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沖縄自立経済・再考
東アジア近代の革命と反革命―環太平洋列島社会連帯の兆し



川音 勉


■ 目次 ■
はじめに
1 沖縄自立経済論の再検討 原田・矢下論文による介入を中心に
2 比嘉良彦さんの指摘
3 牧野浩隆『再考 沖縄経済』
4 従属論の再審―問題の所在
5 従属論の再審@―沖縄社会の近代史に即して―
6 従属理論の再審A―世界資本主義の発展から―
7 自立経済論以後三〇年―沖縄自立解放闘争の課題


 本稿は沖縄プロジェクトと称する仲間との、昨年来の共同作業の所産である。またこの作業を進めるにあたっては、知友、諸先輩たちから貴重なご意見をいただいた。記して感謝したい。もちろん文書化の責任は筆者にある。


はじめに 「復帰」=再併合三五年―沖縄の現在

 本年は沖縄「復帰」三五年にあたる。地元紙『沖縄タイムス』では、「自立境界線」と題する連載記事が組まれている。その第一部のテーマは「脱・高失業率」である。また同紙文化欄では「復帰三五年 揺れた島揺れる島」とのタイトルで、仲里効さんをはじめとする、沖縄の知識人による評論が連載されている。昨年の県知事選挙でも、争点は、基地と経済にあった。選挙を通じてこの問題が深く検討されたようにはとても思えないが、沖縄の現実を直視する限り基地撤去と経済自立は二つながら依然として重い課題としてある。加えて、これが分かちがたく絡み合っているという構造的な実態がある。
 〇七年は、〇二年スタートの新振計(沖縄振興計画特別措置法に基づく沖縄振興計画、「復帰」三〇年にしてさすがに「開発」の二字は削られた)中間見直し年にあたる。昨年、県の審議会が見直し作業を開始したことが報道されている。責任者は嘉数啓・琉大副学長である。七二年から〇一年にいたる三次、三〇年に及ぶ沖縄振興開発計画では、延べ七兆円に及ぶ財政資金が投入された。しかし、当初以来の目標とされてきた「自立経済」の実現には程遠い現実がある。むしろ、第二次産業は衰退し、第三次産業偏重、3K(公共事業、観光、基地)依存、政府財政依存の構造は深まった。
 沖縄の政治・経済・社会の状況は、日本国家・社会のそれと全くパラレルな関係にある。昨年の一六五臨時国会では、安倍政権によって、教育基本法改悪、防衛省新設が強行された。さらに現在開会中の一六六通常国会では、いよいよ改憲が日程化されようとしている。愛国心教育の強化、九条改憲による、「戦力不保持」「交戦権否定」の清算がもくろまれている。他方、経済・財政破綻は、沖縄だけのことではない。地域、産業、雇用形態などに基づく経済格差の拡大、過労死・サービス残業の常態化が続いている。昨年六月の財務省報告によれば、政府と地方自治体の債務は、一千兆円を越えたという。
 世界的な冷戦構造の崩壊と共に、戦後日本政治における「保革構造」=「五五年体制」は、もはや過去のものとなった。しかし、世界的・一国的なレベルで、これに替わる「安定的」政治合意調達のシステムは確立されていないように見える。ナショナル・アイデンティティの漂流がそれを物語っている。新自由主義とグローバリゼーションの下で、コスモポリタンなムードが瀰漫すると共に、これと対をなして偏狭なナショナリズムの台頭があること、ここに目下の情勢の特徴がある。東アジアにおける排外主義の連鎖がこれを示している。沖縄における「七二年体制」についても、依然として規定力は残るものの、それはしかし過去と同一のものではない。
 左翼世界については、総崩れ状況への歯止めはかかったように見えるが、知的保守主義と戦後民主主義左派の後塵を拝する政治的消極性から、縮小再生産の構造を免れていない。総じて周辺化された小ブルジョア的生活保守意識、リベラルな政治イデオロギー(平和・民主主義、自由・平等など)への拝跪によるラディカリズムの喪失、階級的言説の刷新を放棄してきたがゆえに、左右のリベラルのレベルを突破できない現状がある。旧左翼や、市民主義への安易な追随を払拭することが、マルクス主義の今日的彫琢を通じて行われなければならない。われわれにしても原理の更新を通じて事態の打開を図ってきたが、現実的実践、政策のレベルにまで貫徹できているわけではない。現実的諸実践の教訓を、もう一度原理の側に回収するプロセスが不可欠であり、本を読んであれこれ頭で考える作業だけではできない。活動の現場に赴き、仲間との共同の実践を理論化する作業の堆積が必要とされる。
 日本社会における、観光・文化・芸能での沖縄ブームにともなう、沖縄の自然と人間からの収奪と沖縄イメージの消費の拡大、他方で米帝と一体化して日本政府が行うあからさまな軍事利用、軍事基地の強化・固定化への反発が、沖縄社会・思想状況における、沖縄ナショナリズムの拡大、嫌日言説の登場を生み出している。左翼世界におけるその反映もある。沖縄ナショナリストにおける日本植民地主義を告発する言説は、この状況から生み出されている苛立ちの表現である。だが、これは戦後沖縄の現在に到る人民闘争の経過を、階級闘争の原理から解き明かす観点を入れなければ、結局解かれる事はない。
 昨年時点で、辺野古における新基地建設阻止闘争は、いったんの勝利を収めた。この政治的直接行動の勝利の普遍的意義は、文字通り画期的なものである。人民の実力行動が、政府の政策を阻んだ、我々にとっても数少ない貴重な経験である。この事態を受けて、日本政府は、米国との五・一合意とV字沿岸案の閣議決定を行った。現地は依然としてこの決定に基づく緊張と重圧の下に置かれている。帝国主義の世界大的戦略―再強化された日米安保体制と日帝の沖縄に対する軍事・国内植民地化と、これをつらぬく国際・国内階級闘争の複合が、辺野古新基地建設に凝縮されている。新基地建設阻止行動に対する沖縄社会の支持基盤は、依然として広く深いと考えられる。この構図を闘う側がトータルにとらえ、潜在的支持を公然とした、沖縄人民の決起を主導力とする沖日人民の闘争の隊伍に物質化すること、さらには人民的基礎に立脚した拡大深化のための、東アジア・環太平洋の規模に開かれたダイナミックな展望を獲得すること、これが問われている。現地の闘う人々は、辺野古の闘いが、日本―岩国・座間・横須賀、韓国―ピョンテクの闘いに直結していること、世界的規模での米軍再編との闘いの一環であり、イラク侵略戦争との闘いであることを知っている。しかしこの闘いは、資本主義・帝国主義そのものを打倒するときまで終わることはない。であるならば、東アジア、環太平洋列島社会、ネシアのスケールで資本主義を覆し、帝国主義を打倒、一掃する革命をやろうということだ。その見通しを付けるためには、現在の状況を沖縄と東アジア規模の歴史と社会・経済の文脈に据えなおし、その意義をつかむことが不可欠の作業となる。自立経済論再考を促す本稿の課題もまたここにある。


