「琉球弧の自己決定権」に向き合うための研究ノート・2
新たな政治勢力の形成についての考察




大杉 莫(共産主義者同盟首都圏委員会)


〈目  次〉
●T 沖縄68年体制の終焉
●U 沖縄社会の分析のために



  「『琉球弧の自己決定権』に向き合うための研究ノート(1)」と題して、『情況』8・9月合併号に掲載した「沖縄自治政府樹立についての考察」で、制度論を採り上げた時、「社会的コンフリクトとその解決としての制度化……日本そしてアメリカとのコンフリクトだけではない、沖縄内部のコンフリクトこそが問題とされるであろう」と書き記し、更にコンフリクトについて、「2010年県知事選にはっきりと示されたように、もはや『68年体制』の最後的解体という事実を前に、復帰(=併合)を巡る未決の論争を経て、『依存vs自立』という新たな課題が沖縄の民衆レベルで生起していることである。それは、沖縄内部の階級・階層性とともに、買弁主義と排外主義が依存・自立の論点に否応なくまとわりついてきている」と書き加えた。


T 沖縄68年体制の終焉

 「伊波選挙が明らかにしたものは、延命してきた68年体制(屋良革新主席公選勝利を導いた『革新共闘』を一方の軸とする)の最後的解体という事実である。/……衆目の一致した『エース・伊波洋一』の敗退という県知事選が我々に教えていることは、迂遠に見えても、諸階級諸階層の分析を深化させ、68年体制−革新共闘−保革構造を突破する、『新しい沖縄』にふさわしい政治潮流の形成である。」と『情況』11年2・3月号で、10年県知事選の敗退についての若干の報告を書き留めたが、この「68年体制」こそ、復帰運動と並んで問い直されなければならないものに他ならず、まさに復帰運動が無総括のままに放擲されたと同様、現在、68年体制=沖縄型革新共闘が無惨な残骸を晒していると言っても過言ではない。

1 68体制の成立とその転変

 1967年12月に沖縄政界の保守陣営を代表した「沖縄民主党」(注1)が、「沖縄自民党」と改称(70年3月に自由民主党沖縄県連へ)し、初の主席公選候補として日本政府・自民党から全面的な支援を受けた西銘順治那覇市長を擁立。それに対抗して、68年に社会大衆党(注2)・人民党(注3)・社会党(注4)の三党は統一綱領を形成し、屋良朝苗教職員会会長(53年1月に結成された祖国復帰期成会の初代会長)を擁立した。11月の、主席公選と同時に琉球立法院選挙及び那覇市長選が闘われた、この「三大選挙」において、革新共闘は屋良主席、平良良松(社大)那覇市長の当選を勝ち取ったが、立法院選挙においては、保守18議席に対して革新共闘14議席(社大8、人民3、社会2、革新統一1)に留まった。得票率を見れば自民44・4%、革新共闘55・6%。ちなみに知事選の得票率は屋良朝苗53・5%、西銘順治46・4%。保守合同・自由民主党結成と左右社会党統合による「自社二大政党制」(実際は自民党一党支配でしかなかったが)という「55年体制」に対して、沖縄において生まれた自民党対革新共闘という構図は「68年体制」(注5)と名付けられた。
 ざっとトレースしてみよう。
 屋良県政は、69年11月佐藤・ニクソン共同声明から72年5月「施政権返還」へと進む中で、日本政府への従属化を進めたが、革新共闘を構成する三党の側も、70年11月の国政参加選挙にのめり込んでいった。結果は、衆院選では自民2議席、革新共闘を構成する社大・人民・社会各1議席、参院選では革新統一(任期6年議席)と自民(次点で任期3年)とが分け合った。
 一切の闘いを「祖国復帰」へと集約し、そこから総ての政治的社会的諸問題の解決を図ろうとする68年体制に対して、反復帰論が公然と論壇に登場し、濃淡はあれ「反復帰」の国政参加拒否・粉砕闘争も闘われた。そして1970年12月にはコザ暴動、71年には返還協定に対する二波のゼネスト(5・19「返還協定粉砕」、11・10「即時無条件全面返還」)、さらに全軍労無期限スト突入等、沖縄民衆の地鳴りのような闘いが続けられた。こうして72年「施政権返還(日本=祖国復帰)」をして、日米両帝国主義の共同謀議による「再併合」「第三次琉球処分」という声が上げられた。
