沖縄を語る――次代への伝言R 山城博治さんインタビュー

沖縄を語る――次代への伝言 R
山城博治さん(62)沖縄平和運動センター議長

反基地「郷土愛」胸に
連戦連敗「今度こそ」


 山城博治さん(62)がゲート前にいない。
 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ。昨夏から300日を超えた新基地建設への抗議行動で、初めての長期不在だ。
 行動に代表者はいない。参加者はばらばらに来る。それでもみんな、山城さんの指示には自然と従う。そこには沖縄平和運動センター議長の肩書ではなく、信頼関係がある。
 夏は灼熱の山形鉄板の上に座り込み、冬は寒風の仮設テントに1カ月連続で泊まり込んだ。最前線で、誰よりも体を張ってきた。
 厳しい言動と気配り。不思議な二面性で、行動をここまで続かせてきた。時に烈火のような抗議で、仲間にさえ「過激派」と言われることがある。基地侵入を問われ逮捕もされた。
 一方で、参加者を縛ることを嫌う。「個人それぞれの考えが大事。行動だけ一緒にできればそれでいい」と言う。
 「来た人にさみしい思いをさせたくない」と、マイクを回した。すると、語る、歌う、踊る、いろんな人が現れた。ゲート前は今、運動としてはかつてないほど多様で、笑顔が多い。
 対峙する民間警備員や機動隊員にも、個人として声を掛ける。「仕事は仕事。全員が好きでやっているわけじゃない」と、身をもって知っているからだ。
 県職員時代の1987年、皇族が来県する海邦国体の事務局にいた。県民の反発を押し切り、卒業式で徹底する日の丸や君が代のテープを大量に準備した。徴税担当として、滞納者の家に上がり込んで家具を差し押さえたこともある。
 振り返ると、高校時代は基地付きの本土復帰に反対して校舎をバリケード封鎖し、除籍処分になった。2004年、平和運動センター事務局長に就いてからは、パトリオット(PAC3)配備、東村高江のヘリパッド建設、オスプレイ配備と、反基地運動の現場に立ち続けた。
 結果は連戦連敗。だが、意に介さない。「何度つぶされても平気。抵抗の積み重ねで、少しずつ世論は変わってきた」
 抗議は県民の怒りに後押しされ、県民も抗議の継続に力を得る。今、ゲート前には連日100人超が押し寄せ、県民全体は新基地反対の知事を選んだ。
 沖縄の世論を動かし、沖縄の政治を動かせば日米両政府だって止められる。「今度こそできる」と力を込める。「沖縄が日米中の軍事の濁流に飲み込まれる前に、ここ辺野古で防波堤の決壊を食い止めたい。保守とか革新とかではなく、郷土を愛するからだ」
 悪性リンパ腫を公表し、現場を一時離れている。病院のベッドの上で、電話に応じて言った。
 「現場に立てないのは悔しい。本当に。でも、戦後70年の年に、こういう闘いができる県民をあらためて誇らしく思っている」


辺野古新基地阻止 島ぐるみの団結実感
戦後70年続く不条理 闘う県民誇らしい

−沖縄が本土から切り離されたサンフランシスコ講和条約発効の1952年生まれ。
 「父は沖縄戦で防衛隊に取られ、南部戦線をさまよった。両方の膝と背中から脇腹にかけての3か所、銃弾が貫通した。傷口にわいたウジ虫を草でつついて出した、といった戦場の話を聞いて育った」
 「父はハワイの捕虜収容所から帰り、南洋から帰った母と結婚。軍作業員になった。実家があるうるま市豊原は、ほとんどの人が軍で食べてきた。だから軍とすら言わない。『現場まーやが(どこか)』と。今、キャンプ・シュワブのゲート前で向き合う警備の基地従業員も重なって見える。逮捕された時に自分を拘束した従業員にも、恨みつらみはない」

−最初に社会の矛盾を感じたのは。
 「中1だった65年、B52爆撃機が嘉手納基地に飛来した。先生に連れられ、デモをした覚えがある。本土復帰が決まった69年の佐藤・ニクソン会談は前原高校2年の時。基地自由使用の密約は、高校生にも見え見えだった。佐藤首相訪米反対と学園の民主化を訴えて、約150人のハンストを1週間続けた。マスコミや警察も来て大騒ぎになった」
 「3年生になって、やはり基地付きの本土復帰に反対して仲間4人で校舎の一部を封鎖するバリケードストをやった。先生にあっという間に解除され、僕は除籍処分になった。『退学させられる理由はない』と登校しては、机といすごと先生に引きずり出される、の繰り返し」

