歴史的経験としてのソ連
(『比較経済体制研究』第9号, 2002).
塩川 伸明
はじめに
紙幅の限られた小文で、70年余に及ぶ長い歴史に詳しく立ち入った議論を展開することはもとより不可能である。ここでは、歴史研究者としてよりもむしろ教育者的な関心から、どのようにすればソ連史を「意義ある勉学対象」と学生や一般読者に感じさせられるかについて考えたい。従って、以下に述べるのは、それ自体としては、専門家にとっては今さら確認するまでもない常識的なことばかりである。新しい史実の発掘とか解釈とかではなく、それらをどのように取りあげ、どのような意義づけを与えることによって、若い世代(それも専門家でない人)との交流が可能になるかという点が、ここでの最大の関心事である。
ソ連解体が資料公開状況を大きく変化させ、新しい史実の解明が可能になり、それに伴って研究スタイルも変化せざるを得ないといった事情についてはよく論じられるとおりであり、それはそれとして重要な意味をもっているが、本稿はそうした点について論じることを課題とするのではなく、いわばその手前にある問題として、「改めてソ連史を研究することの意味」のようなものについて考えてみたい。というのも、「もう結論が出てしまったこんな分野をわざわざ研究することに意義などないのではないか」といった漠然たる感覚が、若い世代を中心にかなり広まっているのではないかという懸念を懐くからである。これが単なる杞憂であるならば、そんなことを考える必要もないということになるが、もし不幸にして多少なりとも当たっているなら、淡々と新資料に向かい、研究を進めていけばよいと言い切るわけにはいかないのではないかという気がするのである。
「世代」という言葉を使ったので、世代論について簡単に補足しておきたい。何もかもを「世代」で割り切って説明するのはあまりにも粗い議論だということは明らかであり、私自身、あまり世代論というものが好きな方ではない。だが、ある種の大きな歴史的事件が起きた少し後の時期には、それを実地に経験したか否か――また、どのような年齢で経験したか――によって、ある種の緩やかな集団的共通感覚のようなものが生まれるということを全面的に否定することもできない。典型的には、第2次大戦の後になされた「戦前派」「戦中派」「戦後派」という分類は、たとえそれでもって何もかもを説明することはできないにしても、それなりに意味をもつ区分だったことは誰もが認めるところだろう。今では、次第に大多数の人が「戦後派」に属するようになりつつあり、この分類は意味を失いつつあるが、それに代わって、冷戦についての「戦中派」と「戦後派」という区分が成り立つのではないかという気がする。仮にこのような言葉づかいができるとするなら、現在研究職に就いている人たちの圧倒的多数は「戦中派」に属するのに対し、今の学生たちの大部分は「戦後派」に属する――おそらく大学院生たちはその中間――ということになるだろう。そして、新しい「戦後派」が登場する中で、「戦中派」――特に、ソ連研究に従事していた人――は、ソ連史や冷戦史についてどのように語るべきかという問題に直面しているのではないだろうか。第2次大戦についての「戦中派」と「戦後派」の間で世代ギャップが問題となったのと同様、下手をすると、いま「ソ連」や「社会主義」を語ることは、若い人たちの眼には単なる懐旧談としか映らないかもしれない。そのような危険性を見据えつつ、どのようにすれば「戦後派」との間で、単なる自己満足や懐旧談でない意思疎通を実現することができるのだろうか。これが本稿の背後にある一つの問題意識である。
T 問題の所在
1 「ソ連研究」からどこへ?
まず、かつて「ソ連研究者」だった人たちはソ連解体から10年を経た今日、そして今後、何をしていくことができるか、またその研究の意義をどのようにして他の人々にアピールすることができるのかという問題について考えてみたい。これについては、いくつかの方向がある。
@かつてソ連を現状分析の対象としていた人の多くは、今では、現代ロシアの体制移行過程の研究に従事している。これは現状分析を課題とする人たちにとってはごく自然な成り行きである。だが、歴史家はそれに単純に乗り移るというわけにはいかず、歴史研究固有の意味を考える必要がある。
Aソ連(あるいは東欧諸国)の歴史的現実とは切り離して、抽象的な社会主義思想やありうべき社会主義モデルについて論じ直そうとする人たちもいる。そうした人たちは、「ソ連について今さら論じるのは時代遅れだが、ソ連型とは全く違ったものとしてなら、社会主義も今なお有意味たりうる」という発想をとっているようだ。ロシア・ソ連以外の、そしてマルクス主義以外の潮流を含めた社会主義思想史の見直しとか、アメリカの「分析的マルクス主義」などに依拠した新しい社会主義論とか、トロツキー主義の復権論とか、あるいは「地域通貨」を軸とした新しい社会の構想とか、等々が一部で流行っているようにみえる。これについても、それなりの意義はあるのだろうが、ソ連の歴史とほぼ完全に切り離した議論として提起されているので、「ソ連屋」にとっては、直ちにこれに追随するというわけにはいかない。
