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4・28座談会 沖縄の自己決定権



<沖縄タイムス2014年4月25、28、29日>
 昨年4月28日、政府が「主権回復の日」式典を開催してから1年がたつ。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約によって日本から切り離された沖縄では、式典に対して「再び沖縄を切り捨てるもの」と強い反発が起こった。沖縄にとって「4・28」や「主権」とは、どのような意味を持つものなのか。沖縄の自己決定権について、仲里効、島袋純、親川志奈子の3氏に議論してもらった。


出席者 仲里効氏(なかざと・いさお1947年南大東村生まれ。法政大学卒。映像・文化批評家。雑誌「EDGE」編集長を務めた。著書に「オキナワ、イメージの縁(エッジ)」(未来社)、「悲しき亜言語帯」(同)など。映像批評家)/島袋純氏(しまぶくろ・じゅん1961年那覇市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程満期退学。琉大教授。沖縄自治研究会発起人。政治学博士。著書に「『沖縄振興体制』を問う」(法律文化社)、「リージョナリズムの国際比較」(敬文堂)など。琉球大学教授)/親川志奈子氏(おやかわ・しなこ1981年沖縄市生まれ。琉球大学大学院博士後期課程。オキスタ107共同代表。琉球民族独立総合研究学会理事。論考に「政府に見える植民地主義 名護に生きる民主主義」(「世界」2014年3月)など。オキスタ107共同代表)/司会=学芸部・与儀武秀


4・28座談会 沖縄の自己決定権 ▲上

非対称の沖縄と日本/今も続く包摂と排除 仲里氏
式典は「植民地宣言」/沖縄史の抹殺で挑戦 島袋氏
若者が歴史を学ぶ契機/世界の先住民と連携 親川氏


- 昨年4月28日に日本政府が「主権回復の日」式典を開催したことに対し、この日に日本から行政分離され、米国の施政権下に置かれた沖縄では「再び沖縄を切り捨てるもの」と反発が高まった。政府と沖縄の認識の違いをどう感じたか。

 仲里効氏 結論から言えば、沖縄と日本の4・28に対する非対称性を強く感じさせられた式典だった。日本が国際社会に復帰したことを記念するという初の政府主催のイベントは、第1次安倍政権では未発に終わった「戦後レジームからの脱却」という欲望のもとに呼び出された。
 日本の戦後を一言で位置づけるなら「サンフランシスコ体制」と言うことができる。その体制は、戦争責任の免責、国体護持と引き換えに沖縄をアメリカの占領下に捨て置くことだった。「屈辱の日」と呼ばれた。式典はその記憶を呼び起こした。日本と沖縄の「非対称的な戦後」が鮮明になった日でもあった。
 沖縄のメディアは、毎日のように4・28の意味を考え直す企画が続いた。記憶の力を思い知らされた。「復帰」後忘却されていた4・28と沖縄の戦後を「学習し直す」機会となったのでは。

 親川志奈子氏 昨年の4・28は南風原文化センターでオキスタ107の赤嶺ゆかりさん、崎原千尋さんと座談会に参加していた。会場には年表が張り巡らされていて、参加者それぞれが歴史の中に自分の生まれ年を探すことができた。私たちにとって歴史と「私」をつなぐことは、必然的に沖縄と日本の歴史を対比させて見ることでもあった。4・28をめぐり、年配の人は、若い人たちと戦後史や復帰の歴史を共有できないことに憤っていた。私たちが自らの歴史を学べない仕組みの中で、運動や政治や学問に議論を任せてきたことを考えると必然だ。去年の4・28騒動をきっかけに私たちワカムンチャー(若者)が沖縄の歴史を学ぶことができたのは大きかったと思う。

 島袋純氏 日本では憲法よりも地位協定や日米安保が上に立ち、実は見せかけの立憲主義なのだが、少なくとも戦後は人民主権に基づく新憲法のもとに社会契約説的な国家統合の原理によって国家の正統性を構築していた。4・28の式典はそれをも放棄するという政権の意思表明だった。戦後レジームからの脱却とは、国家の正統性や国家統合の原理を転換するという重要な宣言だったことを読み解かなくてはならない。
 これは沖縄を植民地として支配するという宣言にならざるを得ない。形の上では沖縄の人々にも人権があり主権者でもあるということを認め、社会契約として日本に参加していくということから、統合の原理が変わってしまった。
 それに対抗するためには屈辱という言葉や、同じ日本人だから日本人として権利を認めてくれということでは不可能。日本政府は社会契約を結び直して国家統合を果たすことを公式に拒否しているからだ。沖縄側から「沖縄の統治は自分たちの主権である」と書き換えない限り、対抗できないと思う。