 返還協定に対する、琉球政府による反戦平和と自治権の確立を柱とする建議書(いわゆる屋良建議書)も文字通り幻に終わり(注6)、72年5月15日当日は記念式典が開催された那覇市民会館隣の与儀公園で、復帰協主催の「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5・15県民総決起大会」が開催された。再併合直後の72年の初めての公選県知事選は屋良公選主席が引き続き勝利し、県議選も屋良与党が過半数を制し(社大11、人民6、社会4、革新統一1、与党入りした公明1。対する自民党は20)、「革新共闘」は改めて全面勝利を勝ち取った。
 しかしその後、屋良県政の後を引き継いだ社大党委員長平良幸市が76年知事選に勝利する(注7)も2年余で病に倒れ辞職し、78年12月に行われた県知事選は、「復帰幻想」の雲散霧消と「世替わり」の混乱の中、一体化・系列化・従属化の進行と振興開発体制の確立によって、とうとう自民党・西銘順治候補に県政を譲り渡した。この転換を「革新勢力の下降現象は著しかった。とくに与党第一党の社大党の低落傾向がこれを如実に示していた。……基地・自衛隊の定着、本土企業の進出、中央との系列化など本土化の進行は予想以上に沖縄の政治風土を変えたことを知事選は示している。……68年の三大選挙で不動の“革新王国”を築いたものの、10年の節目でもろくも崩れ、保守県政が誕生した」と『沖縄年鑑1979版』(沖縄タイムス)は分析している。【自衛隊進駐−海洋博−反CTS】
 60年代からの高度経済成長の歪みとしての「公害」問題の激発や「社会福祉」要求の高まりが、東京・大阪をはじめとする革新自治体を輩出し、さらに70年代から自社両党の低落−多党化現象−55年体制下における自民党支配に対する社共vs社公民という野党構造が進行する。沖縄もまたそうした日本の政治的動向に半ばリンクせざるを得ず、68年体制が沖縄型保革構造視されてもいた。屋良・平良県政はヤマトの「革新自治体」と同様の扱いを受けた。「革新王国としての沖縄」である。
 沖縄振興開発措置法・沖縄振興開発計画(=振計。72年の第1次振計から、10年ごとの時限立法・計画として第4次の現在まで続く)をもって、公共事業の全面的投入による「高度経済成長への遅れての参入」という位置を与えられ、洪水のようなヤマト(本土)資本の流入によって、格差是正・インフラ整備を通して、依存・従属化が推し進められていった。
 もちろん55年体制と決定的に違っていたのは、ヤマトにおける「革新自治体」を支えた社共共闘とは異なる政治構造である。
 沖縄においては、社会党はその結党当初から日本社会党の全面的支持・指導を受け、本土一体化・系列化の中で、官公労(自治労・教組)という強力な既成労組を土台として成長してきた政党でしかなく、そのヘゲモニーは未成熟であった。前述した68年立法院議員選挙では定数32議席のうち社会党は2議席でし獲得できなかった(72年県議選でも4議席)。しかし、社会運動・人民闘争の中軸を担い得た労働運動を「反戦復帰運動」と結合させることを通して、政治的勢力としてその力を培ってきた。後に触れるが、連合による労働組合(運動)の制圧・民主党支持母体への転換にも距離を置く沖縄的「左派」性を培ってきた。民間大単産はいざしらず、かつての官公労・公労協の系譜を引く労働組合の少なからずの部分が未だ社民党支持でもある。
 他方、人民党も日共沖縄県委員会として「本土系列化」を完成させたのは復帰後の73年であるが、すでに事実上、日本共産党の一地方組織以上でも以下でもなくなっていた。しかし、復帰運動だけでなく、沖縄の階級闘争の「左派」的位置を代表してきたことは、沖縄の民衆的支持を失うことから免れてきた。「人民党の遺産」とでも言えようか。
 そして、何よりも特筆されるべきは文字通り「復帰政党」として沖縄政界に確固たる地歩を築き上げてきた沖縄社会大衆党の存在である。社大党自体は、社共型「階級政党」の否定として「国民政党・ヒューマニズム政党」なるものを標榜しつつ、沖縄民衆の輿望を担った土着政党(名望家政党)として、「革新のカナメ」の役割を十全に担ってきた。敢えていえば、この沖縄社会大衆党抜きに「革新共闘」が権力を奪取しうる形での三党共闘体制は成立し得なかったとも言える。