Bあるいはまた、歴史家のうち、現代史よりも前の時期を専攻する人たちは、もともと社会主義体制以前のロシアが主たる研究対象だったわけであり、かつては、それを後のソヴェト時代とつなげて議論する――革命前ロシアがどのようにしてロシア革命を生みだしたか、帝政期とソヴェト期の間の連続性と非連続性をどのように捉えるかなどを考察する――ことが要請されたが、いまはその要請から解放されて、純粋の歴史論として研究することができるようになったと感じているようにみえる。歴史家だけでなく、文学・演劇・映画・音楽などの分野でも、「ロシア文化」を「ソヴェト文化」から切り離して論じる傾向が強まっている。先のAが社会主義をロシアから切り離して論じるのに対し、これはロシアを社会主義から切り離して論じるということになるだろう。これも、それ自体としては大いに進められるべき作業であって、その意義を否定するつもりは毛頭ない。ただ、現代史(ソヴェト時代の歴史)を専攻してきた者にとっては、いきなりこれに乗り移るというわけにはいかない。
このように、「現在進行中の体制移行」、「ソ連から切り離された社会主義」、「社会主義から切り離されたロシア」といった研究方向があるわけだが、ソ連史を研究してきた者としては、やはり現に「ソ連」という国があったという歴史的事実、そして、そこにおいて70年余もの期間にわたって「社会主義」という社会体制が存続していたという事実を視野からはずすことはできない。これを、「歴史としてのソ連社会主義」と呼ぶとして、それについて語ることは、今日、どのようにすれば新たな意味を獲得することができるのだろうか。また、上記の3通りの研究方向に対しても、依然として有意味な接点をソ連史研究がもつ――@現状分析に関しては、その前提や背景確認として、A社会主義の一般論に対しては、長期にわたった大々的な実験の例として、Bロシア史一般にとっては、その歴史の中の消すことのできない一構成部分として――という命題に説得性をもたせるにはどうしたらよいだろうか。
こういうことを考えるのも、「歴史としてのソ連社会主義」は「もう片づいたもの」であり、わざわざ改めて研究する必要もないという漠然たる感覚が広まっているように感じるからである。そうした風潮に対抗して、「今こそ改めて、新しい角度から検討すべき対象だ」と説くことは、単なる職業的利害の独りよがりな自己主張以上の意味をもちうるだろうか。この問題を考える際、「ソ連社会主義も、案外、それほど悪いものではなかった」という弁護論的な立場からの再評価も、やってできなくはないかもしれないが、私自身としてはあまり食指が動かない。結論的には、やはり挫折・失敗といわざるを得ないとみる方が素直だろうと思う。ただ、その挫折に至る経過・原因がややもすれば安易に自明視され、そのことによって、その教訓化も安易に流れるきらいがあるのではないか。最初から邪悪な試みだったとか、馬鹿馬鹿しい誤りに満ちた「失敗することが目に見えていたもの」というようなイメージが広く流布している。もしそうなら、「歴史としてのソ連社会主義」について学ぶ価値もないし、教訓の引き出しようもないということになる。だが、本当にそうなのかという問いを突きつけてみる必要があるのではないだろうか。かつて私は、ソ連社会への視線として、「二層認識」と「四層認識」ということを提起したことがあるが(1)、その後も「二層認識」が広まり続け、そのことによって、ソ連史の総括・教訓化が安易に流れる状況が続いているように思われてならない。
2 今日における批判的思考と社会主義の経験
ソ連解体直後の時期には、安易な「自由主義勝利」論、市場万能論が全世界的に噴出したが、これは今では退潮しており、その意味では、当時と今とでは社会意識の全般的状況が違ってきている。グローバリズム論と市場至上主義(市場原理主義)は依然として強い勢いをもっているが、それだけに、それに対抗しようという批判的発想も、特に知識人の間ではかなりの浸透力をもっている。そのことと関係して、日本・欧米・第三世界などの社会現象に関してであれば、今でも批判的精神をもって物事を考える人々は少なくない。このようにみるなら、社会主義が崩壊したからといって、広い意味での批判精神が衰退しきったわけではなく、後者は依然として健在だとみることもできる。他方、それとは裏腹に、歴史上の存在としてのソ連については、「負けた賊軍」としてあっさり片づける風潮がますます強まっている。単純に図式化すると、一時は、社会主義もソ連もともに地に墜ちたが、その後、社会主義ないし広義の批判精神は徐々に盛り返したのに対し、ソ連への関心は「一人負け」を続けているというのが現状であるようにみえる。
「批判精神」の今日的あらわれは、しばしば社会主義への関心よりも広い形態をとっている。知識人の世界では、ポストコロニアル批評、フェミニズムとジェンダー論、カルチュラル・スタディーズ、サバルタン研究、「国民国家(ネーション・ステート)」批判、マルチカルチュラリズム、エコロジー、その他その他の議論が盛んに行なわれている(ほとんどのキーワードがカタカナ語であるのはどうしてかということも気になるが、立ち入らない)。これらについて私自身はそれほどよく通じているわけではないが、それぞれに興味深いものを含んでいるとは思う。
ただ、ほとんどの場合、これらの議論はソ連社会主義の総括と結びつけられていない。これらの論者の大半にとって、ソ連は何の関心も引かない「死んだ犬」に過ぎず、それとは無縁なところで、各種の批判や変革の議論が展開されているようにみえる。だが、実は、ソ連の歴史の中にはそれらとの接点が多々あったように私には思われる。その挫折・失敗を含めた突っ込んだ総括を踏まえないなら、今日における変革論も浅いものになってしまうのではないだろうか。