−ゲート前で逮捕された時と同じ光景だ。
 「やっていることはあまり変わらないね。ただ、除籍になった時、母が涙を流しながら『頑張れ』と言った。それで、むちゃばかりはできないと目が覚めた。その後はガソリンスタンドボーイ、水道配管、土木工事となんでもやった」

−最終学歴は大学卒。
 「兄の勧めもあって、大検を受けて進学した。実は高校時代、全国のいろんな大学のセクト関係者が会いに来て『うちに来ないか』とスカウトされていた。だけど僕は、反復帰論の新川明さん、川満信一さんの本をバイブルのように読んでいた。国家をどう相対化するか、日本の支配層とどう縁を切るかばかり考えていたから、本土のセクトに全く興味はなかった」

−卒業後は。
 「県庁に中級職で入り、学校事務をした。思ったような、沖縄全体に関わる仕事ができず、2年目に辞めた。司法試験を受けるため東京の専門学校に行ったが、学費が続かない。上級職で県庁に入り直した。専門学校で学んだ法律の知識は今、現場でハッタリをかますのに役立っている」

−転んでもただでは起きない。
 「県庁では基地従業員の離職対策、次は不発弾処理担当、と充実していた。公務員人生がおかしくなってくるのは87年海邦国体の事務局に行ってから。当時の西銘順治知事は『天皇をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい』と考えていた。だんだんスポーツに名を借りた政治プロパガンダだということが分かってくる。87年の卒業式は日の丸・君が代強制で大荒れになった。旗やテープを大量発注して配布の準備をしたのが僕だった。すっかりやる気をなくし、残業する同僚を残して午後5時で帰ったり、国体反対のビラを職場でまいたりもした」

−国体の事務局職員が国体に反対と。
 「耐えきれず、ある日係長に辞表を出した。まだ結婚して数カ月だったのに、妻も理解してくれて。結局、係長が引き留めてくれたが、国体本番が終わるとすぐ県税事務所の徴収担当へ異動になった」
 「徴収担当は、県庁の中で生活保護を担当する福祉事務所の次にきつい部署と言われていた。異動してすぐ、先輩に連れられて人の家に上がり込み、クーラーや冷蔵庫に差し押さえのシールを貼った。暴力団抗争の真っ最中、それと知らずにコザの組事務所に行ったこともあった。若い衆に囲まれたが、意を決して議論した。『見たところ数万円が払えないようでもない。みなさんの事情は聴くが、税金だから払ってもらわないと困る』。親分には話が通じた。逆に、徴収に行った家庭のあまりの貧しさに『頑張ってください』とだけ言って帰ったこともある」

−組合活動はずっと続けていたのか。
 「本格的には名護市民投票2年後の99年、名護に異動してから。『今は大変な時だ』と説得され、県職労北部支部長になった。その後2004年に沖縄平和運動センターの事務局長に就いた」

−そして、反基地闘争の現場に入っていく。
 「東村高江のヘリパッド建設問題には、着工した07年から関わってきた。山中の工事現場入り口にテントを張って1人で泊まり込み、沖縄防衛局が来るのを警戒する生活。防衛局の車を高江から名護市内まで街宣車で追いかけ、マイクで『前にいるのは基地建設を強行する防衛局の車です。市民の皆さん、一緒に止めましょう』とやったこともある。局職員への傷害容疑で書類送検され、那覇地検に相当調べられたのがこの時。極端なストレスで全身が硬直し、救急搬送されたことがあった。斜面を降りてきた職員をよけただけで、結果は不起訴だった」

−12年のオスプレイ配備阻止行動で、普天間飛行場のゲートを封鎖した。
 「台風で暴風警報が出ている中、仲間に呼び掛けて車でゲートを封鎖した。ああいう行動は組織の論理ではできない。一方で、組織の力が必要な運動もある。自分は組織人と一市民の間を行きつ戻りつしている」

−今回、辺野古の新基地建設反対行動は。
 「自由な個人の集まり。問題が大きすぎると、組織では担えない。ここでは10年前からいる人もきょう来た人も、かつての労組の親分も若い人も、同じ仲間。それぞれが自腹で、主体的に来てくれている。信頼と友情があって、行動だけ一緒にできれば、個人の考えは違っていい。戦後70年にわたる沖縄の不条理を解き放ちたいから、人の関係性も自由でないと。誰かの命令に従うだけなら、沖縄の未来は始まらない」