2 大田県政と55年体制の崩壊

 78年から3期12年間、西銘県政の「中央直結」という名の振興開発体制の強力な展開は、「日本(政府)依存」を益々強めていった。
 しかし、88年県議選の与野党伯仲から89年参院選での革新統一候補(喜屋武真栄)の圧勝、90年の沖縄市長選において12年ぶりに革新統一候補(新川秀清)が市政奪還を果たし、同年11月の県知事選において、大田昌秀が勝利し、基地の重圧に抗し反戦平和を全面に掲げた「革新県政」を再度誕生させた。すでに崩壊しつつあった「55年体制」とは違って、高度経済成長の終焉以後も、「公共事業依存・高率補助・各種減免措置」等による振興開発体制の存続が、沖縄における「68年体制」の補完・補強剤になっていた。つまり、「反戦平和」と「依存経済」の奇妙な同居と言えば言い過ぎか。それ故、この県政奪還は、西銘県政の失政・失点に助けられた側面が色濃かったが、復帰運動の総括を不問に付すことで革新共闘が生き延びてきたことでもあった。しかしそれは屋良・平良「革新」県政から西銘「保守」県政が引きずってきた、沖縄の全社会的再編・統合過程での矛盾の深化拡大に対する異議申し立てという新たな課題を大田県政は担わざるを得なかったことを意味していた。
 ここで、「冷戦構造」終焉後の世界・東アジア情勢にも深く化関わらざるを得ない沖縄において、「復帰(=再併合)」の現実が、改めて問い返され、基地支配の再編強化・軍事属領支配とも名付けるべき沖縄の現状に対する反戦反基地・平和運動が再び地表に吹き上げてきた。今度は対アメリカだけでなく、対日本(政府)として、広大な米軍基地に象徴される「安保問題」が直接、俎上に上げられたことである。そしてそれは「国家」との直接対峙を強いられることを通して、沖縄がそもそも日本の一部・一地域として収まり得ないものとして、記憶としても実態としても(例えば琉球政府時代を見よ)、民衆レベルで改めて認識され始めた、ということでもある。
 日本での「55年体制」崩壊とされる93年7月総選挙において、自民党の過半数割れとともに社会党の歴史的敗北(136議席から70議席へと激減)による細川護煕8党連立内閣誕生が誕生。そして94年4月羽田内閣を経て、6月村山社会党首班・自社さ連立政権誕生に至った。
 68年体制崩壊のメルクマールは94年県知事選に始まると言われるが、復帰運動とその「遺産」を食いつぶすしかなかった革新共闘体制は、大田県政を通じて形骸化していったと考える方が問題がはっきりする。94年、大田再選に対して「革新共闘」を維持できず「ブリッジ共闘」へと後退し、他方「自民党県連内からも安保見直しや米軍基地の全面撤去が主張され始め、確実に保革の対立線がぼやけ始めた」(注8)とも言われた。そして95年7月、社民・社大推薦・公明支持の照屋寛徳候補に対して、共産党が公認候補をぶつけ三つ巴(「沖縄革新の分裂!」)の参議院選に至った。社会(社民)党の安保・自衛隊政策の転換は「革新首座」を狙う共産党には格好の機会であったが、結果は照屋勝利(注9)に終わった。
 復帰後最大の島ぐるみ闘争が生まれ、今に続く闘いの起点ともなった95年の少女性暴力事件への糾弾闘争から、大田県政の「(軍用地強制収用に対する)代理署名拒否」の闘いは、一方で日本政府(村山社会党首班内閣)が沖縄県知事を訴えるという前代未聞の裁判を引き起こし、他方「米軍基地の整理縮小・日米地位協定見直し」を求め全有権者の過半数を獲得する県民投票(96年)へと突き進んだ。そして大田県政は「(一国二制度を柱とする)国際都市形成構想」と、それと対になった「(2015年までに全基地を撤去させる)基地返還アクションプログラム」を提起し、基地問題の新たなステージを用意し、日本・沖縄関係を新たな政治過程へ押し上げた。これら一連の大田県政の「施策」は、「戦後50年」という節目がもたらした、「復帰運動」をも対象化する「沖縄戦の記憶」を呼び起こしたとも言えよう。しかしこの「自立県政志向」は、同化・依存・買弁勢力を硬化させただけでなく、「革新共闘」内部の不協和音を生み出していった。
 革新共闘の「中軸」たる沖縄社会大衆党は、72年「復帰」に際し解党・系列化を拒否したが、復帰政党から「土着政党」としての転身を充分に果たし得ないまま長期低落を続けた(注10)。沖縄社会(社民)党も、教組・自治労を基礎に独自の勢力を維持し続けてきたが、安保堅持・自衛隊容認の村山社会(社民)党の変節・変質に混迷を深めた。さらに大田与党として出発した公明党が脱落した。そして共産党は他党批判を強めるばかりか、「アクションプログラム」の段階的縮小論は「基地容認である」という噴飯ものの批判さえするに至った。ただ、連合・既成労働運動が民主党支持へ雪崩を打っていったのとは異なり、沖縄官公労は根強い社会党志向(現在、社民・護憲ネットとして県議会8議席を持ち、衆参に議席を確保している)が残存していることも、「社共共闘」−68年体制・革新共闘が、55年体制崩壊以降も亡霊のように生き延び得た一つの要因としてあげられよう。
 こうして「革新共闘」はその内実においてその歴史をすでに終えていた。しかし大田県政も、(日本)政府との対抗関係に引きずられ、沖縄の「未来」を描くことについて失敗し、沖縄の闘う民衆もまた、大田県政・行政主導型反戦平和闘争を突破する、新たな政治勢力形成の端緒を掴み得なかったと言わざるを得ない。まさしく「68年体制」という政党構造の溶解とともに、民衆レベルでは「政治」に対する無力感・閉塞感が生み出された。世に言う「チルダイ」現象である。

世論調査を見る
 NHK世論調査による「復帰して良かったか」は77年の40%から調査最終年の92年(「良かった」81%・「悪かった」11%)まで一貫して伸張し続けていた。これは日本政府内閣府による「暮らしに対する満足度」調査でも「去年とくらべて良くなった」とする回答は5〜6%台で推移しているものの、「苦しくなった」は漸減し(75年=45・3%から94年=27・2%へ)、「同じようなもの」は逆に漸増し続け(75年=43・7%から94年=67・1%へ)、「満足度」は、81年の50・6%から01年の77・4%へと上昇した(日本政府はこの01年で調査を終結させている)。
 しかし琉球新報調査は「暮らしの満足度」について、政府調査が8割近くの満足度を示した01年では66・5%であったが、5年後の06年は61・5%と初めて逆転現象が生まれた。こうしてみると、若干のタイムラグはあれ、98年大田敗退・02年吉元惨敗を転換点と考えるのもあながち的外れではない。