U 「近代化と社会主義」再考(2)
1 なぜ、改めて「近代化」を問題にするのか
ソ連史をより広い文脈の中で考察しようとするなら、「社会主義」ということを唯一の基準におく――たとえば、マルクスの古典に照らして、どこまで本来の意味での「社会主義」をつくれたか、あるいはつくれなかったかを考える――というのではなくて、それ以外の基準――社会主義国以外の国々とも共通する基準――を立てて、それがソ連その他の社会主義国においてはどのように進行したのかを論じるという行き方をする必要があるのではないだろうか。これは何も、社会主義国とそうでない国々とを単純に同質視するということではない。ただ、両者を完全に切り離すのではなく、ともかくも共通のパースペクティヴの中において、そこにおける同質性と異質性の複雑な絡み合いを理解する作業が必要だということである。
その重要な一環として、「社会主義型の近代化」とはどのようなものだったかを考えることが有意味ではないかということを、一つの仮説として立ててみたい。このようにいうことは、「近代化」とか「社会主義型の近代化」という概念を安易に前提化することを意味しない。むしろ、「近代化」概念そのものを改めて問い直すべきではないかとか、「社会主義的近代化」はそもそも「近代化」の一種といえるのか否かといった問題も含めて、幅広い検討課題が立てられるのではないかということである。ともかくも暫定的に「社会主義型の近代化」と呼びうるような現象があったとして、それはどのような特徴をもっていたのかを考えることは「近代化」の理解の幅を広げてくれるし、それは今日にどのような遺産ないし後遺症を残しているのかという問題は、旧社会主義国の現状分析にとっても重要な前提条件をなすはずである。
2 「近代化」の一般論
「近代化」への人々のまなざしは様々な変遷を経てきている。ある時期までは、それは多くの人によって「実現すべき目標」として意識され、それ故に、その達成方法をめぐって熱心な議論がかわされた。他方、近代化に様々な負の側面がつきまとうことを指摘し、それを目標視することを批判する議論もあり、それらの間で、多様な論争が展開された。その後、ポストモダン論の流行によって、問題設定自体が古くさいとみなされるようになり、最近では、かつての論争全体が忘れ去られる傾向もみられる。にもかかわらず、今でも近代化は人々の頭と胸を騒がすことを完全にやめたわけではない。発展途上国にとって今なお近代化が切実な課題だとか、あるいは近年の脱社会主義後の体制移行諸国も改めて「近代化」に取り組まざるを得なくなっているといった事情については、いうまでもなく明らかだろう。それだけではなく、既に近代化を高度に成し遂げたと考えられがちな「先進諸国」についても、ときおり「近代再考」論や「未完の近代」論が浮上することがある(3)。こうした入り組んだ推移自体が興味深い検討対象であるし、そのような推移に「社会主義型の近代化」がどのように絡んでいるのかを考えるのも興味深い課題である。
「近代化」に関する最近の有力な見方をごく大まかに分類し、それらと社会主義との関わりを考えるなら、およそ次のように整理することができるだろう。
@近代化再評価論。一時期、近代化の負の側面が広く指摘され、近代化批判が高まったことがあったが、最近ではむしろ、そこからの揺り戻しとして近代化再評価が目立つように思われる。これはおそらく社会主義崩壊と自由主義再評価という情勢とも関連しているだろう。「社会主義は近代化を経過しなかった――あるいは否定した――から駄目だったのだ」とする見方がかなり強まっている(これは社会主義否定=資本主義肯定の立場からのものと、「近代を通過した上で、今度こそ本物の社会主義を」という立場からの二通りのものがある)。この見方に立つなら、ロシアその他の諸国は、社会主義から離脱しつつある今こそ、本来の近代化の過程に戻るのだということになる。この見方は、ロシアなどの当事者自身が採用することが多く、それだけに、それなりの切実性をもっている。ただ、ソヴェト時代に何らの近代化もなされなかったかにいうのは誇張であり、不正確である。ソヴェト時代を単純に近代化と無縁だったとみるのではなく、独自な個性をもった近代化が進行したと捉えた上で、その遺産あるいは後遺症を考えるべきだろう。
A近代化否定(乗り越え)論。「社会主義は本来、近代を超えるはずのものだったのに、その社会主義が近代を模倣しようとしたことに問題がある」とする立場からのソ連批判がある(たとえばフォーディズムの導入などがよく例として取りあげられる)。かつてのラディカル思想の復興論ともいうべきこの見地は、先進資本主義諸国の現状への批判思想としては確かに鋭いものをもっている。だが、ソ連史認識としては、これは往々にして現実離れしている(フォーディズムは、上からの試みとして導入されようとしたが、現場の実体としてはあまり根付かなかった。それが導入されたことではなく、空回りしたことにこそ、ソ連経済の真の問題があった(4))。また、近代主義への批判的視点をもつのはよいとして、それが現実的にどのような社会構造によって実現されるのかという問題への考察がなおざりにされるなら、かつての新旧左翼の限界を超えることはできないだろう。
