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交差する迷彩色の10日間と「復帰」40年
脱植民地の潮流が旋回する沖縄

仲里 効  

 ドキュメンタリー映画『誰も知らない基地のこと』(原題は「STANDING ARMY(駐留軍)」)の監督の一人エンリコ・パレンティを招いての上映とシンポジウムが4月8日、沖縄国際大学で行われた。一般公開の前に、東京外国語大学で取り組まれたセミナーと連携して実現したものである。
 このドキュメンタリーは、イタリアのビチェンツアでの米軍基地建設への反対運動をきっかけに、イタリアの2人の若手監督が、なぜ世界中に米軍基地は駐留しているのか、なぜ戦後67年も基地はなくならないのかを尋ねて、インド洋上のディエゴ・ガルシア島、コソボ、沖縄など世界中の主なアメリカ軍基地を取材して制作された。また、ノーム・チョムスキーやチャルマーズ・ジョンソン、ゴア・ヴィダルなどの著名や学者や小説家から、コソボに駐留するボンドスティール基地の広報官や島を追われたチャゴス諸島の島民、そして辺野古や高江や嘉手納基地に反対する反戦地主など無名の人々の声も拾い、帝国化したアメリカの象徴としてのスタンディング・アーミーと、その駐留を永続化させ、ガン細胞のように増殖する軍産複合体の驚くべき実態に迫っている。
 2人の若手監督の〈なぜ〉の力が、《新たな敵=新たな戦争=軍事力強化=駐留軍=軍産複合体=国策の軍事化=権力の乱用》など、帝国を帝国たらしめている構造とその結節を探りあて、ゆるぎない視点で力強くかつ明快に提示される。インタビューに答えた発言も印象的だ。〈なぜ〉の力がコトバを引き寄せたのだろう。
 2つ3つ拾ってみよう。「兵隊がくるから戦争になる」と言う人類学者のキャサリーン・ラッツ、「恒久平和のための恒久戦争、それがアメリカンドリームだ」と指摘する小説家で劇作家のゴア・ヴィダル、米兵の関心は「酒と女とケンカだけで、沖縄の住民は影のようなものだった」と語るヴェトナム戦争当時沖縄に駐留した経験のある、退役軍人で平和活動家のアレン・ネルソン、そして「米軍基地は土地だけでもなく命も、文化も、歴史も奪っている」と指摘する反戦地主の島袋善祐などの言葉が、出来事の核心を射抜き、観る者の想像力を喚起させる。