投票行動を見る
 この転換点について投票行動を通して考えてみたい(注11)。
 68年体制のスタートとなった主席選挙および同時に行われた琉球立法院選挙はともに89・1%という今では信じられない高投票率であり、以降も国政・知事・県議選は80%前後を推移している。しかし90年大田新知事誕生の県知事選が76・8%、翌々年県議選が75・8%だったのに対して、同年参議院選挙はなんと58・5%までいっきに落ち込んでしまった。その後、94年政権交代選挙となった衆議院選挙で70・8%、98年の大田追い落とし県知事選挙(稲嶺新知事誕生)が76・5%を記録するも、「68年体制」解体を決定づけた95年参院選は55・3%まで落ち込み、02年の県知事選も57・2%でしかなかった。そして07年参議院選挙では補欠選挙とはいえ47・8%と、とうとう投票率5割を割り込んだ。
 もう少し歴史を遡ってみる。『沖縄年鑑』(沖縄タイムス編集1969年)の「党派別当選者数および得票数」によれば「主席選挙では野党統一候補の屋良朝苗氏が当選したが、立法院選挙では自民党が立法院の過半数を上回る18議席(保守系無所属含む)、革新共闘側は14議席(統一候補含む)と共に現有勢力を維持する結果となった。地域別で見た場合、北部と宮古、八重山では自民党が大きくリードし、米軍基地が特に集中している中部と那覇市では革新共闘が圧勝する結果となった」。しかしあれから40年、2010県知事選では、基地(自衛隊基地も含む)所在市町村21のうち、仲井真は17市町村(名護・うるま・沖縄・宜野湾・浦添・那覇・糸満・南城・宮古島・石垣・国頭・東・本部・恩納・宜野座・金武・伊江・嘉手納)で勝利し、逆に伊波洋一が勝利したのは彼が市長二期を勤めた宜野湾を含む4市町村(宜野湾・読谷・北谷・北中城)でしかなかった。
 西銘県政期を通して、いわゆる都市部の「保守化」は進行し、大田県政期に若干の揺り戻しはあれ、合併市であるうるま市・南城市もほぼ同様に保守票が過半数を獲得。郡部は、革新系が伝統的に強い大宜味・今帰仁を除けば、恩納・伊江・宜野座・金武はほぼ一貫して保守系の牙城であった。それ故、「基地集中地域」に過度に意味付与してはならない、或る意味では「ヤマト化」とでも呼びうる投票動向とも言えよう。とくに基地依存というフィルターを通してみても、読谷・北谷は革新の強固な地盤であり、嘉手納は大田県政後、保守の票田化した。



U 沖縄社会の分析のために

 政治的構造転換としての68年体制の崩壊を大田県政とその敗退に見たが、まさしく従来型の振興策予算(総合事務局予算)は、大田県政最終期98年の4430億円をピーク(島懇事業・北部振興策とともに紛れもない「買収工作資金」であった)に漸減し始め、03年には3千億円を割り込み、仲井真県政時の10年には2012億円まで削減された。
 「格差是正」を全面に掲げた沖縄振興開発事業費は、72年再併合から2010年度までの累計概算で8兆9千億円に達するという(総合事務局「沖縄県経済の概況2011年3月」−防衛省予算を除く)。植民地経済的構造の中では、その大部分は「ブーメラン経済」と呼ばれ(沖縄では「ザル経済」)、日本(本土)へ還流=吸い上げられてきた。しかし依存経済の構造化は、沖縄に幾許かのオコボレを通して日本へ縛りつけて来ただけでなく、環境汚染・生活破壊を引きづりながら「暮らしの満足度」を漸増し続けてきたこともまた事実である。
 日銀那覇支店長を勤めた内田真人は、『現代沖縄経済論』(沖縄タイムス社02年4月)で、沖縄における社会資本整備の拡充と「本土との格差是正」について次のように明らかにしている。例えば、道路については、72年には(人口千人当たりの道路延長)4532mであったものが99年では1・7倍5722mとなり、11年段階の[指標](注12)として道路舗装率を見れば全国平均25・9%に対して沖縄県は48・0%で全国第5位となっている。もちろん、すべてがとは言わないが特に近年は不要不急、否、無用の振興策道路のなんと多いことか。
 住宅については、72年には(1住宅当たりの床面積)53・7uであったものが、99年には1・4倍76・8uとなり、11年段階の[指標]で持ち家1住宅当たりの住宅延べ面積は全国の44位であるが、公営住宅戸数(千世帯当たり)は第12位となる。つまり、民間事業ではなく公共投資(ということはこれまた振興計画・振興策がらみだとも言える)が幅を利かせているとも言えるのではないだろうか。
 下水道普及率は72年の16・5%が99年には3・3倍55・0%と拡充し、11年段階の[指標]では67・6%・全国第16位となる。医療(10万人当たりの一般病床)も72年179・2床でしかなったものが99年には約6倍の1060・9床となり、11年段階の[指標]では1386床、全国26位となった。つまりこれらの数字からも明らかなように、全国平均を上回るインフラ整備が進み、沖縄の「本土化」がこの領域からも強力に推し進められた。
 復帰運動の総括をしないまま(し得ないまま)、日本での高度経済成長・利益誘導型(利権型)政治に巻き込まれ、「格差是正」の再版復帰運動に邁進した革新共闘なるものの無効性はこの側面からしても明らかだろう。そして2000年沖縄サミット開催の年、「沖縄イニシアティブ」(注13)なる言説が流布した。この「沖縄イニシアティブ」に象徴される新たな同化・依存・買弁派の登場が教えていることは、沖縄のコンフリクト、社会構造・階級階層問題に手をつけなければ行けない段階に差し掛かったということである。70年を前後して生み出された「反復帰論」を思想資源として、今、新たな自立解放潮流の登場を予感させてはいるが、沖縄(琉球)ナショナリズムの発露・鼓吹と連動し、「オール沖縄」という幻想を解体することにもつながる。松島泰勝は『琉球の「自治」』(藤原書店06年10月)の中で、「基地は島の中で利益を得る者と、犠牲を被る者とを分断させる。他者を犠牲にしてでも自らの利益を追求する生き方は、道義上の退廃を招くだろう。琉球人が分断されることで、琉球の統一的な意思の表明や抵抗が妨げられ、他者による支配や管理が容易になる」と述懐する。

