今度はカミューが黙り込む番であった。
良く聞く伝承じゃないか、などという言葉も出なかった。
それほどマイクロトフは真剣そのものだったのだ───何故か背が冷えてゆく程に。
「そうか……初めて見たときよりも翌年が、それよりも更に今の方が見事に花をつけているのは、そのためだったのか」
感心しきりといった表情で桜を見上げる友の細めた目に宿る感情は、未だ嘗てカミューの知らぬ奇妙な深淵である。
「大切な……とても大切な友だった」
ふと、口調が変わった。マイクロトフは幽鬼のように立ち尽くしたまま、虚ろに散華に晒されている。
「だから、ここに埋めたのだ。来る春毎に花に包まれれば寂しくなかろうと……そうだったのか、花の糧に……」
そこで巡らされた瞳にカミューは竦んだ。得も言われぬ凍えが四肢に広がる。友はにこやかに笑んでいるのに、何故こんなにも見知らぬ男に見えるのか。
「友人を……埋めた? おまえが……?」
震える声でそれだけ問うと、マイクロトフは微かな沈痛を過らせた。
「略式ではあるが、一応は葬儀の手順を踏んだぞ? 墓碑を立ててやらなかったのには胸が痛むが、今更掘り起こすのも憚られるしな」
誰を───そう糾すには動揺が勝っていた。亡き人を思い返しているのか、マイクロトフは陶酔に浸っているように見える。その様相は、もはやカミューの知る従騎士とは到底言えなかった。
「皆がおれを付き合いづらい男だと避ける中で、彼だけが友だった。どんなときでも彼はおれから逃げようとはしなかったのだ……カミュー、おまえのように」
一歩進む足の分だけ、カミューは僅かに退った。
「綺麗だった、おまえに負けないくらいに。そしておれを好いてくれていた」
だから、と彼は項垂れる。
「彼が死んだとき、とても辛かった。おれが死なせてしまったからだ」
「し、死なせた?」
「そうだ」
大きな拳が戦慄く。沈痛な声が呻いた。
「そんなつもりはなかったのに、気付いたときは遅かった。泣いて、泣いて……そしてここを思い出した。この樹の下に埋めてやろう、死した季節が巡るたびに桜の花に見守られるようにと……それくらいしか思いつかなかったのだ。けれど、無益ではなかったのだな。彼は桜の糧となって、今も生き続けている───」
そこでマイクロトフは再び正面からカミューを見据えた。
「長いこと彼ほどに心許せるものには会えなかったが、おまえは別だ。だから……紹介する」
戦きは既に心までも満たしていたけれど、伸ばされた手に辛うじて我に返ったカミューは掠れたうめきと共に身を翻そうとした。
こんな男は知らない。
こんな、冷たい狂気を漂わせるマイクロトフは。
「やめろ、離せ……離してくれ!」
一瞬の差で彼を背後から抱き竦めた男は、怪訝を隠さぬ声で囁いた。
「別に亡骸を掘り返して会わせようという訳ではないぞ、嫌がらずとも良かろう?」
これまで同室に暮らすのを厭ってきた仲間たちは、この異様を察していたのか。
気付かなかった自分が愚かだったのか。
この男に胸をときめかせた刹那はいったい何だったのか。
ズルズルと樹木の根元に引き摺られながら、カミューは慟哭の喘ぎを洩らし続ける。そんな葛藤に委細構わず、マイクロトフは力任せに彼を跪かせた。
「久しぶりだな、ジニー。今日は大切な人を紹介しようと思って来たのだ」
逃れようとするカミューを押さえつけたまま、マイクロトフは土塊に向かって語り掛ける。
「不実と謗らないでくれ。決しておまえを忘れた訳ではないが、おれは彼に心惹かれてしまった。同じ従騎士の仲間で、カミューと言う。とても優しい、掛け替えのない存在だ」
恐怖の混沌に絡め取られながらも、男の述懐に胸が疼く。抗いを放棄して、カミューは膝を折ったまま力なく肩を落とした。
『死なせた』という意味はさだかではないが、マイクロトフはジニーという名の親友を失った悲しみ──おそらく何らかの自責を伴った──のあまり、狂乱に足を踏み入れてしまったのだろう。
こんな辺鄙な場所へ遺体を移され、葬儀も満足にあげて貰えなかった少年を痛ましく思うけれど、それだけマイクロトフの情愛は深かったのだ。
ならば、自分が傍に居ればいい。
普段は狂気の兆候が見えないのだから、騎士生活を脅かすほどの窮状とは言えまい。失った友の代わりに自分が傍らで支え続ければ、いずれ心の傷も癒える筈だ。
───だが。
ふと、カミューは思案に暮れた。
桜の樹を見つけたのは士官学校に入った年だとマイクロトフは言った。個人差はあるが、彼らの場合、騎士試験を控えた現在で四年程を過ごした計算になる。
その間、マイクロトフとそれほど近しかった友人の話を聞いただろうか。同期の仲間にも遠巻きにされる男に、学校外の親友の存在など囁かれていただろうか。
疑念が竦みを越えた。
「マイクロトフ、障りがなければ教えて欲しいんだが……、その友人とはどういった関係で知り合ったんだい?」
おずおずと切り出したカミューに男は満面の笑みを見せた。
「三年前の騎士団創立記念祭だ。街路に立ち並ぶ出店の一つで出会った」
思い出を噛み締めるようにマイクロトフは空を見遣る。
「今でも覚えている。ジニーは周囲を色褪せさせるほど魅惑的だった」
ちくりと刺した痛みが妬心だと認めたくはなかった。カミューは頷いて続きを促す。
