を恐れない。だが、敵に大義を叫ばれるような戦いは我慢ならない。だからこれで良かったんだ。私は族長として正しい判断を下したと信じている」
そうだね、とカミューは心から賛同した。
「君は立派な族長だ。御父上も、誇らしく思っておいでだろう」
「カラヤで暮らしたくなったか?」
揶揄うようにルシアが唇の端を上げる。
「迎え入れてやっても良いぞ。おまえを取り合う女たちの仲裁で忙しくなりそうだが、共に仇討ちという労苦を経験した仲だ、それくらいは我慢してやる」
ぷっと吹き出して首を振るカミューだ。
「ありがとう。とても魅力的な申し出だけれど……生きていく場所は、もう見付けたんだ」
───石で覆われた荘厳な街、草原の雄大を思わせる男の傍ら。
その一節は、ごく自然に唇に昇った。
「マチルダで、騎士になろうと思っている」
ほんの僅か顔を傾けて、ルシアはカミューを凝視してきた。意外なほど静かな目線を向けられて、何故か彼女を見詰め返すことが出来なかった。
ややあって、ルシアは髪を掻き上げた。さらりと風に流れたそれは、夕映えの中で鮮やかに光り輝いた。
「そうか」という小さないらえ。戸惑いがちに見遣った先で、カラヤの女族長は愉快そうに笑んでいた。
「何? 私が猛反対するのを期待していたのか?」
「そういう訳では……」
「あの石だらけの街で、マチルダ騎士ってのに会っていなければ、「狂ったのか」と怒鳴り飛ばして、その首を締め上げていただろうけどね」
ルシアは苦笑を堪える顔で、愛用の鞭を一撫でした。
「おまえの村の話を聞いてからというもの、私もマチルダ騎士を憎んだよ。カラヤの戦士は、敵であろうと、女子供は見逃すように努めている。なのに、村ひとつ皆殺しにして回るなんて……誇りを持たぬ外道の集まりだと蔑んでいた。向こうも同じだと思っていた。デュナンの奴らは我らを蛮民と呼ぶ。グラスランドの民など、人とも見ていない連中ばかりなんだろう、とね」
でも、と山岳の彼方を見越すように遠い目で続ける。
「城で私を迎えたマチルダ騎士は、カラヤ馬を知っていた。私がグラスランドの民と知って尚、丁重な扱いを通したのさ。言っていたっけ、「カミュー殿と知り合ってからグラスランドに興味を持った」、とか何とか……。おまえ、よほど好かれたらしいな。その顔で、男にまで愛想を振り撒いてると、いつか痛い目に遭うぞ」
思わず呼気を詰まらせたカミューに気付かず、ルシアはくすくすと肩を震わせた。
「でもまあ……その調子で、どんどん騎士を誑し込むんだね。そうしたら、グラスランドとマチルダの間に戦が起きても、連中、おまえに遠慮して使い物にならないだろうから」
言いようはともかく、ルシアの意見はゲオルグの最後の助言に通ずるものがあった。カミューの唇に、無意識の笑みが昇る。
「戦いになる前に止めるよ」
「たかが騎士ひとりに、戦を止める力なんてあるものか」
「だったら、力を得るよう努める」
「騎士として偉くなっても、決定を下すのは王だろう?」
程なくマチルダは王制を廃するが───そう内心で答えつつ、カミューは朗らかに言い切った。
「ならば、頑張って王を誑し込もう。もっとも、あの王様は、侵略なんてこれっぽっちも頭にないけれどね」
「……それにもう、充分おまえに入れ込んでいるみたいだしな。おまえが私に抱き付いてきたときの顔を見たか? 大事な玩具を取られた子供みたいで、笑えたね」
言い得て妙だ。ただ、真相は、もう少しだけ艶めいた間柄なのだが。
「噂をすれば影」という言葉を実践するかのように、山裾から男たちが戻ってくる。刻々と近付く二騎を見据えながら、カミューは言った。
「恨みで剣を振るっても救われない───ゲオルグ殿の言葉が、今は分かる。わたしはマチルダで、村から逃げた騎士の中で、ただ独り生き残っていた男をこの手で斬った。続けて最後の敵……、マイクロトフを討とうとした」
でも、と弱く自嘲する。
「出来なかったんだ。彼の真っ正直な生き方には好意を抱いていたし、何より、虚しさを知ってしまっていたから。あれほど憎んでいた騎士を討ち果たしても、何ら快哉を覚えなかった。何をしても、失われた人たちが戻らぬ事実を思い知らされただけだった。結局、マイクロトフを殺せなくて、そこのとき彼に近付いた理由が露見した」