1 スペクタクル化された「例外状態」

 このドキュメンタリーを、北朝鮮の「衛星」(ミサイル)発射による「万々一」に備えるという名目で、沖縄本島を含む宮古、八重山に地対空誘導弾パトリオット(PAC3)と総勢950名の自衛隊員が展開される、いわば演出された「非常時=例外状態」の騒然とした空気に包まれた沖縄で観ることになったが、それにより4月8日という日付と沖縄という場所は特別な意味をもつことになった。こうした状況の只中で、状況の熱とともにこの作品を観たこと、それは、沖縄の〈いま〉と、沖縄という〈ここ〉で繰り広げられようとしている出来事に、ドキュメンタリー映画という固有の想像力の形式によって光をあてる体験となった。いわば現実を映画という光源によって透かし見たのである。
 透かし見た現実とは、まさに帝国の結節として最初に提示された《新たな敵=新たな戦争=軍事力強化》の矢印が、この映画の重要な部分を占める沖縄の地勢に、アメリカの軍事的へゲモニーに従属しつつ日本の軍事を再編する文脈で書き足そうとしたことである。ここでの日本の軍事的再編の文脈とは、「北朝鮮の脅威」や「中国の台頭」を既視と未視の間の〈敵〉として仮構しながら、「基盤的防衛」から「動的防衛」へ、「北方重視」から「南西重視」の島嶼防衛へとシフトさせ、それまでの防衛のあり方の根幹を変えた「新防衛大綱」の具体化である。
 田中直紀防衛相の「破壊措置命令」、そして那覇、南城、宮古、石垣の4市へのPAC3(弾道弾迎撃用パトリオットミサイル)搬入とその要員、さらに与那国島への救助部隊と情報収集部隊、多良間島への連絡要員などの展開は、渡辺周防衛副大臣の「自衛隊施設以外にも初めてパトリオットミサイルを配備した」という発言や、読売新聞も沖縄周辺に「大規模な自衛隊を配備するのは極めて異例」と報じたことからもわかるように、明らかに住民を巻き込んだ“起動訓練”であり、与那国を含む宮古、八重山への自衛隊配備の“布石”であったといえよう。
 この迷彩色におおわれた風景の背後に回りこむと、そこには沖縄戦の体験からくる自衛隊=日本軍に対する沖縄住民の怖れや拒絶感を鎮める、という生臭い狙いが隠されていた。
 私たちは問わなければならない。なぜ隊員や装備を輸送するのに、自衛隊那覇基地のすぐ眼と鼻の先の那覇軍港を利用しなかったのか、なぜ民間船舶をチャーターし、那覇港浦添埠頭という民間専用港を使用したのか、なぜまだ混雑が残る夕刻の幹線道路を通らなければならなかったのか、そしてなぜ県庁や市庁舎へ自衛官を配置したのか、と。
 このいくつもの〈なぜ〉から見えてくるのは、北朝鮮という「ならず者国家」イメージを煽り、「万々が一」という心理を前景化し、非常時を演出するプロパガンダの手法である。そういった意味で現実はまさに映画をなぞっているようにさえ思えた。「北朝鮮」は「中国」と入れ替え可能な仮想装置になる。ここ数年露わになりつつある東シナ海をめぐる国境意識の強化と領土ナショナリズムへの誘導は、不安と脅威に働きかける新たな「ならず者」を生産する。そのために出来事をスペクタクル化しなければならない。
 私たちは気づくべきだろう。逆説的な意味で北朝鮮イメージが礼拝的価値となっていることを。それを可能にするのは「例外状態」の演出である。やはり指摘しなければならないのは、メディア、とりわけテレビメディアの危うさであった。テレビ報道で取り上げれば取り上げるほど、作り手の意図を超えて映像はプロパガンダ的な意味を帯びる、というジレンマとパラドックスを避けようもなく見せられることになった。北朝鮮の衛星(ミサイル)打ち上げは失敗に終わったが、「万々が一」というコトバのミサイルはきわめて効果的に人々の心の中に撃ち込まれたことを知らされた。苦い、実に苦い10日間だった。
 その苦い10日間はまた「例外状態」とは何か、そして「例外状態」を誰が決定するのか、ということを象徴効果的に経験させられる日々でもあった。なるほど、国防は国家の専権事項であるということが、「例外状態」を仕込みながら市民社会のなかに有無を言わせないカタチで(まさに有無を言わせず!)一気に入り込んでくる実態を見せつけられたのである。
 「例外状態」をスペクタクル化することで、沖縄住民の自衛隊=日本軍に対する警戒を切り詰めていく光景。この一連のオペレーションには、災害救助への軍隊の投入には反対できないという状況が作られた3・11の経験が活かされている。3・11直後、アメリカ軍がとった「トモダチ作戦」なるものは、非常時を利用したイメージ作戦であったが、ここでそのイメージ戦略の応用を知らされることとなった。
 そしてより重要なのは、沖縄の地で日本の軍隊が住民を巻き込みながら公然と部隊を展開したのは沖縄戦以来(まさに67年前の沖縄戦以来!)初めてであった、ということである。
 初めての事例を、ここでは3点挙げておきたい。第1に、組織された950名の部隊が同時に沖縄島と宮古、八重山の南西諸島に「上陸」したこと。第2に、全国瞬時警報システム(Jアラート)が災害時以外で使用され、沖縄県庁や石垣市庁舎に迷彩服の自衛官が常駐したこと。そして第3に、石垣島では自衛隊の施設以外に自衛官が配備され、しかもその警備のために実弾を装填した銃を携行したことである。
 衛星(ミサイル)発射は、「大山鳴動して鼠一匹」に終わった。だが4月3日から13日まで、ミリタリーグリーンに染まった10日間、沖縄が経験したのはスペクタクル化した「例外状態」と住民の意思を超越するように露出した国家の顔であった。国防は国家主権の専権事項という神話が一人歩きし、「新たな敵」を礼拝的価値とあがめる倒錯に動員された、という事実が不気味な光を放ちながら私たちの心をよぎっていく。こうして見れば、昨年の八重山地区中学校教科書選定での歴史修正主義的な公民教科書の採用や、首里城地下の旧日本軍司令部壕跡の説明板で「慰安婦」と「住民虐殺」の文言が、検討委員会の頭ごなしに県の独断で削除されたことの、ほんとうの意味に気づかされもする。

