『相手の状況を見極めるのも技量のうちだ』
我が子に手傷を負わされたものの、エダンの言葉は穏やかだった。そんな彼に向けて、カミューは静かに頭を下げた。
門弟の一人が村外れの住処に走らされたのは、鍛錬中に起きた負傷事故が原因というわけではなかった。そうしたことはまま起きることだし、いちいち保護者を呼びつけるほどのことではない、それがエダンの持論だった。しかし、彼はあえてカミューを呼び寄せた。試合後に見せたカーマイアの薄い笑いを見逃さなかったからだ。
試合に勝敗はつこうとも、対戦相手の負傷に笑みを洩らすのは普通ではない。ただ、エダンはカーマイアの素直な資質を信じていたし、何らかの理由があるのだろうと察しはしていた。保護者に注意を与えるというよりは、少年を一人帰すことに不安を感じて取った処置であったのだが、門弟に伴われて道場に現れたカミューを見た瞬間、カーマイアの胸に激しい自責が走った。
「失礼とは存じますが……治療代は持たせていただきましょう」
静かに提案したカミューに、エダンは鷹揚に笑った。
「骨が折れたわけでもない、ただ肩が外れただけです。はめておいたから、ご心配には及ばない」
「……申し訳ありませんでした」
「なに、年下にこてんぱんに伸されて、あれにはいい薬だ。一番でいると、とかく精進を忘れて天狗になりがちですからな。それより───」
飲み込まれた言葉に、カミューは頷いた。琥珀の瞳が自らを見詰めるのを感じ、カーマイアは消えてなくなりたい心地に襲われた。
「……あなたには分かっておいでのようだ、カミュー殿。後のことは……」
「ええ」
武術を極めたもの同士、相通ずるところがあるのだろう。彼らは多くを語らず、だが真の問題は理解し合っていた。カミューは言葉少なに帰宅を促し、カーマイアはのろのろと従った。
家へ戻るまでの道すがら、カミューは無言を通した。遅れがちに後を追う少年に合わせるように、殊更ゆっくりした歩調で進む道程は、永劫とも思われるほどの長さだった。
何か言って欲しかった。
責めるでも、罵るでもいい。怒りに支配されるまま門弟仲間に負傷を負わせたことを叱って欲しかった。見慣れた住処が視界に入る頃には、重苦しい空気で押し潰されそうになっていた。
居間のソファに向かい合って腰を落とした途端、カミューは静かに切り出した。
「言ってごらん」
「…………」
「君が理由もなく、鍛錬相手に怪我を負わせるとは思わない」
「……あいつが降参しないから、意地になっちゃっただけだよ」
「カーマイア」
静かな、だが逃げを許さない強い響きが呼ぶ。
「わたしの目を見て言えるかい?」
「…………」
「教えた筈だよ、戦いにおいて引き際は重要であると。エダン殿とて同じことを日々説いておられる筈だ。引き際を見誤ることは、相手だけではない、自分にとっても傷となる可能性がある。君はそれを理解していた筈だ」
「…………」
「言ってごらん、何があった? 道場をやめたいというのは、それが原因なのだろう?」
───聡いカミュー。
そうやって何でも見透かしてしまう。穏やかで優しい、包み込むような温かさで、頑なに守る扉の内側に滑り込んでくる。
けれど、言えない。
ナジールの侮蔑が許せなくて殺意を覚えたことなど、決して。
「カーマイア……わたしたちは縁あって、こうして一緒に暮らしているんだ。隠し事などしないでくれ、悩みがあるなら分け持とう。助けにはならずとも、一緒に考えることは出来るだろう?」
やめてくれ。
あなたたちを傷つけるような悩みなど、胸の中で殺してみせる。たとえ世界を敵にしても、一人で戦ってみせる。
「それとも……わたしたちはそんなに頼りにならないかい?」
どうして?
おれを同居させたばかりに、影であんな侮蔑を受けて。
なのに、どうしてそんなに優しい目で見詰めるの……?
「……おれなんか、放って置けば良かったんだよ」
「カーマイア……?」
「おれなんか置いておくから、面倒を背負い込むんだよ!」
少年は固く両手を握り締めて叫んだ。
「どうせ居候させるなら、もっと素直で可愛い女の子にでもすれば良かったんだ! おれみたいにスレたガキじゃなく、問題も起こさず、誰からも好かれるおとなしいヤツに……!」
そういう人間なら、ああした連中に睨まれることもなかった。
妙な詮索に曝されることもなく、平穏に日々を過ごせた。
二人が蔑まれることも、醜い嘲笑を受けることもなく。
───自分でさえなかったら。
「おれなんて、家族ごっこするのに相応しいヤツじゃない! 二人で暮らすのが退屈なら、犬か猫でも拾えば良かったんだ。つまらない気を遣うこともなく、他人に頭を下げる必要だってない───そういうヤツなら…………っ!」
乾いた音が頬で弾けた。
焼け付くような一瞬の痛み、耳の奥まで響くような振動。だが、打たれたのだと知るには時間が掛かった。
頬を押さえることも忘れて呆然と見遣ったカミューは、無表情のまま彼を見返していた。凍りついた白い貌には怒りと名のつく感情はなかった。ただ、琥珀の瞳がいつもよりも色を増して、揺れるようにカーマイアを見詰めている。
「カ、ミュー……」
加減なく打たれた頬が、じんじんと熱を持ち始めた。だが、そこに感じる痛みはない。切り裂かれるような苦痛はむしろ胸にあった。
言葉もなく対峙するカミューの、いまだかつて見たことのない面差しは、百の言葉よりも鋭く少年の胸を刺す。傷つけてはならない人を傷つけた、それは負傷したナジールには覚えなかった激しい悔恨だった。
「…………っ」
カーマイアは脱兎の如く居間を飛び出した。そのまま壊しかねない勢いで扉を開け、住処を後にする。
おしまいだ。
もう二度と帰れない。自分は言ってはならないことを口にした。二人がどういう意図で置いてくれているのかはともかく、彼らの誠意を踏み躙る言葉を吐いた。決して許してはもらえまい。
走りに走って村の外に広がる草原を踏み締めたとき、初めて流れる涙に気付いた。
それはただ苦く、熱かった。
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