−一番きつかったのはいつ。
 「どこでも、運動の形をつくるまでが大変。昨年7月、座り込みを始めた当初はゲートから入る全ての車を止めては、機動隊に排除されていた。ところが、毎日やっているうちに、どれが海の作業に向かう車か、分かるようになってきた。機動隊も、何でもかんでも排除するわけではない。机上でなく、現場でぶつかり合うと、相手の考えが分かってくる。やり方は悪いけど、時間がないから」
 「夏休みに入ってから、親子連れが多くなった。ぶつかっているだけでは駄目だと思っていたら、歌三線が始まった。だんだん形ができていった」

−集会では多くの参加者に発言の機会をつくっている。
 「1人で来た人に寂しい思いをさせて帰すなら、運動は広がらない。あなたのことを見ています、ここでマイクを握って、帰ったらあなたの回りにも伝えてほしい、と。大衆運動は気配りだから」
 「実は以前から、シュプレヒコールにも少し違和感があった。ほかのスタイルを見つけられないから続けるけど、言葉は前向きなものを選んでいる。『闘うぞ』ではなく、『海を守ろう』『未来に残そう』と」

−「カヌー隊と連帯して」と話す時は涙ぐむことが多い。
 「よく『泣き虫博治』って言われる。カヌー隊は海上保安庁の暴力にさらされ、非常にきつい。でも彼らなしで運動は成り立たない。ゲート前でも、気持ちを一つにすることを心掛けている」

−対峙する相手に語り掛ける場面がよくある。
 「警備員は普通の現場だと思って本土から来る。みんな最初はびっくりするけど、帰る時には『沖縄の人ってすごいですね』と言ってくれる。今回病気を公表したら、警察官も『思いは伝わっていますよ』『早く治して帰ってきてください』と。帰ってきたら、彼らがまた困るのに。現場はそこがおもしろい」

−行動には、本土からも多くの人が訪れる。本土との関係をどう考える。
「民衆同士、自立しながら連帯することは害じゃない。薩摩侵攻から400年。沖縄側が本土との関係にこだわりすぎて、逆に本土にくぎ付けにされていると感じる。例えば薩摩が侵攻しなかったとしても、他の欧米列強が攻めてきたかもしれない。本土の呪縛から自由になって、東南アジアや太平洋の小さな独立国に目を向ける方が、自立に役立つと思う」

−現場の運動と県民世論は、互いに支え合っているようにも映る。
 「僕は現場で何度もつぶされているけど平気。だから、『本気じゃないんだ』と言う人もいる。そうではなくて、もともと現場の運動だけで決着がつくと思っていない。県民の声をまとめて現場で必死に抵抗し、その積み重ねで世論をまた大きくしていく。最終的には市長や知事を代えて、その力で国を止める。だから、もし昨年の知事選で翁長雄志さんが負けたら、と思うと怖かった。ここの運動もすぐたたきのめされていただろう」

−振り返って、ここまでの評価は。
 「今回、国は海に臨時制限区域というわなを用意して、抗議の市民を逮捕しようと待ち構えた。陸でも総がかりで包囲網をつくってきた。しかし、県民はそれを打ち破った。毎日各地からバスが走り、日替わりで親子連れや経済人が来る。継続性といい規模といい、かつてないほど圧倒的だ。それは沖縄が自信を持ち始めた表れ。保守だ革新だ、ではなく郷土を愛するから。島ぐるみの団結を実感している」

−歴史的な意味をどうとらえているか。
 「復帰運動や反CTS(石油備蓄基地)闘争、喜瀬武原の実弾砲撃演習反対闘争。へこたれず、粘り強く続いた戦後沖縄の運動の上に、今がある。たまたま、そこに僕たちがいる。先輩たちが刻んできた歴史は常に意識している」
 「今、蔑視してきた中国が軍事的に台頭し、日本人は屈辱と恐怖を感じている。かつてないほど緊張が高まっている。辺野古で防波堤が決壊したら、日米中の軍事の濁流が沖縄全体に流れ込んでくる。沖縄戦のあの光景がもう一度繰り返されるかもしれない」

−悪性リンパ腫を公表し、闘病生活に入った。
 「なぜ今なのか。あと少しくらい待てないのか。残念でならない。あえて公表したのは余計な心配を掛けたくないのと、その間は仲間に頑張ってほしい、と伝えたくて。石にかじりついてでも戻ってくる」
 「病院のベッドの上にいても、現場を思わない日はない。荒れ狂う国と、それに耐え抜く仲間の姿。涙を流しながら新聞を読んでいる。戦後70年の年に、現場にこれだけの人が集まり、知事が頑張っている。県民の闘いを誇らしく思う」
(聞き手=北部報道部・阿部岳/沖縄タイムス20150511)


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