父は潔白だと必死の形相で訴えてきた男。必ず真実を得て亡き人たちに報いると誓ったマチルダの皇太子。
「父親を信じ抜いていた。何ておめでたい男だろうと思ったよ。でも、彼は正しかったんだ。わたしが恨み続けた王は、巷で噂される通りの清廉な人物だったらしい。見当違いの恨みを向けていたことを、ここへ来る前、墓前で詫びたよ」
そこまで黙して聞いていたルシアが、ポツと言葉を挟んだ。
「あの男の父が、本当にグラスランド攻めの首謀者だったら……おまえはあの男を斬っていたか?」
カミューは俯いて首を振る。
「彼はマチルダに必要な男だ。己の正義を貫き、心正しき騎士を従えて、この先、多くの弱き民を護っていく。君もテレーズ公女に対して感じたんじゃないか? こんな出会い方でなければ、と」
───良き友になれたのではないか。
それは真実を突いたらしい。ルシアはおもむろに背を正した。
「一本気な王と、礼節を重んじるマチルダ騎士団。おまえはそこに、自分の未来を委ねるだけの価値を見たんだね」
そうして軽く天を仰ぐ。
「おまえの人生だ、好きに生きれば良い。どういった肩書きを持とうと、このグラスランドで生きたおまえの誠を信じている。不幸にも刃を交える日が来たら、そのときは誇り高く戦え。私もそうする」
「ルシア……」
彼女は「同志」だった。互いに、理不尽に命を摘まれた者のため、己を賭して敵を討とうとしていた悲しき同志。
いつしか肉親にも近しい慕わしさを覚えるようになった。それは遥かなる草原の上に育まれた、不可思議で優しい絆だったのだ。
たとえ遠く離れようと、互いに寄せる親愛が失われる日は来ないだろう。彼女に恥じぬよう、己の信ずる道を歩もうと全霊で誓うカミューだった。
不意に語調を変えてルシアが問うた。
「カラヤの村に寄っていくだろう?」
「そうもいかないんだ。何と言っても王様連れだからね、往復にギリギリの日数しか与えられていなくて……。ティント領内で、付き添いの騎士が戻りを待っている。予定に遅れようものなら、大騒ぎになってしまう」
「厄介な連れだな」
すかさず零して、次いでルシアは上目でカミューを窺い見てきた。
「金はどうするのさ」
「金……?」
「忘れたのか? 傭兵仕事で稼いだ金を、私に預けて行ったじゃないか」
ああ、と思い出して目を細める。
「あれはデュナン各地の通貨だけれど、交易商を通せば、グラスランドでも使えるようになるだろう。君には本当に助けられたからね、取っておいてくれ」
「見返りを求めて手を貸した訳じゃない」
「分かっているよ。でも、わたしには他に感謝を示す手段がないんだ。あって困るものでもないだろう? 君の護るべき民のため、役立てて貰えたら嬉しい」
ルシアは暫し考え込んでいた。じき、ゆっくりと頷いた横顔には、決意にも似た厳しさが現れていた。
「……確かに、金はあっても困らない。不作の年などは特にね。私が族長でいる以上、何があっても老人や子供を飢えさせたくない」
うん、と微笑むと、ルシアはさばさばと言い切った。
「まあ、良い。おまえの再出発に協力してやる。無から成り上がれ、カミュー」
「鋭意、努力するよ」
近付いて来るカラヤ馬と大柄な黒馬。競い合った往路とは打って変わって、速度を合わせるように並んで走っている。乗り手ふたりが時折言葉を交わしている様が、カミューたちにも見て取れた。
「何だい、ビッチャムの奴……おまえの王が気に入りでもしたのかね」
興味深げなルシアの言葉が胸に温かい。
まるで未知だった者同士でも、顔を合わせ、語り合ううちに通じる何かがある。ビッチャムとマイクロトフの姿が、グラスランドとデュナン各国の未来図となる可能性とてあるかもしれないのだ。
暮れゆく大地に注ぐ紅い陽光。一時期、血色に見えたそれが、今は再び生命の力強さを感じさせる。先々に希望を覚えるからこそ、そう映る色彩。
やっと、在りたかった自分に還れたのだ───カミューは乾いた風に吹かれながら、満ち足りて目を閉じた。
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