Bポストモダン論。「近代化をどう見るかというような問題設定自体が古くさい。今や時代はポストモダニズムだ」という発想は、先進資本主義諸国においてかなり強力に広まっている。この見地からのソ連論は、「ポストモダンよりモダンは古くさく、そのモダンよりも更に古くさいのがロシア・マルクス主義だ」といった感じのロシア蔑視論を含むことが多い(もっとも、現代ロシアの知識人は、むしろロシアこそポストモダンの先駆者だなどと自己主張したりしているようだが)。私自身はいわゆるポストモダニズムの思想潮流にそれほど通じているわけではないが、そこにある種の重要な問題提起が含まれていることは確かだと思う。ただ、現実の歴史を研究する立場からすると、泥臭い歴史を離れて宙に舞い上がった空論をもてあそんでいるような印象を受けることもときおりある。ポストモダニズムの問題提起自体は受けとめる必要があるとしても、それを具体的な歴史研究の中にどのように生かしていくかは、単なる流行追随としてではなく、今後、更に検討せねばならないだろう(5)。
これらを踏まえて、簡単に私見を述べるなら、次のようになる。AやBの問題提起を念頭におくなら、今日のわれわれの価値としては、かつてのように素朴に近代化を賛美することができないことは自明である。しかし、その上で、@をも念頭におき、次の二点を確認する必要があるように思う。第一に、かつて近代化が「どんな犠牲を払ってでも推進せねばならない至上の価値」として広く受けとめられ、追求された時代があったということは歴史的事実であり、このことは、19世紀から20世紀にかけての歴史を考察するときに非常に重い意味をもっている。この発想は、日本を含めて世界中を強く蔽った。そして、まさしくそれを特異な方法で極端なまでに徹底したのが社会主義だった。第二に、今日では、かつてのような「至上の価値」という輝きを失っているが、それでも、近代化を全面否定することは難しい。それどころか、旧社会主義国の多くでは、改めて近代化の再度の追求が課題となっている。ということは、かつてのような輝きがなくても、それでも追求しないではおれないという微妙な状況があることになる。まさにその微妙さこそが、われわれの重要な探求課題ではないだろうか。
3 「社会主義型の近代化」の特徴
前項の考察をうけ、「社会主義型の近代化」の特徴を考えるのが次の課題となる。そのために、先ず、広義の「近代化」にはどのような側面があるかを考えるなら、あまり体系的ではないが、とりあえず次のような諸要素を挙げることができるだろう(6)。
@社会・経済面での近代化(工業化・都市化・公教育普及)。
A科学技術の飛躍的発展、およびその社会生活への大々的適用。
B大衆の政治参加。広義の民主主義(但し、自由主義と同義ではない)。
C福祉国家(@によって伝統的共同体が掘り崩されることへの対応、およびBに伴って大衆の役割が大きくなったことの反映)。
D国民国家(上記の諸側面が推進される基本単位の形成)。
社会主義は、これらの諸側面のどれについても、ある意味では強烈に推進した。従って、社会主義は近代化と無縁でもなければ、その否定でもない。ただ、その推進方法が特異であり、その結果として、テンポの異常な速さ、コストやアンバランスの極度の大きさなどの特殊性をもった。推進方法の特異さについて、ここで詳論する余裕はないが、資本主義的な近代化において主要な役割を演じるブルジョアジーおよびその関連制度(市場経済およびそれに適合的な法制度等)を排除し、それに代わって、党=国家体制の主導する行政的=指令的システムが主要な役割を演じたことが最も重要である(7)。このシステムは、少数の重点的分野に資源を集中的に動員する上ではそれなりに有効性を発揮したが、それだけに、非重点分野における犠牲、コスト、全体としてのアンバランスが大きかった。近代化がその成果と並んで種々の犠牲を伴い、アンバランスを含むということ自体は他の国にも共通するが、それが上記の理由により極度に大きかったのは社会主義型の近代化の特徴といえるだろう。また社会・経済の仕組みが複雑化して多様な分野へのきめ細かい対応が必要とされる度合が高まるにつれて、近代化推進力としての有効性自体も低下した。そのことと関係して、ある局面では近代化の否定ないし失敗とみられる面も確かにあったし、それは末期に近づくほど大きくなった。そうした面を含めてではあるが、社会主義は近代化の一つの徹底した特異な型、その極端な一形態だった。
こうして社会主義は近代化の否定ではなくその一つの推進形態だったが、かといって近代主義そのものだったわけではない。むしろ、それを特異な方法で徹底することを通して乗り越えようとしたものでもあるという点に、社会主義の特徴があった。結果的にみれば、「徹底」も「乗り越え」もともに、狙い通りには実現しなかったが、だからといって、それを目指した実践が完全に欠落していたわけではない。それどころか、ある時期まで、そしてある局面に限っていえば、それなりの成果をあげるかにみえたというのが歴史的事実である(そこには幻想の要素も大量に含まれていたが、それがすべてではない)。だからこそ、ある時期までの社会主義の知的吸引力は極めて大きいものだったのである。ソ連・東欧圏以外の、必ずしもマルクス主義者とか社会主義者でない人々まで含めて、ソ連社会主義がともかくも無視できない強烈な吸引力を発揮する存在だという意識は、1960年代――あるいは遅くみれば70年代くらい――まで、かなり広汎に広まっていた(8)(世代論的にいうなら、その頃までに知的自己形成を始めた世代と、その後の世代とで、社会主義イメージが大きく異なるだろう)。
