空が燃え、紅に染まった大地に傾いた陽がくちづける一瞬────それはその地で最も美しく、心震わせる風景であった。
草原の地を走る交易路から少し外れた其処は、もとはオアシスを中心に拓けた村であり、豊かではないが貧しくもない平穏な日々が流れる住処だ。
村の外れに位置する小さな家の開かれた扉から、数人の幼い子供が飛び出した。
「さよなら、先生!」
「さよなら、また明日ね!」
可憐な声が飛び交い、子供たちは駆け足で親の待つ家へと去ってゆく。
穏やかな眼差しで、小さな後ろ姿を見送る一人の青年────
薄茶の髪が夕陽に映えて輝きを増す。細められた瞳は、やがて立ち去ろうとしない少女に引き寄せられた。
「……ユーナ、どうかしたかい? 帰らなくていいのかな?」
ぽんと頭を撫でられた少女は、足元の小石をコツンと蹴った。そう言えば今日、この子はずっと元気がなかった。思い至った青年は、少女の目線と同じ高さまで膝を折った。
「わたしでよければ、話してごらん」
「……お母さんとケンカしたの」
少女は消え入る声で告白した。他の仲間たちがいる間、ずっと気丈に堪えていたのであろう涙がふっくらした頬を伝い落ちた。
「もうユーナのこと、いらないって」
そのまま両手で目元を擦りながらしゃくりあげる少女に、青年は苦笑した。
いつの時代も、我が子に対する最も効果的な脅しの言葉というものは変わらないらしい。かつて子供であった筈の親も、同じ言葉に涙したこともあるだろうに。
「────いらないわけがないだろう?」
彼は少女を胸に抱き込みながら優しく言った。
「お母さんはユーナのことが大好きだよ。この前、君が熱を出したとき……泣きそうな顔で看病なさっておられたじゃないか」
「……でも……」
はたはたと落ちる涙が青年のシャツに染みを広げる。だが、彼独特の言葉の柔らかさは常に人々の心を宥めた。
「……わたしが嘘をついたことがあるかい?」
「────ううん」
「間違ったことを言ったことは?」
「ない……」
青年は少女を胸から離し、長い指で涙を拭ってやった。
「それじゃ、帰ろう。きっと心配しておられるよ」
それでも躊躇して俯くのに、更に甘く続けた。
「────送っていくから」
そこでようやくユーナの唇は綻んだ。
一年ほど前に村に住み着いたこの青年は、驚くほどすんなりと村人の中に溶け込んだ。多くを語らず、はんなりと周囲に交わる柔らかな気配。その豊富な知識と優雅な物腰は人々の尊崇を集めた。
正式な学校というものがなかった村で、いつしか子供たちに学問を教えるようになった青年は、物静かな人柄もあいまって誰からも愛された。
そんな彼と並んで歩けることを喜んだのか、少女は涙を消してしなやかな手に小さな手を潜り込ませる。微笑み返した青年は、ゆっくりと立ち上がった。
家々から零れる夕餉の香り、ゆったりと流れる大河のような時間。何ものにも心乱されず、血も悲鳴も無縁の世界────
不安げな少女の瞳に映る笑顔は儚くも美しい。
彼がかつて剣を携えて戦場を駆けていたことを知るものはいない。幾つもの死線を踏み越えて、信念を貫く厳しい道を歩んできたことも。
そして────
「ユーナ!」
前方から叫ぶ声に、少女は弾かれたように反応し、すぐに駆け出した。
「お母さん!」
「遅いから心配していたの……ああ、ごめんね」
家の前で我が子を待ち侘びていた母は、走り寄った娘をしっかりと抱き締めた。
何処にでもある優しい光景。
ほんの僅かな心の行き違い。それを悔いながら過ごす時間。正すことが容易なのは、絆が深ければこそだ。
見守っていた青年に、母親が深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、本当に……こんなところまで送っていただいて」
「────いいえ」
言葉少なに会釈すると、彼は少女に微笑んだ。
「それじゃ、わたしはこれで……」
「先生、ありがとう!」
打って変わって明るい表情で手を振る少女に今一度目を細めると、彼はゆっくりと踵を返した。夕陽の中を遠ざかる青年に、ふと通りかかった老婆が目を止める。
「あれ、こんなところまで送ってきてくれたのかい。本当に優しいお人だ」
「ええ、あの方が村にいらっしゃって、もう一年になりますね……」
母親が頷いて村人に応じる。
「お若いのに良く出来たお人だよ。頭も良いし、綺麗だし。優しくて品があって、こんな辺鄙なところには勿体無いね────カミューさんは」
「そうですね……」
母親は小首を傾げた。
「この間もナシロの旦那さんが縁談を勧めたところ、やんわり断られたようですよ。あんなに素敵な方なのに、どうしてなんでしょうねえ」