1 全国最低の県民所得・失業率の裏で「格差」が進行した沖縄社会

 格差是正・インフラ整備に対して、今、ことさら問題視されているのが所得格差[勤労者世帯・年間平均収入466・0万円/全国706・3万円]と失業率[完全失業率7・5%/全国5・1%]であろう。ともに全国最下位である。だが、日本の他地域と較べて過疎が進まず出生率が高く若年人口の割合も高く、しかも島嶼県としてのハンディも持つ沖縄が、ある意味で、最低の所得・最高の失業率であることは奇異ではない。沖縄は対日本として数値化されれば「7割」とか「貧しい」とか表現されるだろうが、世界的に見れば決して「貧しい」地域などではないことはおろか、「国内」的にもインフラ整備なども含め「類似県」とさほどの差があるとは思われない。
 しかし、である。「日本・全国」に較べても、沖縄が格差社会であるとは!
 日経新聞那覇支局長を勤めた大久保潤は『幻想の島 沖縄』(日経出版社09年7月)で、沖縄社会は、貧富の差が激しく、ジニ係数が全国最高レベルであるという事実(注14)を暴露する。大久保は言う。「県民1人当たり所得は全国一低い数字ですが、納税者のうち年収1000万円以上が1割を超える地方都市は全国で沖縄県だけです」。納税者のうち年収1000万円以上の割合を見ると1位が東京で16・6%、2位が神奈川13・1%、3位愛知11・9%。ところが沖縄はなんと9位で10・2%を占める(注15)。これには、少なからず軍用地主の存在も大きいと思われる。沖縄防衛局の資料(沖縄県『沖縄の米軍基地』08)によれば、06年度における軍用地主4万人余のうち3381人(8・4%)が軍用地料(賃借料)500万円以上を取得しているという。内閣府「10年度県民経済計算」県内総生産(名目)の「県民所得配分構成比」を見ると、雇用者報酬64・1%(全国74・1%)/企業所得28・5%(全国21・8%)での全国平均との差もさることながら、財産所得7・4%(全国4・1%)となっており、このうち賃借料は全国が0・0%(数値として計上できない程度に少ない)に対して沖縄はなんと3・2%にも上る。
 つまり、「格差」は、沖縄内部の問題としても明らかにされなければならない。とりわけ労働者階級・下層(プロレタリア=無産者)問題に注目する必要があろう。全国平均の7割とも言われる県民所得は、「雇用者報酬」で見れば「6割」となる。ちなみに、年収300万円以下の世帯は全国が34・7%であるのに対して、沖縄では60・3%であり、ワーキングプアの指標とされる年収200万円以下でも沖縄の調査全世帯の40・8%を占め、全国(18・9%)の二倍以上にも上っているのである(注16)。

2 分断・分裂する勤労大衆・労働者階級

 沖縄における階級構成についてであるが、古典ともなった大橋隆憲『日本の階級構成』(岩波新書71)と、それを基本的に引き継いだ角田修一(現代日本の階級構成表について
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/58521.pdf)、さらに「新中間層」析出を試みた橋本健二(現代日本の階級構造─階級間格差の拡大と階級所属の固定化─
http://rcisss.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/dlfiles/ronbun/018_Hashimoto_P.pdf)を参考にしつつ、「2005年国勢調査」を手がかりに、「従業上の地位」と「職業分類」の指標を元に整理してみた(注17)。
 集計してみて有意差として取り上げられる指標は、やはり公務員の多さ(沖縄5・9%/全国3・2%)である。次に眼につくのは第2次産業での沖縄の特異性であろう。そもそも第2次産業での従業者構成を見れば、全国27・3%に対して沖縄は16・8%にすぎない。そして全体での資本家階級の占める割合は沖縄8・3%(全国9・1%)であるが、第2次産業に限れば逆に全国よりもその割合は多い(沖縄12・8%/全国11・9%)。もちろん「雇人ある業主」をすべて「資本家階級」に計上したがために、旧中間層が少なく資本家階級が多く表示されたとも言える(橋本は独自の資料で5人以上雇用の業主を資本家階級とし、それ以下を旧中間層として計上している)。そして新中間層の少なさ(沖縄8・4%/全国12・2%)であるが、これもさらに精査が必要だろう。
 他方、公務員の多さは当然にも格差問題に影響する。もちろん離島・島嶼県として教育・福祉・医療等いわゆるナショナル・ミニマム問題と連動して行政サービスが「他府県」に比して過大にならざるを得ない。がしかし大久保は、06年3月、県に提出された外部監査報告書05年度版をもとに「04年度の県内給与所得者の平均年収約340万円に対し、県職員の平均年収は722万円と二倍以上の格差が生じている」と指摘。これに関連して、湧上敦夫が「沖縄の雇用問題」(『産業総合研究所紀要bW』沖縄国際大学00年3月)で、「沖縄の雇用先は規制され保護された分野と自由競争の分野という2つからなる。前者は、公務員、教員、関連団体職員、農協、金融、電力、通信、医療、福祉、マスコミ等々……非競争的で恵まれた職場・良好な雇用先である規制部門」と位置付けている。大久保は「闘う労組がない」と小見出しをつけ、「沖縄で労働組合と言えば、自治労や沖教組といった公務員の労組です。……/民間企業で組織的な労組を持つのは、電力、銀行、マスコミといった公務員に並ぶ『勝ち組』業界ですから、そもそも経営者と本気で闘う必要がありません」と付け加えている。この問題は「体制安定帯」と化した既成労組問題も含め、さらなる調査・分析が必要であるが、先の湧上の指摘と重なり合う、労働者の分裂・分断状況である。
 階級構成にとっては、もちろん「従業上の地位」が基軸となるが、しかし「職業分類」そして「企業規模」「資本形態」もまた重要な分析対象でもある。これは労働運動研究で問題となった「日本資本主義の二重構造」のうち、独占・大企業と中小零細企業(その過半は独占・大企業に従属する下請け・孫請等々)における労働者の圧倒的格差状況であり、現在はそれに加えて正規・非正規という「身分差別」にも似た労働者の差別分断構造も問い糾さねばならないし、「ジェンダー的視角」(注18)は不可欠のものである。もはや「労働者(階級)」と一括りには出来ない現実が横たわっている。

