「───花を見に行かないか?」
そろそろ春も過ぎ行く深夜。
日頃から堅苦しい友人の、頬を染めながらの提案に、カミューは束の間目を見張り、それから柔らかく微笑んだ。
カミューが都市同盟最北の街ロックアックスに渡ったのは、十三を迎えた春のことである。
風にそよぐ草の海、土と木の匂いのする民家。ごく当たり前のように自然と共存していた故郷の地とは異なる、人の手で整えられた街並みに畏怖と心許なさを募らせたのを覚えている。
マチルダ騎士の一端に名を連ね、日々精進を重ねていても、時折胸を過る草原への郷愁は捨て去れない。将来を属望され、仲間と肩を並べて笑い合っていても、雄大な大地を懐かしく思い返す瞬間を止められなかった。
石作りの家々の軒を飾る花は美しい。けれど、雑草に紛れて開いていた花の方が鮮やかだった。それが何ものの手も借りず、己の生命をしなやかに主張する輝きだったのだと気付いた日───それは騎士士官学校の同期の一人に過ぎなかったマイクロトフという少年が、初めてカミューの中で意味を持った日でもあった。
『花が好きか?』
不意に背後から掛けられた声に覚えたのは、先ず困惑だった。
一日の講義を終えて宿舎に戻る通路の脇、ひっそりと咲いた小さな花の前に膝を折っていたときのことである。振り向くと、大柄な従騎士が神妙な顔で佇んでいた。
カミューも早くからマイクロトフには意識を払っていた。
類稀なる逸材と周囲から持て囃される自分と士官学校中で唯一互角に剣を交える男。出自も実力も申し分なく、正に騎士となるべく存在するかのようなマイクロトフ。
頭抜けた力量はカミューも心から認めていた。けれど、およそ一年あまりの学校生活において個人的に言葉を交わしたことは皆無だった。
中途編入者として周囲の少年よりも一つ年長のカミューだが、端正な容貌や柔和な人当たりから周囲に人は絶えない。片やマイクロトフは、真面目で正直な人柄を評価されていたものの、付き合いづらい男と呼ばれていた。
仲間たちが談話室で城下の乙女の噂に興じるさなか、淡々と『消灯時間だ』と水を注す。
兵舎を抜け出して新しく出来た酒場に気晴らしに行こうと話が持ち上がれば、『禁止されているからおれは行かない』と部屋に戻ってしまう。
話を向ければ乗りはするが、自ら会話に加わることは滅多になく、大抵は場の雰囲気を弁えずに周りを冷えさせる男───カミューの認識も仲間のそれと大差なかった。
そんな男に声を掛けられた戸惑いは、けれどすぐに氷解した。花に向けられた黒い双眸が思いがけぬほど穏やかだったからだ。
『グラスランドで良く見た花だ。ロックアックスで見るのは初めてだけれど』
するとマイクロトフは苦笑らしきものを浮かべた。
『このあたりでは雑草として抜かれてしまう花だからな。これも、庭師が見つけるまでの命だ』
カミューは虚を衝かれて言葉を飲んだ。横に並んで屈み込んだ男が、小さく『可哀想に』と呟くのが聞こえたのだ。
厳つい顔に小さな命を愛おしむ優しさが見え隠れする。あまり情感を表立たせない男の無器用が肩越しに伝わってくるようだった。
カミューは手袋を外して、花の周囲の土を掘り始めた。
『どうするつもりだ?』
怪訝そうに問うたマイクロトフに華やかに言って退けた。
『聞いてしまっては放っておけない。鉢にでも植え替えて部屋で育てるよ』
マイクロトフは暫し眉を寄せて考えていたが、やがて息を吐いて、近くにあった平たい小石を取り上げた。
『これを使った方が早いぞ』
共犯者めいた微笑みを浮かべ、根を傷つけぬよう細心を払いながら作業に入った男を横目で窺うカミューの胸に、温かな親愛が兆した。それは未知なるものへ踏み込む感慨であり、新たな日々を予感させる高揚でもあった。