- 沖縄にとって「主権」とはどのような意味を持つと考えるか。

 仲里氏 「屈辱」では対抗できないことは、まったくその通り。4・28式典が新たな統合政策だったとすれば、屈辱の記憶を喚起するだけではダメなことははっきりしている。屈辱の記憶が、どういう形で立ち上げられ、どこへ向かうのかに注意深くありたい。「日本復帰」になだれ込んでいったかつての反復では、統合のあり方を超えられない。「主権回復の日」を5・15にすべきだという主張は、日本国家の統治機構を補完することにしかならない。
 沖縄はサンフランシスコ体制下で「潜在主権」という名で日本につなぎとめられながらも排除されてきた。この包摂と排除の構造は、「復帰」によって顕在化された主権のもとでも、変わってはいない。主権の持つ暴力性を、沖縄ほど皮膚感覚で知っているところはないのでは。
 一方、沖縄における主権的なものへの志向性は、そのたびに日本の国家主義によってそぎ落とされてきた。主権の地図を書き換えるとはどのようなことなのかに、自覚的でありたい。

 親川氏 昨年、琉球民族独立総合研究学会が立ち上がる前に4・28から琉球の主権を考えるシンポジウムを開き、グアムの先住民族であるチャモロの方々と脱植民地化について議論した。沖縄は日本という国家の中で日本人と同等の権利を獲得するという運動を十二分にやってきたが実現しておらず、世界の似たような体験をしている人たちと一緒に主権について考えたいと思った。

 島袋氏 辞書的な意味の「主権」には日本的なバイアスがかかっている。つまり国家が最初にあり、国家に専属するという発想である。しかし人類の歴史から見れば主権はピープル、人々にある。アメリカ独立革命以来、既存の主権国家に属していてもある特定の人々に主権があるという発想が常識になってきた。
 沖縄でも主権を主権国家に専属させず多様化する意識の流れの中で復帰運動に関わってきたという経緯がある。さらに主権という概念を国際人権規約などを使いながら多様化し、沖縄の側の主権の概念を変えていこうとしている。しかし4・28に表れたのは明治の古い国家主権。沖縄の歴史の抹殺であり否定であるし挑戦である。

 仲里氏 カール・シュミットが「主権者とは例外を決定する者である」という言い方をしていた。主権の神学的魔力性を熟知していたということだが、結局、国家主権が「例外」の名で強化され、ファシズムを正当化していった。日本の近代も天皇制のもと、それに近い歴史をたどった。例外化され、膨張した国家主権が周辺地域の主体性や主権をのみ込んでいった。
 大切なのは、主権を絶えず交渉可能にしておくこと、主権の概念を組み替えていくことだと思う。主権は囲い込むことと排除する性格を持たざるを得ないところがある。それをいかに飼いならしていくかが課題であり、同時にそのことは、自己決定権のあり方にも関わってくると思う。
(タイムス20140425)


4・28座談会沖縄の自己決定権 ▲中

「戦後」凝縮し対象化/46対1の関係 再認識 仲里氏
立憲主義的な闘争を/植民地化 善意で貢献  島袋氏
「屈辱」と異なる展開/多文化共生 同化迫る 親川氏


- 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した。その「4・28」に対する、沖縄と政府の認識の相違について。

 仲里氏 40歳代以下の人にはピンとこなかった4・28を通して、昨年、世代横断的に、沖縄の戦後とは何かを、凝縮した形で対象化していったことが印象的だった。その過程で「屈辱」とは違う文体を作っていったように思う。
 屈辱を動力として日本に回帰したかつての復帰運動とは違うあり方が出てきたのではないか。集会ではウチナーグチの発言が飛び交うなど、新しい声と主体が立ち上がっていく印象を持った。