3 劣悪な賃金・労働条件に置かれる労働者階級

 さらに大久保の同書から。「(沖縄は)失業率が全国一高く、県民所得は全国一低い。ずっと続いているこの不名誉な指標の理由を一言で言えば、企業がもうけ過ぎているのです」。大久保によれば、07年の売上高に占める人件費率は9・58%で全国平均13・51%の7割にすぎず、逆に企業の儲けとなる経常利益率は5・56%で全国平均2・72%の2倍以上である。ちなみに観光関連は3・4倍、この間、花形産業視されている情報通信産業のコールセンターなどは2・9倍という(注19)。前述の「企業所得」も沖縄は全国平均の1・3倍の値である。経済産業省の「工業統計09年速報」を見ると、製造業出荷額5481億円・全国46位だが、1人当り出荷額は2212万円で42位である。
 2010年賃金構造基本統計調査の都道府県別「所定内賃金」「労働時間」についてみれば、第1位・東京364・8万円(160時間)、第2位・神奈川324・9万円(164時間)、第3位・大阪316・9万円(165時間)と順当なところである。対する沖縄は最下位の223・9万円だが労働時間は170時間と逆に長い。
 もう一つ労働政策研究・研修機構が「都道府県別賃金分析と低賃金労働者の割合」を03年賃金構造統計基本調査を用いて、ワーキングプアとも呼べる地域別最低賃金以下の労働者の割合を算出している。そこでは、全国計0・7%に対して沖縄は2・2%という最高の割合を示している。パート労働者についてみれば、全国計3・0%に対して、第2位の9・2%であるが、1位の山口県(9・8%)は調査当時の最低賃金が637円(沖縄605円)なので、絶対額で見れば沖縄の低賃金構造は際立っている。
 ついで、非正規労働者について。「就業構造基本調査」によれば、雇用者に占める非正規雇用者の割合は年々増加傾向を示しているが、全国的割合に比して、5ポイント以上増加が進んでいる。「09年度沖縄県労働条件等実態調査報告書」(注20)の調査では、97年26・7%(全国22・9%)/02年34・4%(全国29・6%)/07年39・0%(全国33・0%)。ちなみに沖縄における常用雇用労働者比率が50%以下の産業は卸売・小売業28・1%、飲食店宿泊業43・0%、複合サービス48・5%、サービス業37・2%である(参照すべき全国比率が未調査なのが惜しまれる)。
 次に、その他の労働諸条件がどのような状態にあるのかを前出の雇用労政課「報告書」で見てみる。
 年次有給休暇制度(有無)は100人以上雇用している企業では100%の事業所で完備されているが、30〜99人規模で91・8%、10〜29人83・3%、10人未満規模の企業では56・9%にすぎない。つまり半数近くの事業所では有給休暇さえないのである。そして育児休業制度・介護休業制度もほぼ同様の数値である。その他退職金制度はないと回答した事業所は昨年の30・0%よりも上昇しているとはいえ、未だ20・3%の事業所において退職金制度すら無い。。
 さらにセーフティネット=社会保障について吉田務が沖縄タイムス(10年12月28日)で報告している「労働と貧困問題」を見よう。県内事業所7万、従業者数49万人に対して、雇用保険・適用事業所2万(全体の3割弱)、適用労働者30万7千人(同6割)にすぎず、今年10月の完全失業者数5万4千人のうち、雇用保険受給者は約8千人(15%弱)である。労災保険に至っては、適用事業所2万5千(35.7%)、適用労働者約35万人(70%強)にすぎない。そもそも労災保険は原則として労働者を一人でも雇用する事業所は強制適用され、雇い主のみが負担する労働保険料により運営されるものである。これら適用事業所と適用労働者の割合から推測されることは圧倒的な中小零細企業労働者の無権利状態であろう。