その一件があってから、二人は急速に接近した。
もともと才覚を認める人物だ。仲間を辟易とさせる非社交性が、融通の利かない生真面目さの延長に生じたものと知れば然して気にならない。寧ろ、周りの少年たちとは掛け離れたマイクロトフの朴訥な人柄が新鮮でさえあった。
何かと連れ立つようになった二人に、同期の従騎士たちは不可解を隠せぬようだった。
彼らから見れば二人は両極、反発し合う対象に思えていたのだろう。己にない何かに惹かれる衝動というものは、未だ十代半ばの少年たちには理解し難いものらしい。
カミューはよく仲間に問われた。
『あいつと一緒に居て疲れないか?』
その都度、笑いながら答えた。
『素っ頓狂で脱力させられることは多いけれど、不快ではないな』
斯くて従騎士らはカミューに対して同期一の鷹揚の感を高める。彼らも決してマイクロトフを嫌っている訳ではないのだが、無骨な騎士の卵は親交を温めるにはどうにも難しい人物だったようだ。
従騎士に当てられた宿舎は殆どが大部屋である。ただ、建物の関係から一つだけ二人部屋があり、マイクロトフはその部屋を使っていた。
普通ならば他人からの干渉を最低限に抑えられる境遇はありがたいものである筈だ。だが、彼の同居人は別らしい。突き抜けた勤勉と規律第一の真面目さが耐え難いのか、部屋替えを懇願する者は後を絶たず、最長の同室記録は一月半という凄まじさである。
あと数月で騎士試験に臨み、馴染んだ宿舎とも別れるという時期に差し掛かる頃には、カミューを除いたほぼすべての同期生がマイクロトフとの同居を体験していた。
ある日、談笑していた仲間の許へ顔色を失った従騎士が駆け込んできて訴えた。
『頼む、誰か部屋を替わってくれ』
途端に躊躇する一同の中、カミューはにっこりした。
『わたしの番だね、すぐに荷物を運ぶよ』
少年たちは安堵と落胆を同時に滲ませた。これまでカミューが二人部屋に行かなかったのは、彼との日常を楽しむ周囲が控え目な反対を為してきたからなのだ。
しかし最近の二人の親睦を見て、また、既に部屋替えに応じる意思を持つ者がいなかったこともあり、この決定は妥当とする他なかったようである。
荷物を抱えて二人部屋の扉を開いた彼を迎えたマイクロトフは、どうやら同居人が長く居続かない原因は己にあると理解しているようで、困ったような、申し訳なさそうな眼差しであった。
『宿舎生活もあと僅かだ。宜しく頼むよ、マイクロトフ』
明るく言ったカミューに返ってきたのは、おそらく他の少年たちが見たことのない、何処か照れ臭げな笑みだった。
同室で過ごすようになって真っ先に感じたのは幾許かの不思議であった。
確かにマイクロトフは堅苦しい男だ。
軽い冗談を零しても『どういう意味か良く分からない、すまないが詳しく説明して貰えるだろうか』などと真面目な顔で返すような男である。
けれど、それが同居に耐えぬほどの気詰まりに繋がるかと言えば、逆だ。『馬鹿だね』と笑えばますます首を傾げるマイクロトフが可笑しく、好ましい。
どうやら自分は人と感じ方が違うようだと心得たカミューは、マイクロトフと他者との仲立ちを努めるようになった。
誰もが付き合いづらいと称す男と唯一親しく接している、そんな現状が優越を掻き立てていたと言ってもいい。次第に張り詰めた謹直の鎧を緩めていくマイクロトフの姿を見ているのは楽しかった。
だからこそ、消灯時間も過ぎた夜更けの誘いに勝利感を覚えたのかもしれない。それは、彼にとってカミューが規律や訓戒よりも大きな存在となった証であったから。
部屋の窓から抜け出し、見回りの騎士の目を掻い潜って向かった先は城から少し離れた森の奥にある小高い丘だった。