いま総括的に述べたことを、上記の5項目に即して多少の敷衍を試みるなら、次のようになるだろう(但し、どの項目についても具体的に立ち入ることはできず、ごく大まかに、現時点で再確認に値すると思われる点を簡単に述べるにとどまる)。
@社会・経済面での近代化(工業化・都市化・公教育普及)について。今日では、ソ連時代の工業化がいかにアンバランスなものであり、見かけ倒しのものだったかを強調するのが一般的であり、その歴史的産物としての現代ロシアについても、「後進国」イメージが常識的に広まっている。それはそれで正当な面をもつということは否定できない。ただ、だからといって、ある時期までのソ連が近代化をそれなりに推進していたという事実まで見失われるなら、それは行き過ぎである。これは専門家にとってはいわずもがなのことであり、そんなことをわざわざ再確認しなくてもよいではないかという感覚を引き起こすものだが、他方、ソ連について何も知らない一般人の間での通俗的イメージとして、「極度に遅れた、野蛮で、貧困な後進国」というような像がかなり広まりつつあるというギャップについては意識しておかなくてはならない。現実の(かつての)ソ連および(現代の)ロシアその他の諸国は、そのような通俗的イメージで塗り尽くされるものではなく、独自な方法で近代化を推進し、いくつかの重点的指標に関してはかなりの程度に達成しながら、同時に多くの矛盾を内包し、それが次第に深刻化していったという複雑な構造をかかえている。そうした複雑な構造の解明は困難な研究課題だが、それだけに知的に興味深い対象だといえるはずである。
また、ソ連型の近代化がその「成功」の中においても極度に大きな犠牲を伴ったことは明らかな事実だが、そのような犠牲を「やむを得ざるもの」として受けとめる心性(メンタリティ)が、当の犠牲をこうむらされた国民や、諸外国の必ずしも確信的共産主義者でない人々にまで分かちもたれていたということも、また歴史的事実である。このことは、近代化を「何が何でも遂行しなければならない至高の目標」とし、それに伴う犠牲は「やむを得ない」ものとして正当化する意識が19-20世紀の大部分にわたって人類を強く捉えていたことのあらわれである。そして、ソ連の歴史はそのような心性の最も強烈な体現という世界史的な意味をもっている。
A科学・技術についても同様のことがいえる。かつてソ連が「科学大国」とみられていたとか、世界最初の人工衛星を打ち上げ、アメリカで「スプートニク・ショック」がいわれたといったことは、たとえ幻想の要素を含んでいたにしても、完全に忘れてよいことではない。これは弁護論的な見地からいうのではなく、そのような「先進性」と、今日多くの人が指摘する「後進性」とが奇妙な同居をしていたという点に社会主義のユニークな特徴があるということの確認である。そのような「奇妙な同居」は、今日のロシアにも独自の遺産を残している。
B「民主主義」について。今では、共産主義・社会主義(特に「ソ連型」のそれ)を民主主義と正反対の対概念とする常識が、広く一般に根付いている。反共の立場からの共産主義批判が広まっているのはいうまでもない。そればかりでなく、「ソ連の経験から切り離された、本来の社会主義」を追求する立場の人たちも、「ソ連の例は非民主的だった」とあっさり結論し、それとは全く別のものとして「民主的な社会主義」を構想しようとしている。ということは、単純な反共主義者と「民主的な社会主義」を志向する人々とは、ソ連イメージに関する限り、ほぼ同様の観点に立っているということになる。
こうした見方は結論的には確かに妥当なものをもっており、そのこと自体を否定することはできない。しかし、元来、社会主義・共産主義は、自己意識としては「ブルジョア民主主義」よりも一層高度な民主主義と想定されており、ソ連の歴史においても、それを現実化しようとする試みが全くなかったわけではない。この点に関して重要なのは、「民主主義」概念と「自由主義」概念の区別である。「ソヴェト民主主義」は「民主主義」一般の対概念ではなく、「自由主義的民主主義」の対概念だった。そのような、「自由主義的民主主義」を否定した「ソヴェト民主主義」が結局はあらゆる民主主義の否定になったという指摘は結論的には当たっているが、それは、「民主主義」というものがしばしば自己否定的な結果に行き着くという逆説の一つのあらわれであって、社会主義が民主主義と完全に無縁だったからではない。実際、ソ連の政治制度の中には、形式的には「民主主義」の指標とみなされる要素――特に、革命期に噴出した直接民主主義的発想の残滓――が多数含まれていたし、部分的には、「過度に民主的」とみなされる要素さえもあった。これは体制安定期には現実化することのない形式にとどまったが、末期の体制動揺期には現実的意味をもった。このような推移およびその後への影響は、単純に「民主政治」の経験をもったことのない国々とは異なった特徴を今日の旧ソ連諸国に刻印している(9)。