4 若年労働者の無業・失業問題

 「労働力調査」(総務省統計局・沖縄県企画部統計課)によれば、09年で就業者61・7万人(全国6282万人)で完全失業者5万人(全国336万人)、完全失業率7・5%(全国5・1%)となっている。さらにこれを年齢別にみれば、15〜29歳という若年層においては沖縄は13・1%(全国8・0%)と際立っている。ちなみに30〜40歳では沖縄6・7%(全国5・3%)である。そして新規学卒者の就職内定率(厚生労働省「卒業者就職状況調査」、沖縄県労働局「新規学卒者の求人・求職・就職状況」)は09年で、高卒85・5%(全国97・8%)、大卒66・4%(全国95・7%)という、これまたかなりの差が見られる。当然のことながら「2010年度学校基本調査」(文部科学省)によると、新規高校卒業無業者17・9%(全国5・5%)、新規大学卒業無業者30・4%(全国14・1%)で、ともにこれまた全国1位であるが、全国と比してあまりにも多いと言わざるを得ない。
 岡田清は「若年層の失業問題」(「沖縄経済調査報告」『中央大学経済研究所年報第36号』05)で、沖縄は他県と異なり、出生率・若年率は高い。就業者数の増加(97年56・6万人から01年57・7万人の1・9%増)をはるかに上回る労働力人口の増加(97年60・2万人から01年63万人の4・7%増)を指摘した上で、「(これでは)失業問題の解消への道のりは遠いと言わねばならない」と結論づける。鈍化したとは言え国勢調査での人口増加率は2000−05年で0・65%(全国0・13%)である。
 前述の内田真人は失業者の求職理由別から、「非自発的離職者」(=会社都合・解雇者)19%に対して、4割を占める「自発的離職者」の高さに驚く。そもそも離職率も全国平均5・2%に対して沖縄は7・7%で全国1位である。もちろんこの離職率の高さは、県外就業者問題もさることながら、沖縄の大半を占める中小零細企業故の廃業率の高さにも起因している。沖縄の場合、中小企業庁の「2010年度中小企業白書」によれば、開業率10・9%(全国6・4%)、廃業率8・2%(全国6・5%)でともに全国1位である。(注21)。
 金城毅は<2雇用・失業>(沖縄タイムス10年8月18日)で、「求人はあるが労働条件などのミスマッチ、いわゆる構造的な失業」を分析し、「従来からも構造的失業率は高かったが、98年あたりから需要不足失業率はやや低下し、08年段階で2%を割っているにもかかわらず、構造的失業が増大し同年6%近い」と言う。こうした雇用のミスマッチ・就労意欲・選好問題もまた看過できない。沖縄県の新卒者の「公務員(教員)志向」の強さは夙に有名だが、前述の大久保は、「嫌われる観光」という小見出しの中で、05年度新規求人倍率の数値をあげ、一般事務は0・23倍だが、営業・販売関連1・77倍、観光業も含む接客業は1・31倍と人手不足であることを指摘している。
 依光正哲(Hitotsubashi University Repository2005-03)によれば、世帯主や世帯主の配偶者の失業率は沖縄と全国では大差がないが、「その他の家族」では、全国と二倍近くの差(沖縄15・4%/全国8・8%)が現れ、親元で生活している若年者の高失業率を読みとることができる、と述べている。やや古い文献だが矢野昌浩も「沖縄県における若年者の求職活動と雇用対策の課題(再論)」(琉大法学(82):93-106)で、「実態としては、沖縄の若年失業者の所得保障は、親との同居により事実上行われているものと推測される(失業時所得保障の家族内化)。」と述べる。地域的データが不足しているが、決して「豊か」ではない沖縄での若年層の失業・無業状態は、一考に値する。

 いずれにせよ、こうした高失業率、すなわち無業人口の多さは常識的には社会的コンフリクトもさることながら、社会不安そのものを醸成しないか、という疑問が湧く。こうしたことへの対処法として一方では「沖縄イニシアティブ」が他方では「無意識の植民地主義」を指摘するのは牽強付会だろうか。
 今回触れられなかったが、県外就労問題(注22)、および1・5次産業問題(製造業とリンクする農林水産業)についての調査・研究に加えて、勤労大衆・労働者階級の状態に対する労働運動・社会運動の視座からするところの調査・分析が必要である。
 先走って述べれば、1955年段階では推定組織率0・5%に過ぎなかった労働組合の状況(日本では37・8%)であるが、「土地闘争」「島ぐるみ闘争」から「復帰運動」への昂揚と連動する形で、65年には推定組織率18・7%と急上昇し、72年の再併合時には35・0%へと拡大し、日本での推定組織率34・4%を超えた。しかし72年をピークに年々低下し、74年には30%を割り、10年後の1982年には23・7%となる。日本全体でも長期低落傾向が開始していたが、それでも3割(30・5%)をキープしていた(注23)にもかかわらず、という事実をどう読み解くのかと言うことでもある。(未稿)