ロックアックスで数年を過ごしたカミューも、このあたりへ足を運ぶのは初めてである。月明りを頼りに親友の背を追って木立ちを進んでいた彼は、やがて現れた光景に息を詰めた。
ぽっかりと切り取られたように浮かぶ丘の上に一本の巨木が立っている。古い桜の樹であった。
遠くに霞む月に照らされた枝が風に震え、闇に薄紅の花弁を散らしている。寒冷帯に位置するロックアックスでも桜の季節は終焉を迎えていた。城下では見られなくなった春の名残りが目前に広がる様は感嘆ばかりを誘った。
「こんなところに樹があるなんて知らなかったよ」
マイクロトフは小さく笑う。
「街にも花の名所は多々あるが、おれはこの樹が一番好きなのだ」
心から同意して、太い幹に掌を伝わせた。枝ぶりの見事も無論だが、周囲に仲間の樹もなく、天に向かう孤高の佇まいが何とも厳粛な心地を抱かせる。絶え間なく散り行く花は儚いけれど美しく、つとめを果たして土に還る騎士を思わせる痛ましさだった。
「士官学校に入った最初の年だった。森を散策していたら……迷ってな」
無骨な頬に苦笑が舞った。
「この樹を見つけた。それから毎年、花の季節には欠かさず訪れている」
笑み返してから、カミューは瞬いた。
先日、従騎士仲間と花見の宴が催された。最近ではカミューの影響もあってか、そうした付き合いに顔を出すようになったマイクロトフだが、この樹の話題を出そうとはしなかったのだ。
「……皆で見に行った花より数段見事だ。どうして教えてやらなかったんだい?」
「おれにとって特別の場所だ。誰にでも教えられる訳ではない」
不意に核心を衝かれた思いで硬直した。闇色の瞳は熱を孕み、逸らされることなく真っ直ぐにカミューを見詰めている。
「だが、おまえには……名もない花の命を惜しみ、慈しんだおまえになら、この素晴らしさを分かち与えたい気がした」
「マイクロトフ……」
───これは。
この熱っぽい声音の真摯、溢れ出る親愛の奔流は。
唐突に胸を締め付けられてカミューは喘いだ。
城下の可憐な乙女に幼い恋情を揺らしたこともある。
けれど、こんな苦しさは知らない。
射竦められたように身じろぎも出来ず、ただ次の言葉を待つしかない怯えた自分は。
初めてマイクロトフという男の本質を感じ得たときに覚えた情感は、彼と接するたびに味わった心地良さは、転機の訪れだったのか。
同じ未来を共に歩むための、それは甘やかな序章だったのか。
そのまま無言を守る男にカミューは焦れた。火照った頬を北の街の夜風が穏やかに掠めて行く。
舞い散る桜吹雪の下、やがて沈黙の対峙に耐え切れなくなったのはカミューの方だった。気恥ずかしさを打ち消すため、務めて何ら脈絡のない話題を切り出した。
「知っているかい、マイクロトフ? こんな見事な桜の下には死体が埋まっているんだ」
「カミュー……?」
困惑げに眉を顰る友に満足して続ける。
「亡骸を糧にして、なおいっそう艶やかな花を咲かせるのさ」
───ほんのささやかな意趣返し。
友が『特別な場所』と呼んだ地を貶めるつもりはないが、動揺させられたことへの子供染みた仕返しである。
多少なりともマイクロトフが感情を害する、あるいは怯えた様子を見せれば直ちに言い換える心積もりだった。
それは世の真理なのだと。何彼を礎にして更なる高みを掴む騎士の在り方に準えても良いと考えていた。
しかし、彼が見せたのは不可解な反応だった。
「カミュー、何故……見ていたのか、いや……そんな筈は……」
独言のように呟き、最後にマイクロトフは言った。
「どうしておまえは、その樹の下に亡骸が埋めてあるのを知っているのだ?」
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