C福祉国家について。ソ連の社会福祉制度は、十分な経済的裏付けを欠いたため「絵に描いた餅」にとどまったとか、運用において多くの欠陥・歪曲をこうむっていたことが広く指摘されている。これは確かな事実だが、それにしても、公式の制度に関しては、ソ連(および東欧諸国)の社会福祉はかなりの「先進性」を示したし、そのことが先進資本主義諸国における対抗的な福祉国家化を促したということも、また歴史的事実である。ある意味では、公的制度面での充実が先行しすぎたために、それを実際に作動させることが困難になり、偽善的な運用実態を生んでしまったということもできる。そのことと関連して、今日では、「過度の福祉充実」の解体が課題となっているという特異な状況がある。これは現状分析の興味深い対象である。
D国民国家について。しばしば、現存社会主義は民族を否定あるいは破壊したといわれる。ジャーナリストや評論家の解説においては、これが通説でさえある。だが、実際はむしろ逆であり、社会主義政権は独自の形で「民族」を形成し、「国民国家」を形成してきた(もちろん、ある枠での「民族」形成は、他のありうべき枠の否定でもあるから、後者に着目すれば「民族の否定」という見方が出てくる余地があるのは当然である)。特にソ連の場合、今日の15独立国家における「国民形成」は、ソ連時代に擬似「主権国家」として形成されたことが基礎となっている。この問題は、この間の私の主要研究テーマだが、この研究会(比較経済体制研究会)の主要課題たる経済の問題から離れるし、もし立ち入ろうと思うなら独立に詳しく論じなければならないので、この場で具体的に論じることは省略する(10)。
V 転換後への影響
以上、ソヴェト時代の歴史研究に従事するものという立場から、その研究の現代的意義について考えてきたが、「現代的意義」を云々するからには、ソヴェト時代とポスト・ソヴェトの現代との関連についても、ある程度考えておく必要がある。もちろん、これを本格的に展開するのは別個の作業の課題であり、ここではごく大まかな見取り図を試論的に描くことしかできない。ともかく、上に見てきたような社会主義時代の歴史というものが、現代のロシア(あるいはその他の旧ソ連諸国、旧社会主義諸国)を考える上でどのような意味をもつかを確認する作業は、この報告の締めくくりとして不可欠だろう。
1 「遺産」と「後遺症」
今日の旧社会主義諸国は、先に簡単に検討したような「社会主義型の近代化」の遺産ないし後遺症をかかえたものとして存在している(11)。この遺産ないし後遺症の認識は、旧社会主義国の現状分析にとって不可欠の要素である。
今日の体制移行諸国は、欧米諸国をモデルとし、それを基準とした発展を目指しているという点で、いわゆる発展途上諸国と共通する性格をもっている。そのため、体制移行諸国を論じる際に、それをいわゆる開発経済学や、途上国の事例に即した比較政治論(権威主義体制論および「民主政への移行」論)などと共通の展望の中におくことが可能でもあり、必要でもあるという状況が生じている。これはかつてはあまり気づかれていなかった点であり、興味深い新領域である。ただ、そのことを確認した上で、旧社会主義国と途上国とは確かに多くの点を共有するにしても、完全に同質的なわけではないということも思い起こさないわけにはいかない。
では、他の途上国と比べた場合の旧社会主義国の特徴はどのようなところにあるだろうか。系統的な考察は今後の課題だが、さしあたり次のような点を確認しておくことが必要と思われる。即ち、工業とりわけ重化学工業のかなりの水準の発展、それに伴う組織された工業労働者の厚い層としての存在、教育の普及、女性の社会的進出の高さ、社会福祉の制度面での――ある意味では「実力不相応」に高い水準での――充実、それらの反面として、市場経済の基礎をなす諸制度のほぼ完全な不在、国家から自立したエリートの微弱さ、サーヴィス産業などの第三次産業の相対的な遅れ等々である。
いま述べたのは旧社会主義国全般に共通する事情だが、社会主義時代末期に一定規模以上の「上からの改革」の試みを経験した国――ソ連、ハンガリー、ポーランドが代表的であり、また今後の問題としては中国やヴェトナムもこれに加えられるかもしれない――の場合、体制転換が一挙的断絶ではなく一定の連続性をもって進められたという特徴がある。つまり、旧体制自体の遺産/後遺症の他に、旧体制末期の体制内改革がもたらした独自の遺産/後遺症もあるということになる。体制転換における一定の連続性の要素の存在は、「変革の不徹底性」という風に否定的に評価することもできるし、「変革に伴うコストを小さくする」として肯定的に評価することもできるという両義性をかかえている。
このような両義性――同じ事柄が「遺産」とも捉えられるし、「後遺症」とも捉えられる――の意味を全面的に展開するのは今後の課題であり、とりあえずは断片的な例示にとどまるが、たとえば「過度に充実した社会福祉制度の解体」の必要性と困難性という問題などはその好例ということができるだろう。「単純な後進国」なら、先ず資本主義的経済発展、それから社会福祉の充実といった段階論を想定することができるが、旧社会主義国においては、むしろ、先ず「行き過ぎた社会福祉制度の解体」、それから経済発展、その上で再度の社会福祉構築という道をたどることが要請される。しかし、はじめからなかったのと違い、曲がりなりにも存在したものの解体は、既得権の侵害であるだけに、大きな抵抗を伴い、一直線には進まない。こうして、複雑な曲折が不可避となる。