2 3・11と9・11の影

 繰り返すが、これらの自衛隊=日本軍の「きわめて異例」の部隊展開は、67年前の沖縄戦以来であった。その先に見えてくるのは、米軍再編と一体となった日本の軍事再編であり、沖縄が日米の軍事的な要塞の島になろうとしていることである。これが3・11以後、「もっとも安全な地域」と見なされ、避難や移住の対象となっている沖縄が経験した事実である。このことはもう一つの重要な契機に気づかせるだろう。すなわち、北朝鮮のミサイル発射を利用した空前の自衛隊の展開は、3・11の非常時におけるイメージ戦略を想起させ、そのことが逆説的に10年前の9・11の経験を招き寄せることになったのである。私たちが目撃したのは3・11と9・11が「例外状態」においてモンタージュされたことであった。
 忘れてはいるまい。2001年の9・11以後、世界の主要な米軍基地に最高度の警戒態勢(コンディション・デルタ)が長期にわたって敷かれたため、沖縄は「もっとも危険な地域」とみなされ修学旅行や沖縄への観光旅行のキャンセルが相次ぎ「だいじょうぶさー沖縄」なる官民上げての倒錯したキャンペーンが行われたことを。基地と観光が決して両立しないのだと、身をもって悟ったのはほんの10年前のことである。9・11以後、沖縄を「もっとも危険な地域」と見なした目と、3・11以後、沖縄を「もっとも安全な地域」と見なす目。二つの目がある。だが「安全」といい「危険」といい、それらを決定するのはいずれも沖縄以外のまなざしである。9・11と、3・11のモンタージュされた影を利用し、沖縄を日米の軍事要塞化しようとするイメージの政治がそこにはある。ここ沖縄においては9・11と3・11は奇妙にねじれながら接合している。二つの目は矛盾しながら併存している。
 今回の自衛隊の大規模な展開を批判する「識者」が、沖縄に必要なことは東日本大震災やフクシマの被災者の避難や移住の積極的な受け入れであるという趣旨の提言をしていた。反対しようにもしない、もっともな提言である。
 しかし、とあえて問わなければならない。提言者は、9・11と3・11の間で沖縄へ向けられた二つの目の共犯にどれだけ自覚的であったというのか。「安全」だといっては避難し、「危険」だといっては避ける。そうした意識と行動様式は、ざっくりと端折って言えば、アメリカの傘のもとに「高度経済成長」と遂げ、「戦後民主主義」を謳歌した日本の戦後社会が、保身と延命のために沖縄を取り込みつつ排除したドメスティックなあり方と表裏の関係にある。
 いかなる者も危険を避け、避難する自由は保証されなければならないが、それが集合的表象として提言される場合、その自由の根拠は厳しく問われ、検証されなければならない。避難や移住を奨める論理と、「非常時」だから軍隊の投入は当然だとする論理が、3・11の影で鈍い光を放ちながらここ沖縄においてねじり合わされている。だが、〈ここ〉に住む者は「安全」だろうが「危険」だろうが、ただ〈ここ〉で暮らし、日常を生きる以外にない。〈ここ〉から見れば、「安全」だといっては移り住み、「危険」だといっては忌避する「自由」と「正論」は、沖縄と日本の二つの戦後の非対称性に無自覚な擬制でしかない。