「優美な身体の線、聡明そうな眼差し。彼との出会いは運命なのだと確信した。離れ難くて、長いこと見入っていた。たまたま通り掛かった従騎士たちに呆れられるほどに」
「…………」
「彼もおれを好いてくれたと直感したのだ。連れ返らずにはいられなくて───買って帰った」
そこでカミューは瞬き、復唱した。
「……『買った』?」
「店の主人もおれの想いを読んだらしくて、だいぶ吹っ掛けられたがな」
───嫌な予感がした。
聞かなければ良かったと悔やむような、暗然とした予感が。
「硝子鉢込みで三百ポッチ……当時のおれには安くなかったし、周りからも散々止められたが、後悔はしていない」
「鉢……」
マイクロトフはうっとりと言い募った。
「おまえにも見せたかった。本当にジニーは綺麗だったのだぞ。繊細で、それでいて威風に満ちていて……おまえにとても良く似ていた」
それから、はっとして慌てて首を振る。
「いや、誤解しないでくれ。確かに……最初おまえに惹かれたのは彼を重ねていたからなのかもしれない。だが、今は違う。雑草を部屋に持ち帰ろうとする優しさを知ったあの日から、おまえはおれを理解してくれる唯一の存在ではないかと思った」
「理解…………」
今や泣き笑いしか浮かべられず、こんもりと盛り上がった土塊を睨み付けるカミューである。
「唯一の友だった?」
「おまえと親しくなるまでは、な」
「あの花と同じように、宿舎の部屋に……?」
「無論だ。おれが戻ると直ぐに寄ってきてくれたものだぞ。一日の疲れも吹き飛ぶようだった。覗き込むと、嬉しそうに水面ぎりぎりで一回転したりしてくれた」
カミューは終に恐れていた最後の一言を紡ぎ出した。それはマイクロトフの耳に届かぬほどの掠れた小声であった。
「おまえにとって、わたしは……同列だったのか」
出店で売っていた、硝子鉢付き三百ポッチの───
「……金魚と」
マイクロトフが周囲の従騎士から一線引かれる意味を、ここに来て漸くカミューは悟った。
彼の情愛は度を越している。既に月は大きく夜明けへと傾いているというのに、二人は未だ桜の根元に腰を落としたままだ。
マイクロトフは憑かれたように語り続けていた。
最愛の友だった金魚ジニーとの思い出の数々、触れ合いの日々───そして訪れた唐突な別離。
士官学校の講義内容から三日ほど郊外に出向かねばならないことがあった。心を残しながらも大量の餌を鉢に撒いて出掛けたマイクロトフは、帰還の日、衝撃的な光景を目にしたのだ。それは、水面にふわふわと浮かんだ友の変わり果てた姿であった。
「……っ、一度に餌を与え過ぎてしまったのだ。過食で逝かせてしまうなど、おれが死なせたも同然だ」
そう声を詰まらせられては、カミューは『気の毒に』と返すしかない。
最愛なる友が絡んでは規律を遵守する気になれず、彼は片手に納まる亡骸と共に宿舎を抜け出し、夜陰を駆けた。そうして、この樹の根元に丁重に埋葬したという訳である。
もはや脱力のあまり口も開けないカミューにマイクロトフは情熱的に囁いた。
「やはり、おまえはおれの心を理解してくれるのだな。他の従騎士は皆、ジニーの話を嫌がって逃げたものだが。こんなにも真剣に、黙って聞いてくれたのはおまえだけだ」
「そう、か……」
引き攣って微笑む。
仲間がマイクロトフとの同室を拒む理由はこれだったに違いない。
十代半ばの男、それも勇猛の具現とも言うべき騎士志望者が金魚を友と呼び、徒ならぬ愛着を繰り返し披露する。先程恐れた狂気とは多少質は異なるが、それでも十分に薄ら寒いものがある。
彼の盲愛が噂にならないのは、仲間の温情、あるいは触れるべからずといった暗黙の了解なのだろう。
これまでカミューが思い出話の洗礼を受けなかったのは、親しい友──人間の──が出来ないマイクロトフに、後れ馳せながら無意識の自制がはたらいたためかもしれない。
───それにしても。
何を悲しむべきなのか、カミューにも分からなかった。
同性ながら初めて心をときめかせた男が金魚との友情に執着する人物であったことか、あるいは自分が金魚に重ねられるような人間であったことなのか。
「多分、両方だな……」
虚ろに呟いたカミューにマイクロトフは首を傾げた。
「何がだ?」
「いや、何でもないよ……」
ついでに、もう一つ思いついてしまった。
この男と親しく付き合っている自分が、仲間から同じ人種と見做されているであろうこと。
確かに故郷に咲く野花を懐かしみ、鑑賞用の鉢を用意したカミューである。小動物を慈しむ気持ちは十分に理解するけれど、どうあっても意思の疎通は至難と思われる金魚を相手にマイクロトフほどの情熱を抱く自信はない。
「カミュー、おまえは思った通りの素晴らしい男だ。どうか、末長く傍に居て欲しい」
人間として初の親友と認められたようだが、今のカミューには喜んだものか否か悩めるところだ。
今より続く長い騎士人生を共に歩む──かもしれない──男と二人、桜吹雪に見守られて過ごす夜。
付き合いづらい男、マイクロトフ。
今漸く対峙した友の真実を噛み締めるカミューの胸中には薄紅色の哀愁が舞っていた。
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