このことと密接に関係して、旧体制下における女性の社会進出の高さ――あらゆる面で平等が達成されたとはもちろんいえないが、少なくとも法制面での平等化と保護は充実した――は、体制転換に伴って逆転し、多くの国で女性の地位はむしろ低下する傾向をみせている。かつて存在しなかった失業の登場とその女性への集中、また一部の旧社会主義国における妊娠中絶の規制などはその代表例である。他方では、新しい状況を積極的に受けとめ、起業家になるエリート女性などもおり、体制転換がすべての女性に一様に否定的結果をもたらしているわけではない。ただ、そうしたエリート女性の出現自体、旧体制下における女性の教育水準向上および社会的進出奨励の産物(遺産)という面があり、単純に「抑圧から解放へ」という図式では捉えきれない。
あるいはまた、旧ソ連の新興独立国家における「国民国家」形成、それを支える「ネーション・ビルディング」、その一環としての「ナショナル・ヒストリー」創出などもまた、社会主義時代との連続と非連続の微妙な混合をなしている。ソ連を単純に「帝国」の一種とだけみなす見地からは、そこから解放された新興諸国の出発は旧体制への反抗から生まれたという風に思われがちである。だが、実際にはむしろ、それら諸国の枠組みにせよ、その「ネーション・ビルディング」政策の多くの要素にせよ、ソ連時代の「国民国家」形成の延長上にある。何よりもまず、「民族」という枠の確定、「言語」の枠組み、そしてそれらの上に立った民族エリートの存在などはソ連時代の遺産であり、現在の「国民」形成はそれを一層濃縮する形で進められている観がある。
ややとりとめなく羅列したが、いま簡単に触れた女性の地位や「ネーション・ビルディング」の問題は、ポストコロニアル批評やフェミニズム・ジェンダー論において提出されている論点と接するところがあり、しかも、資本主義諸国におけるあらわれとは「ねじれた」関係にあるという特殊性を帯びている。ソヴェト政権は民族差別・性差別その他各種の差別を単純に放置したというのではなく、むしろある種のアファーマティヴ・アクション的な措置によって平準化を図ろうとしたが、まさにそのことがかえって諸集団間の差異意識を増幅し、また「逆差別」への反感などを産み落として、新しい対立を生んだ。こうした「ねじれ」を含んだ差別の構図の解明は、より広い理論的考察にとっても有意味な作業となるはずである(12)。
2 「公正」・「効率」・「市場」
前項では社会主義時代の歴史が現状にどのような遺産/後遺症をもたらしているかについて簡単に考えてみた。現状をそれ自体として考察することは、本稿の課題の枠をはみ出るが、ともかくも歴史と現状の関わりを考えるからには、そこでどのようなことが問題とされているかだけは一応確認しておく必要があるだろう。
旧社会主義諸国の現状を論じる場合に、多くの人が最大の問題としているのは、体制転換前夜に期待されていたのは「公正で効率的な市場経済」だったのに、現状は「不公正で、非効率な市場経済」となっているのはどうしてかという点だろう。政治に関しても、中欧諸国では「民主化」がある程度定着しつつあるかにみえるのに対し、他の多くの国では権威主義化傾向が目立つことが指摘され、「開発独裁」化、「非自由主義的な民主主義」、あるいはまた「弱い国家」、「失敗国家」等々が様々な角度から取りざたされている。こうした諸問題に関し、これまでにも多種多様な議論が提出されている。IMFの「ショック療法」が間違っていたのか、それとも処方箋自体は正しかったがそれを徹底して実行しなかったのがいけないのか。背後の経済理論として新古典派的発想をとるか、新制度論・比較経済制度論などを採るか。あるいは市場経済化という目標自体に間違いがあったとの想定のもとに「新しい社会主義」を模索すべきなのか、その他その他である。ここでは、これらの論点について立ち入って論じるのではなく、むしろごく素朴な疑問をいくつか提出してみたい。
「本来、市場経済とは公正・効率的なものであるはずであり、そうなっていないのは、裏切り、あるいは間違った政策のせいだ」という考えがかなり広まっている。これは、いわば「裏切られた革命」論の変形ともいうべき性格を帯びている。また、「理想としての市場経済(資本主義)」と「現存する市場経済(資本主義)」のギャップをめぐる議論は、かつての社会主義建設をめぐる論争――「本来の社会主義」と「現存する社会主義」の対比――を思い起こさせる。そうした経緯を想起するとき、社会主義について「正しい」目標と「間違った」現実を対比するのが非歴史的だったのと同様の非歴史性が形を変えて再生産されているのではないだろうかという疑問が浮かぶ。