3 「復帰」という常識を問い直す

 今年はいわゆる「日本復帰」から40年の節目の年だという。1972年5月15日をどのように呼ぶかは、たんなる呼称の問題にとどまらない。あのトピックが沖縄の戦後史の転換点となり、その後の40年を方向づけたという意味でも歴史認識を分けている。
 では、1972年5月15日はどのように受け止められ、名ざされているのか。歴史年表からいくつか拾ってみよう。「沖縄、祖国に復帰」(外間守善、『沖縄の歴史と文化』、中公新書、86年)、「日本復帰、沖縄県となる」(『ことばに見る沖縄戦後史@』、琉球新報社)、「日本復帰成る」(『写真に見る沖縄戦後史』沖縄タイムズ社、72年)など、「復帰」という表記にしているもの、「新生『沖縄県』誕生」(『戦後写真記録 ゼロからの時代』那覇出版、79年)、「新生沖縄県スタート」(『沖縄年鑑/昭和48・49年版』沖縄タイムズ社)、「沖縄県スタート」(『写真でつづる那覇戦後50年』那覇市文化局歴史資料室、96年)などは、「復帰」という表現を使わないが、出来事を「新生」沖縄県の誕生として捉えている。また、「沖縄返還」(新崎盛暉『沖縄現代史』、岩波新書)のように「返還」と認識しているのもある。
 一方、沖縄そのものの日本への「復帰」でもなく「返還」でもなく、「施政権返還」(改訂増補版『写真記録 沖縄戦後史』沖縄タイムズ社、87年)、「施政権が日本に返還され〈沖縄県〉となる」(『沖縄大百科事典 別巻総索引・資料』沖縄タイムズ社、83年)など、〈施政権〉という法政治的な概念で限定的な使い方をしているケースもある。その双方を折衷したような「沖縄の施政権が日本に返還される(日本復帰)」(新城俊昭『ジュニア版琉球・沖縄史』東洋企画、2008年)もある。
 このように、40年前の歴史的トピックに対する見方は必ずしも統一されているわけではない。はっきりしているのは、言葉の選び取りのうちに、沖縄と日本の関係史の認識のあり方や思想の違いが出てくるということである。とはいえ、教科書的には「復帰」という呼称が一般的である。たとえば、沖縄の現代史を区分する場合、「復帰以前」「復帰以後」とすることや「復帰××年」という言い方によって時間的経過を認識するように、またその「記念すべき年」に生まれた人たちに対し「復帰っ子」という呼び名が与えられ、本人たちもそう思い、節目の年には何かと引き合いにされることからも「復帰」という呼び方は定着しているかに思える。
 だが、それによって歴史的結節点としての72年をめぐる出来事の本質を?むことができるかどうかとなると問題は別である。そう言うのは「日本復帰」とか「本土復帰」とか「沖縄返還」というロジックによっては、あの出来事の核心と全体像を?み損ねるという思いがあるからである。
 「復帰」とは「元にもどること」とか「元どおりになること」とか「原状」を回復するということを意味する。ならば、こう問うてみよう。すなわち、沖縄を日本の版図に強制的に組み入れた「琉球処分」と、その後、言語をはじめ民謡や芸能など沖縄の文化を禁圧した皇民化=同化政策を、その皇民化=同化の極限的な暴力としての沖縄戦の修羅を、天皇制の延命と国体の護持のために沖縄の長期占領をアメリカだけではなく日本のためにも好ましいとした「天皇メッセージ」を、さらに、日本が占領から脱することと引き換えに沖縄をアメリカのむき出しの占領にゆだねたサンフランシスコ講和条約と、それを基礎にした日本の戦後をどう評価するのか、と。
 そのような日本が〈元〉であり〈原〉であるといえるのか?否である。だがそういってきた。そのためには、沖縄は自己を欺かなければならなかった。自己を欺き疎外することによって成り立つロジックこそ、沖縄を日本の血脈に拉致し拘束する日琉同祖論であり、同化主義を倒錯的に内面化した自己植民地主義であった。「日本復帰」運動は、植民地主義と戦争と占領の記憶と経験を、国家の論理を内側から補完するものであった。