 島袋氏 沖縄の戦後は米軍支配のもとで日常的に人々の権利が否定されてきた。基本的人権が自分たちにあると主張するとともに自治権を要求する闘争の歴史だった。運動は当初、立憲主義的な要素が強かったが、徐々に日本ナショナリズム、国家主義と民族主義に回収されていき、復帰の物語が変えられた。
 しかし、日本政府が国家主義による再統合の意思を露骨に表した昨年の4・28で見えたのは、それではもはやだめだということ。沖縄側が日本政府の脅しに乗らないということなら、自分たちがやってきた人権と自治権の回復の文脈で沖縄の歴史をとらえ直し、今に位置づけ将来に基礎づけする必要がある。そうしないとまた日本の国家主義と民族主義に統合されてしまう。さらに危機的なのは安倍政権は尖閣で戦争を辞さない構えだ。沖縄が戦場になることも想定し沖縄で国家主義を徹底しようとしているように思う。沖縄側が意識的に立憲主義的な闘争を仕掛けていかないと、負けてしまう。

 親川氏 私は1981年生まれで、復帰のことは教科書的に学ぶ感じだった。逆にハワイを見て「沖縄」に気付くことができた。アメリカでマイノリティーが「米国人と同じ権利」を獲得するために始まった公民権運動が、ハワイにおいては「私たちはアメリカ人ではない、ハワイ人だ」という言葉で、ハワイ人としての権利を考えることにつながったと聞き「ワッターはどうなんだ」と自問自答した。当時の状況を顧みず、単純に祖父母世代の復帰運動の経験を批判はできないが、今、そこから何を学んで何をするのか、世界の事例に学びながら考えていきたい。

- 昨年の4月28日には、県民大会と同時刻に南風原文化センターでのトークイベントで話していた。県民大会と別の場所に参加した人は、県民大会とは別の文脈を求めていたのだろうか。

 親川氏 「屈辱の日」というフレームで何かを考えることに危うさを感じている人も多かったのは確かだったと思う、つまりもう一度「同じ日本人として扱ってもらえるために」という復帰運動の流れに乗るのは違うのではないか、という気持ちを共有していたのかもしれない。バッティングさせたのではなく、たまたま同じ日になったのだが参加者から「同じ日だから県民大会に行けなかったじゃないか」と「同じ日にしてくれてありがとう」という両方の言葉をもらったことは興味深かった。「屈辱」という言葉を必要とした歴史を確認しながらも、異なる展開を求めているのではないかと感じた。

 仲里氏 復帰運動の中にあった権利獲得要求という側面は、確かに評価するべきである。たとえば全軍労はまったくの無権利状態から1つ1つ権利を獲得して、最終的にはストライキをうち、金網の中から基地そのものにノンを突きつけるところまでいった。これは積極的に評価しなくてはならない。ただ個別的な運動が、「最終審級」として日本復帰に回収されていったことを見ないといけない。
 沖縄の自己決定権をどうするかを考えるとき、米軍占領下での政治経験、たとえば琉球政府の経験が何だったのか、もう一度考え直すべきだと思う。米国の占領政策のもとでの統治装置だったとしても、沖縄の人たちが直接民主主義的に作り替えていったという性格は否定できない。あの経験を、別の視座で発見し直しながら政治的共同性の力にしていかないといけない。
 また、復帰運動をどう評価するかというとき、戦前の批判と反省の上に築かれたといえば必ずしもそうとはいえない。戦前との連続性で、学校空間では沖縄語撲滅と標準語励行、日本人、同化教育が行われた。これを率先したのは、復帰運動の中核を担った沖縄の先生たち。自らの言語も、主体も投げ捨てて、国民国家の統合を、それこそ自発的に隷従し支えていった。沖縄の主権を組み替えるというとき、戦後責任をくぐり抜けたところで徹底して考えなくてはならないと思う。

- 米軍占領下に置かれた27年間と現在の沖縄を比べて思うことは。

 親川氏 6・23や4・28や5・15から沖縄の歴史を見ると「私は何人か」ということ一つとっても非常に複雑なわけで、そういう歴史の経験を自覚していると日本のメディアから流れてくる「尖閣諸島は日本固有の領土」のような言葉はジョークのように聞こえると思う。現在、シマクトゥバ(琉球諸語)が消滅の危機にひんしていると国連からも指摘される状況で、それを再活性化するための言語復興運動が起こっているのを見ると、まさに脱植民地化の実践なのだと感じる。
 日本というくくりの中では、基地問題や歴史認識の問題、教科書問題と言語や文化の問題はあたかもリンクしていないかのように扱われるが、世界中の脱植民地化運動を見れば同根であることが分かる。危機言語の問題は「多文化共生」というようなポジティブな語感で政治とは切り離されて扱われているが、それは差異を認めるジェスチャーで同化を迫っているわけで同化政策とあまり変わってはいない。日本の多文化としての沖縄と位置づけてみせるというだけの話で、これも植民地主義の問題だと思っている。