高度の抽象レヴェルでいえば、どの市場経済にも不純な要素や非合理的な要素がつきまとっているのが常であり、不公正や非効率が全くない理想状態を考えるのは非現実的だろう。とすれば、「理想としての資本主義(公正で効率的な資本主義)」が実現していないことをもって、「体制移行が完成していない」とか「これは本物の市場経済(資本主義)ではない」というのは無意味ではないだろうか。もっとも、こういっただけでは、あまりにも一般論にとどまるとの批判を免れない。どの市場経済も大なり小なり不公正・非効率を含むといっただけでは、「不公正・非効率の度合の違いはどうして生じるのか」「その度合を少しずつでも引き下げていくためにはどうしたらよいか」といった問題が見失われかねない。そこで、公正・効率の度合はどのような要因によって規定されるのか、また公正と効率とはどのような相関関係にあるのかといった問題が提起される。これに答えるのは、私のように経済学に疎いものの任務ではない。この小文は、ただ単に、こうした問いに関する示唆を得たいという希望を表明し、経済学者への問いかけを提出するにとどまる。
とにかく、これらの問題が錯雑した形をとることの一つの大きな要因として、これまで述べてきた歴史の遺産・後遺症の問題があると想定することは許されるだろう(13)。そうだとするなら、現状を考えるためにも、ソ連時代の歴史について改めて再検討することの意義はなお失われていないということは、とりあえず確認できるのではないだろうか。
おわりに
かつてアンドレ・ジードは、1930年代に次のように書いた。
「ソヴェトは、私たちがかく在るだろうと期待したもの、かく在るだろうと約束してくれたものでなくなった。現在なお、こうだと見せかけようとしているものでもない。私たちがつないだソヴェトへの希望は、すべて裏切られた感がある。これらの希望を失いたくないなら、それをどこかよそにもってゆかねばならない。
しかし、私たちの瞳は、おお光栄ある、しかも痛ましいロシアよ、いつでもお前から離れることはないだろう。まずお前は私たちに範を示してくれたが、今や悲しいかな、ロシアよ、革命というものが、どのようにして砂中に埋もれるものかをお前は見せてくれる(14)」。
かつて懐いていた期待が裏切られたときに落胆するのは人の常だが、ジードは、だからといってソ連に関心を失うのではなく、「革命というものが、どのようにして砂中に埋もれるものかをお前は見せてくれる」という点に、当時のソ連を観察することの意義を見出し、その「光栄」と「痛ましさ」に深い共感を示した。それから半世紀以上の後、ロシアは新しい、逆方向の「革命」を経験した。この「資本主義革命」もまた、短期間のユーフォリア(多幸症)の後、「革命というものが、どのようにして砂中に埋もれるものか」を思い知らせる結果となり、そのことが多くの人に、「ロシア離れ」を引き起こしている。しかし、今回もまた、その「光栄」と「痛ましさ」は、まさに「痛ましい」からこそ、われわれの共感と関心を引く対象たりうるのではないだろうか。
*本稿は、2001年8月の比較経済体制研究会夏期研究大会での報告原稿を部分的に改訂したものである。以下の注で「研究会」とあるのはこの場のことを指す。
(1)塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房, 1994年,第T章。
(2)この節全体に関連して、塩川伸明『現存した社会主義』勁草書房,1999年,第V章第2節を参照。
(3)たとえば日本では、1996年の丸山眞男の死去を契機に、一時忘れられていた丸山をどう評価するかが、改めて論争的なテーマとして再浮上しているが、これなどもその一例といえる。
(4)やや古く、不十分な解明だが、さしあた塩川伸明『「社会主義国家」と労働者階級』岩波書店,1984,第三章参照。
(6)『現存した社会主義』では、近代化の最小限定義として@とDを挙げ、後者の中にBも含めるという形で論じたが、より具体的に論じるためにはもう少し指標を増やした方がよいのではないかと考えて、今回はこのように列挙してみた。これがすべてということではなく、とりあえず最も重要と思われる側面の例示ということである。
(7)当初の報告原稿ではこの点の説明を省いていたが、研究会当日の森岡真史氏のコメントに触発されて補足することにした。同氏に感謝する。
(8)この点につき、塩川伸明「『もう一つの社会』への希求と挫折」『20世紀の定義』第2巻、岩波書店,2001年所収も参照。
(9)この項目で述べたことについて、『現存した社会主義』第U章第2節参照。
(10)民族の問題については、さしあたり『現存した社会主義』239-245, 265-292, 355-360,566-603頁などの他、「ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第46号(1999年)、「言語と政治」皆川修吾編『移行期のロシア政治』溪水社,1999年,「帝国の民族政策の基本は同化か?」『ロシア史研究』第64号(1999年)など参照。できれば別の機会に改めて詳論したいと考えている。
(11)「遺産」ないし「後遺症」という問題について、『現存した社会主義』503-506頁参照。
(12)これはかなり込み入った問題であり、ここで立ち入ることはできない。さしあたり、熟さない問題提起として、塩川伸明「集団的抑圧と個人」江原由美子編『フェミニズムとリベラリズム』勁草書房,2001年所収参照。
(13)研究会の場における溝端佐登史報告、また第3セッション「移行経済10年を総括する」で紹介された一連の業績は、このような問題関心と多くの点で交錯するものをもっている。
(14)A・ジッド『ソヴェト旅行記・ソヴェト旅行記修正』新潮文庫, 179頁。