4 「68年体制」の崩壊を越えて

 忘却と隠蔽を装置化する「復帰」という概念を、根本的に問い直さなければならない。そうするのは、沖縄自身の自己刷新と二重の植民地主義の克服への要請からである。だから問いと批判の矢は、己自身に向けられる。沖縄の戦後思想は、こうした二重の植民地主義を内側から越えていく試みとして、60年代後半から70年代前半にかけての「反復帰の思想」とそれを80年代に架橋した「琉球共和社会/国憲法草案」に結実させ、自立的な構成的権力として提示していった思想的資源をもっている。この思想資源は、72年以後の沖縄の政治文化の深いところに波動を送りつづけてきた。
 とりわけ1995年の少女暴行事件以後、「反復帰論」が若い世代によって発見され、沖縄の内部に起こった変化の質を特徴づけもした。その変化の内実をひとことで言えば、「68年体制」の崩壊へ向かった流動と新しい主体への要請ということになるだろう。
 「68年体制」とは、1968年11月に行われた初の主席公選と立法院議員選挙、那覇市長選挙のいわゆる三大選挙のために、社会大衆、人民、社会の革新三党、沖縄教職員会、県労協などの労働団体を母体にして結成された革新共闘会議によって築かれた政治システムである。そのスタイルがその後の沖縄の政治文化を規定しつづけていったという意味で、まさに「体制」であった。この体制は沖縄県祖国復帰協議会を引き継ぐもので、「日本復帰」を共通の目標にしていた。日本の戦後政治を長い間規定したのが55年体制であるとすれば、沖縄ではこのときの共闘体制がその後の政治を方向づけ特徴づけてきたといえる。
 69年の日米共同声明路線にもとづく沖縄の「復帰=返還」が、復帰運動の論理を逆手に取って実現することで、時代から引導を渡されたにもかかわらず、〈真の復帰〉とか〈完全復帰〉という新たな幻想を創作し、沖縄の戦後抵抗の遺産を切り詰め、72年以降は、沖縄社会大衆党を除いて共闘会議を構成した政党や労働団体は、日本本土の下部組織として系列化されていった。「68年体制」は選挙政治において延命するものの、系列化や沖縄社会の解体と再編に無力をさらした。
 95年以後の沖縄社会の動きは、沖縄の政治を拘束しつづけてきた「68年体制」の惰性的延伸にはっきりと見切りをつけるものであった。それが、先に述べた95年の少女暴行事件の衝撃を内在化し、自らも「95年世代」と呼ぶ世代が「反復帰論」を再発見していったことに象徴的に現れている。普天間基地施設に反対する名護市辺野古やヘリパット建設への東村高江での抵抗は、95年の衝撃をくぐったところからなされているとみてよい。
 そしていま、「68年体制」の思想風土からはどう逆立ちしても出てきそうもない新しい潮流が生まれ出てきた。たとえば沖縄問題の閉塞感を打破するために、国連の先住民族作業部会や人種委員会などを通して、琉球の歴史文化の復権と自決権や自治権を訴える活動を行っている「琉球弧の先住民族会」。この会の活動は、琉球弧を太平洋の島々との繋がりのなかに位置づけ、グァムの先住民の闘いと共闘を築き上げようとしている。居酒屋独立論と揶揄されもした沖縄の潜在的オートノミーの熱と渦は、ゆるやかに、だが確実に時代を刻みつつあるようだ。
 また、沖縄からハワイへ留学し、そこでハワイの先住民族による言語や文化を取り戻す運動と出会い、その出会いから沖縄の言語と文化を発見し直していく。オキスタ107(Okinawan Studies 107)の試みも目を引く。留学経験を持つ女性たちが中心となって結成したこの集団は「脱軍事化+脱植民地化+自己決定権=リアル沖縄?」という解放の方程式を沖縄自身に問いかける。

5、“旧”から“新”へ転位する思想

 「68年体制」の崩壊の流動から同時多発的に顕われ出た、これらの新しい潮流の特徴を、ここでは三点だけ挙げておきたい。第一は、95年の衝撃を内在的にくぐり、沖縄の位置を日米の植民地として認識していること、第二に、「68年体制」が日本国家の円環に拘束されていることに対し、その円環を踏み越えていこうとする視座をもっていること、したがって第三に、それが沖縄のオートノミーへの不断の関心と志向を抱懐していることである。
 そのことは、戦争と占領、冷戦や植民地主義などを重層的に抱え込んでいるがゆえに、汪暉が「琉球――戦争記憶の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」(『世界史の中の中国』所収、青土社)のなかで「まさしくこの構造の“旧”こそが、琉球の社会闘争の“新”をもたらしたのである。(略)これは琉球が、21世紀における覇権構造の歴史性を明確に際立たせることを可能にしている」と、いみじくも指摘した転位の場所と重なる。沖縄という時空に絡み合ういくつもの“旧”の内在的な相克から“新”へと抜け出る、この回路は、72年以後も「真の復帰」とか「完全復帰」という領土ナショナリズムを空疎に変奏しながら乗り継いできた「68年体制」の内部には収まりようがない。
 「68年体制」崩壊のあとに創出される思想と文化は、ドキュメンタリー『誰も知らない基地のこと』中の、「米軍基地は土地だけでもなく命も、文化も、歴史も奪っている」という、長い抵抗のなかから身体化した言葉を、植民地/脱植民地の文脈で転生させていく実践であると同時に、この映画が帝国の方程式を異化するように書き込んだ《住民の抵抗=チェンジ?》を、沖縄の地の熱によって自立的に旋回させていくことにもなるだろう。
 「復帰」ではない、沖縄の「再併合」である――40年前のあの日とあの時、人々の口から発せられた「第3の琉球処分」という声を状況の深部で聴き取った耳の記憶を甦らせねばならない、と思う。「復帰」という名の「併合」を踏み越え、沖縄に内在するアジアを方法としていくためにも。

『世界』2012年6月号(特集:沖縄「復帰」とは何だったのか)

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