注:
(注1)沖縄民主党。米軍任命の初代行政主席に就任した比嘉秀平が沖縄社会大衆党を脱党しその他の保守勢力を糾合して結成した琉球民主党にその起源を持つ。親米協調路線・任命行政主席与党として、59年10月、「沖縄自由民主党」(第1次)を結成。その後も離合集散を繰り返したが、64年12月に保守勢力再結集によって「民主党」と改組。更に67年12月に「沖縄自由民主党」と改称し本土自民党との関係を深めていった。
(注2)沖縄社会大衆党。50年9月に行われた四群島政府選挙(奄美・沖縄・宮古・八重山)において、沖縄群島知事に当選した平良辰雄を党首として同月の群島議員選挙で当選した議員を中心に結成。なお当時の3政党のうちに、民主同盟、社会党(後の社会党とは別個の政党)は落選した民政府工務部長・松岡政保を支持、選挙後事実上解党していった。人民党は瀬長亀次郎を擁立、独自の道を歩んだ。
(注3)沖縄人民党。52年、沖縄人民党と奄美社民党が合流して琉球人民党を結成。53年12月、奄美群島の日本への併合に伴い、日本共産党に合流した奄美大島地方委員会と分離し沖縄人民党を結成。73年日本共産党に合流、沖縄県委員会となる。これら人民党の核心部分に、米軍事支配の下での非公然の「非合法共産党」が存在していたことを付け加えておかなければなるまい。
参照、森宣雄『地(つち)のなかの革命』現代企画室10年7月、国場幸太郎「沖縄の1950年代と現状――米軍基地反対闘争の発展」(『情況』00年8・9月合併号)、「米軍統治下におけるCICと世論操作/人民党と非合法共産党」(『沖縄を深く知る事典』日外アソシエーツ03年2月)
(注4)日本社会党沖縄県本部。58年那覇市長に当選した兼次佐一(社大党創立時の書記長)とその支持者が沖縄社大党より脱党し新たに結成した政党。社会党・総評ブロックの強力な後押しを受け、62年日本社会党沖縄県本部となる。
(注5)江上能義「55年体制の崩壊と沖縄革新県政の行方−『68年体制』の形成と崩壊−」(『年報政治学96・55年体制の崩壊』岩波書店96.12)
(注6)島袋純が、D−Navi20101201の「インタビュー・普天間問題から見る沖縄の自治の現状と展望」の中で次のように語る「72年の復帰に際して沖縄をどのような体制にするかという時に、憲法的な原理である平和や人権、沖縄で言えば『沖縄のこころ』を実現するために特別な自治制度にしてほしいという建議書を作成します。当時の琉球政府主席の屋良朝苗の名前をとって『屋良建議書』と呼ばれています。その建議書を持って屋良主席自ら日本政府に臨んだのですが、結局無視されてしまいました。」
(注7)沖縄社会大衆党は72年4月に開催された第26回党大会で、党存続と系列化拒否を正式決定。しかし前社大党委員長で衆議院議員の安里積千代がこれに対して「5月15日を期して解党」を提起し、72年12月の総選挙での当選後、社大党を離党し民社党に鞍替え。あろうことか、4年後、彼は自民党に担がれる形で(自民・民社候補)県知事選に出馬し、「革新共闘」が擁立した社大党委員長である平良幸市と一騎打ちを演じ、3万2千票余の大差で敗退した。
(注8)江上前掲
(注9)照屋寛徳215、582票、自民189、079、共産79、203
(注10)沖縄社会大衆党は68年立法院議員選挙で11名当選−72年県議選12名当選から紆余曲折はあれ、92年には7名、96年6名へと衰退し続け、2000年には4名、04年には5名とやや持ち直すも、08年には2名の県議を擁するのみとなった。
(注11)企画部市町村課 投票率の推移
http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=38&id=9272&page=1
(注12)沖縄県「100の指標からみた沖縄2011年4月版」より、以下[指標]と略。
(注13)高良倉吉/大城常夫/真栄城守定『沖縄イニシアティブ』ひるぎ社00年9月。「彼らは、沖縄/沖縄人に向かって日本政府のアジアに向けた尖兵になることを強要・教唆したが、それこそ『胸を張ってあらゆる援助を受け入れよ、日本の一員として我が沖縄は基地を容認することでイニシアティブを発揮する。』という『買弁化』を開き直った宣言であった。(大杉莫「〈研究ノート〉沖縄の自立解放について・その二」『共産主義運動年誌』第五号04年6月)
(注14)04年「全国消費実態調査」をもとにしたジニ係数は、全国平均が0・308に対して沖縄は最高値0・344であり、貯蓄ジニ係数に至っては同様に0・654(全国平均0・556)という、沖縄社会における貧富の差をくっきりと示している。もっとも、この「全国消費実態調査」なるものは、「OECDファクトブック09年版」で公表された日本の相対的貧困率14・9%に対して、9・5パーセントを対置する根拠として使われた、曰く付きの代物ではある(大沢真理『いまこそ考えたい生活保障のしくみ』岩波BL10年7月)。
(注15)ちなみに1000万円納税者の占める割合は福岡9・8%、鹿児島7・2%、佐賀・長崎6・1%である。(国税庁「統計年報・申告所得税05年度」)
(注16)総務省「08年住宅・土地統計調査 第40表」
(注17)「資本家階級」は、「従業上の地位」における「役員」、「雇人ある業主」および「家族従業者」のうち「雇人ある業主」の按分。「旧中間層」は、「従業上の地位」における「雇人なし業主」および「家族従業者」のうち「雇人なし業主」の按分。「新中間層」は、「職業別分類」の中の「専門的・技術的職業従事者」、「管理的職業従事者」および「事務従事者」のうちの「常雇・男性」。「プロレタリアート」は、「職業別分類」での上記「新中間層」を除いた全ての雇用者。以下は、そうした手続きを取っての乱暴な数値でしかないが掲げる。
【階級構成表】【階級構成表】
(注18)「昔から私たちはワーキングプアだった。格差ではない差別社会の中で虐げられて来たのだ」(08・9・28女性と貧困ネット立ち上げ集会)
(注19)「04年度企業活動基本調査速報」(沖縄総合事務局経済産業局)によれば、03年度売上高経常利益率は沖縄3・0%(全国3・4%)で、各産業別については以下の通り。製造業は2・7%(全国4・5%)だが、食料品製造業に限れば沖縄は3・2%(全国2・9%)。その他、卸売業2・1%(全国1・4%)、小売業2・7%(全国2・4%)
(注20)沖縄県観光商工部雇用労政課「09年度沖縄県労働条件等実態調査報告書」。調査対象は日本標準産業分類の中分類:「農林漁業」「宗教」「公務」、小分類:「バーキャバレー」「酒場・ビアホール」「家事サービス」を除いた全産業の従業員規模5人以上の事業所20、956(06年事業所・企業統計調査)から一定の割合で無作為抽出した2、000事業所。回答は621事業所(回答率31・1%)/総務省統計局「07年就業構造基本調査」
(注21)『図説沖縄の経済』東洋企画2007年8月・大城郁寛「第2章県民の生活」より重引。ちなみに(注16)で指摘した「世帯年間収入階級」の出所元である総務省の「住宅・土地統計調査」は本書で教えられた資料である。
(注22)「農閑期・建設業・中高年」の東北型に比して、「通年・製造業・若年」という沖縄型と言われていた。特に県外就労問題については「キセツ」と呼ばれる「一定期間、本土で働き、沖縄に戻り雇用保険で食いつなぐ」という若年層の就労構造に関しての調査・研究は不可欠であると思われる。
(注23)仲宗根栄一「日本復帰後の沖縄における労働組合組織率の低下要因」『商経論集』第19巻第1号(沖縄国際大学1991年3月)


※『共産主義運動年誌』第12号(2011.07.25)

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