 島袋氏 歴史を振り返りながら自己決定権を考える際に重要な点が2点ある。まず、27年間の米軍支配下において、沖縄の人々が人権の意識を守りどれだけ闘ってきたか。特に立法院は非常に大事な機関だが、その働きや政治家の言説を聞くと、レベルが高く驚くことが多い。沖縄の戦後史においてどんな権利を要求し勝ち取ってきたか、列挙していくと権利章典になり、憲法を作ることができる。
 復帰前は沖縄の教員側が人権を主張しながらも、沖縄の独自の文化や言語、歴史についての教育を受ける権利を否定する形で日本人化教育や自己植民地化教育に善意をもって貢献してしまった。その責任を問うことは、現在から未来に関わる。第2に沖縄についての教育は沖縄の人々の権利であり、自己決定権の重要な一部だと、強い意思表示を示すことが必要だ。

 仲里氏 1972年5月15日以降、沖縄は日本の国家システムの中に組み込まれ、47分の1という単位になってしまった。しかし実態は、日米安保の結節点として、最近の例で言えば、新防衛大綱や中期防衛力整備計画など、日本の軍事再編の中での沖縄を考えてみると、取り込まれながら排除されるというポジションにある。非常に象徴化して言えば、沖縄は日本の47分の1ではなく、46対1の「1」を認識し直すべきだと思う。孤立的な自民族中心主義的にではなく、アジアとつながる沖縄の可能なる中心として。日本国家を相対化していく、沖縄の自己決定権の思想として、我々自身が定義し直すべきだと思う。
(タイムス20140428)


4・28座談会 沖縄の自己決定権 ▲下

思い浮かぶ反復帰論/「一民族一国家」解体 仲里氏
「人権」基盤の社会を/世界に権利章典発信 島袋氏
民族主体の議論大事/当然の権利再認識を 親川氏


- 「自己決定権」とはどのような権利か。その権利要求の「主体」(人々、人民、民族…)はどうあるべきか。

 島袋氏 国家を形成する権力の主体は「ピープル」(人々)。国際法においても、アメリカ独立宣言でもフランス革命の宣言でも主体は「人々」だ。「人々」となる意味は、主観的要件と客観的要件の2つがある。主観的要件とは憲法を制定し国家を形成する権力を持つという政治的意思があること。だがこれを問い詰めると、植民地状態に置かれた人たちは、自分たちの政治的意思を表明できない可能性が高く、意思表明できる人だけが主権者と認められるという問題が起こる。したがって表明できないとしても独自の言語、文化等による一体性や歴史の共有は、外すことができない客観的な要件である。
 重要なのは文化的、社会的、言語の権利まで含めた広い意味での「人権」について、侵害や痛みを共有し、守っていきたいという客観的条件を基盤とする政治的意思があること。日本国憲法は「ピープル」が前提にされているが「国民」と訳されてしまい「人々」にはなりきれなかったのではないか。「人々」があって国家がある。その逆ではない。

 親川氏 「先住民族」が主体になるのではないか。言語や文化の剥奪、沖縄戦、土地の接収やオスプレイの強行配備、など「先住民族」という概念で考えると分かりやすい。琉球民族独立総合学会が会員を「琉球の島々にルーツを持つ者」としていることを指し「民族至上主義なのか、拝外主義ではないか」などという批判を受けることがあるが、批判する人たちは日本の単一民族国家幻想やそこから生まれる排外主義を内在化してしまっているのだろうと思う。日本国の焼き増しを目指すのではなく、植民地化され、奪われ、抑圧されてきた私たちが集い、学び合い、研究を深めたいと考えているが、もちろん、琉球にルーツを持たない人とも当然議論していきたいので、会員内外の人が参加できるオープンシンポジウムも開催している。
 先住民族という日本語にはネガティブな印象があり「自分たちは先住民族ではない」という「人類館」的な自己評価や、ヤマトへの憧れに止まってしまうこともある。民族という言葉にも家父長制的な響きを感じてしまうという指摘も受けている。本当はシマクトゥパで語られる自己決定権や民族主体の議論が大事で、それは世界の先住民族の権利獲得の議論とつながっていく。