「────別に高望みをなさっとるとは思えないが」
老婆は小さくなった後ろ姿をじっと見遣った。
「……何処かに想う人でもあるのかもしれないね。忘れられない大切な人が……」
母親は衣服を掴んだままの少女を胸に、夕闇に溶けゆく青年に思いを馳せた。
住処とさだめた家に戻りつくと、彼は小さな厩舎の馬の様子を窺った。
このところ走らせてやっていない。明日は村の外に出て、広々とした平原を思う存分満喫させてやろう。
長く苦楽を共にしてきた愛馬は、鼻面を撫でる優しい手に低く鼻を鳴らし、彼の心を読んだように嬉しげに飼葉を掻き分ける。
馬と別れ、家の扉を開けた彼は、そこにさっきまで群れていた子供たちの残像を見た。無邪気な笑い声の消えた部屋は冷え冷えと彼を迎える。彼は居間にある暖炉に今年初めての火を入れた。
ふと、思う────
この季節、彼の地はそろそろ初雪を見る頃ではなかったか。
遥かな北の国に舞う白羽の如き雪、視界を覆い尽くす純白。神々しくも厳しく世界を凍らせる冷気の渦に包まれても、だが、あの頃は少しも寒さを感じなかった。
肌の奥に忍び込むような、突き刺す冷気に支配された石の街。けれど、そこには温もりがあった。
否、温もりと呼ぶにはあまりに熱く、心までも焦がすような狂おしい情熱に彩られた日々が────
暖炉の上の棚に置かれたひとふりの剣を手にしてみる。
我が身の一部のように掌に馴染む感触を、それに導かれた数々の記憶をいとおしむように、細身の鞘に指を這わせた。
ゆっくりと鞘から引き抜いた剣は、弾ける暖炉の焔に照らされて密やかに彼の顔を映し出した。
刀身に浮かぶ自身が、何故か歪んでぼやけて見える。彼は敷布に座り込み、剣に視線を落とし続けた。
長く静かな夜────
こんな夜には、よくこうして暖炉の前で剣の手入れをしたものだ。ただ俯いて、明日の身を守る命の綱を大切に慈しんだ。
そうして、目を上げれば────
鋭く首を振り、浮かんだ面差しを消そうと努める。
────だが、駄目だった。ひとたび描いてしまった輪郭は、振り払おうとするたびに鮮やかに眼裏に蘇る。
真っ直ぐに見詰める闇色の瞳、凛とした眉、意外に繊細な鼻筋や、意志の強さを秘めた口元。
甘く狂おしい響きで呼ぶ声、抱き締める腕の強ささえ────
ふと巡らせた視線に入った卓上の暦、数日先に小さくつけた印を見遣り、自嘲気味に呟いてみる。
「一年、だよ……」
室内に零れた響きは、思いがけなく彼の胸を切り裂いた。
「もうすぐ……一年経つよ────」
生まれ育った故郷の地よりも長い年月を過ごした街。喜びも哀しみも、多くの記憶を育んでくれた懐かしい北の国。
すべての想いを埋めてきた。決して後悔しないと心に決めて、あの朝、街を後にした。
見慣れた風景が遠くなった頃、その年初めての雪に出会った。山頂にそびえ立つ古城を包み隠すように降りしきる雪、それは故国へ戻ろうとする彼を見送るが如く、厳粛で優しさに満ちた光景だった。
あの日降り積もった雪は、残してきた彼の想いを溶かして土に還ったのだろうか。
「……おまえと離れて……一年を過ごしたよ」
抱えた膝に顔を埋め、彼は我が身を抱き締めた。
かつて変わらずそこにあった温もりを失って久しい。日々薄れていく記憶の分だけ、捨てたはずの想いは蘇る。
「────マイクロトフ……」
胸に込み上げた名を呼べば、切なさの分だけ寒さは増した。
「マイクロトフ…………」
遠い彼の国で、『彼』は今頃何を思い、何を見詰めているだろう。
続いて溢れる激情を、ひたすら押し殺す。一度でも口にしてしまえば止められなくなりそうで────
声にならなかった切望は、冷えた彼の肩に幾重にも降り積もった。
────逢いたい。
ただ、その一言だけが。
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指令者様にこのネタを聞かされたとき、
鼻水垂らして泣いた記憶が(笑)
「書いて」と訴えたのに却下され、
奇しくも奥江が書くことになったのですが。
……違う。
何だか全然違うぞ、カミュー!!
プリンセスって感じじゃないッス。
すまんです、指令者様……
寒いほど乙女なのは確かだが……(泣笑)
実は乙女とプリンセス、
どう違うのか、よく……(汗)
ちなみにテーマは聖子ちゃんの
「あ〜な〜たに〜〜逢〜いた〜くて〜〜♪」
です、一応。名曲ッスよね〜v
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