 島袋氏 自己決定権の「主体」は、政治的に何によって繋がり合い誰を取り込み誰を排除するかという問題とに関わる。僕は「民族」という言葉をあまり使いたくない。例えば戦後沖縄の場合、伊江島や伊佐浜の人々の人権侵害の痛みをみんなで共有し「島ぐるみ闘争」が起きた。これまで公共的な言論空間さえない状況から痛みを共有し合い、政治的権利要求に覚醒し、横に連帯し合った。これが立憲主義の大原則で、この経験が日本にはない。日本本土の人たちは沖縄の人々が繋がり合ったのと同じ原理で沖縄の痛みを共有し、立ち上がってくれない。「民族」で一体感を持つのではなく、人権侵害の痛みの共有を基盤に、普遍的な権利に基づいて人々を結び合わせながら社会を再構成した方がいいと思う。「民族」ではそれができないと思う。

 仲里効氏 政治思想家ハンナ・アーレントは著書「革命について」で「構成する力」という概念で、アメリカは独立革命で「自由」を、フランス革命は「平等」を構成的原理にしたという。沖縄が植民地だとすれば、自己決定権として構成するのは「自由」や「平等」だけではなく、それ以上の何かがなければならない。それは「国民」ではないだろう。すぐに思い浮かぶのは、1981年に「新沖縄文学」に掲載された、仲宗根勇氏の「琉球共和国憲法私(試)案」。これは反復帰論を構成的力として提示したものだと思う。
 自己決定権の「主体」は初めから「ある」ものではなく、「なる」という行為から生まれてくるものではないか。例えば、植民地主義を批判したフランツ・ファノンは植民地解放運動にとっての文化や言語の重要性から「民族」に注目していた。自らの意志や自立的根拠として、「民族主義」に行かない「民族」。
 唐突な言い方だが、沖縄の自己決定権の「主体」に注目するとき、高嶺剛の映画のようなものだと言ってみることはできないだろうか。高嶺ワールドには、沖縄の言語や音楽、声、集合的記憶、身体性、風景、そして歴史などが構成する力として総合化されているように思える。

- 「自己決定権」獲得のために沖縄で必要なことは。

 島袋氏 自分たちに自己決定権があるという宣言「権利章典」が必要。全市町村長、国会議員、県議が直筆で署名して、我々にはこんな権利、こんな権利がある…、主権を構成する権力があるという形で書き、世界に訴え日本政府に突きつける。スコットランドは1999年に自治政府としてほぼ主権を回復したが、それができたのは権利章典があったから。権利章典は建白書のように人々の代表の署名入りで、自分たちに人権がありそれを守るために政府をつくる権利があると、認知し合い繋がり合うと同時に、全世界に対しても発信するもの。権利章典を元に、国家や憲法をつくるのは英米仏では常識だが、日本社会では通じない。てっとり早いのは国連で訴えること。欧米では常識なので反応もしてくれるし、国際世論を使って圧力をかけられる。
 沖縄ではそれができないのかというとそんなことはない。実際、1962年の立法院「2・1決議」で植民地独立付与宣言を引用して、当時の全国連加盟国に直接送付するなど、これまでも頑張っていろいろやっている。国際人権規約などを読んで、せめて今の県議会で自己決定権を行使する権利があると決議するくらいやってほしい。

 親川氏 シマクトゥバも継承されず、子供たちも「沖縄人って何?」という現実の中で、日本語の世界だけで生きてしまうと、自己決定権や脱植民地化、脱軍事化、独立論が日本という国家に回収されてしまうと感じる。ハワイやグアムでは現状維持、州への昇格、自由連合、独立などの選択肢が示され、「自分だったらどれがいいな」という議論を高校や大学の教育の中で行っているが、今の平和運動の中では将来の沖縄の政治的地位について議論する場所がほとんどない。そのような議論をしたいという声が高まったことから独立学会が立ち上がり、独立には何が必要か、経済はどうなる、憲法はどうするなどの研究が生まれている。自己決定権が私たちに備わった権利ということを再認識し、私たちにはどういうオプションがあるかを知ることが重要だと思う。

 仲里氏 沖縄には自己決定権があるということを絶えず言い続けること、実践すること、問題はそれにどのような内実を与え、組み立てるのかである。沖縄の自己決定権と、脱植民地化に向けた構成的権力という課題は、世界史的に見ても先端に位置するテーマだと思う。「一民族一国家」という神話を、沖縄からいかに解体していくかという作業が必要だ。
(タイムス20140429)




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