1 沖縄自立経済論の再検討  原田・矢下論文による介入を中心に

1−1

 自立経済一般を対象とすればそれこそ、この三〇余年に提出された文献は、汗牛充棟の状態であろう。地域経済として論じれば、そうなるしかないという現実によるものである。振興策のプラン同様、古くは戦前からある。ここでは七八〜八三年にかけて、原田誠司さん、矢下徳治さんによって行われた自立経済論に関する理論的介入の実践に対象を絞って問題を考える。その理由はさしあたり三つある。@日本側からの介入であることによって、その内容形式共にわれわれが参考とするべき先例となること。Aその内容にかかわって沖縄における知識人と少数ではあれ活動者の問題関心を掘り起こし、自立・独立論の内容的深化を促したと考えられる。(もちろん、反復帰論以来の沖縄側の固有の理論的蓄積があったことは前提であり、また日本側からの理論的介入がこれだけであったわけでもない。)B「復帰」三五年の今日に到るまで、自立経済論、自立・独立論の問題構成は、基本的にこの時期に出尽くした観のあること。

1−2 原田・矢下提起のおおよその経過

 一九七八年九月 『沖縄自立経済のために』(原田・矢下/『新沖縄文学』三九号)
 一九七八年一一月 シンポジウム『沖縄経済の自立にむけて』(那覇)
 一九七九年六月 パンフ『シンポジウム全記録』発行(鹿砦社)
 一九七九年一一月 第二回シンポジウム『沖縄経済の自立にむけて』(那覇)
 一九八〇年七月 パンフ『第二回シンポジウム報告』(鹿砦社)
 一九八一年六月 『沖縄経済自立の構想』(『新沖文』四八号/沖縄経済研究会―原田・安東・矢下)
 一九八一年一一月 『復帰一〇年―沖縄自立の構想を探る講演会、シンポジウム』(那覇)
 一九八二年五月 『沖縄自立への挑戦』(社会思想社)発行
 一九八二年九月 『特集 沖縄にこだわる―独立論の系譜』(『新沖文』五三号)
 一九八三年六月 『振り出しに戻った経済自立論』(原田/『新沖文』五六号『特集 自立経済を考える』)
 この経過に先立っては、「沖縄自決連帯委員会(準)」(沖自連)による七二年以降の現地闘争の蓄積と、七六年、七七年の二次にわたる沖縄社会大衆党への公開書簡などの活動があった。また八二年七月には、沖・日の知識人が結集して、「沖縄自立構想研究会」が設立された。(八四年七月までの活動は確認されるが、以後は自然消滅。)
 しかしここでは、原田・矢下の理論的介入をテキストとして扱うことにとどめる。理論は政治、組織的実践と不可分であるが、われわれはそれを行う立場にないこと、また政治組織的言及にともなう煩を省くためである。したがって傍線を引いたテキストが、まずはおもな検討の対象となる。ほかには、中村丈夫さん、比嘉良彦さんの報告、川満信一さんの発言などを必要に応じて参照することになる。

1−3 当時の時代背景

 手元に論文『沖縄自立経済のために』が掲載された『新沖縄文学』第三九号があるので、ここに掲載された記事や論文から当時の沖縄の状況の凡そをつかんでおこう。掲載稿では、全二八二頁の内八〇頁を占める、長詩『空間の戦争』(牧港篤三)が、眼をひくが、文学批評はパス。しかし現在の『情況』に劣らぬ大胆な編集である。当時の編集長は新川明さん。巻頭言にあたる「石鼓(いしちぢん)」では「反攻」というタイトルを付して「ナナサンマル」の終了が取り上げられている。いうまでもなく、それまでの交通ルールを、米国式から日本と同一の「人は右、車は左」の方式に変更したものである。「石鼓」子は、まず「沖縄にとって、『復帰』にともなう行政上の同一化が完了した」とする。そして状況への突き放した見方が、次のように示される。「かつて『復帰』を熱望した沖縄は、この事態を心から祝い、喜ばねばならぬ道理であるが、妙に白けるばかり」と評し、「最近の革新退潮のムードとも考え合せてみると、いよいよ沖縄問題における政治(主義)的な季節は、終わりを告げた感が一入である。戦後沖縄の主流的政治思想として絶大な力を発揮してきた『復帰』思想の、余りにも無残な末路を、『復帰』処理総仕上げのナナサンマルをめぐる状況に見ることもできよう。」加えて「『人は右』の標語に符合するように、有事立法問題をはじめ、日本全体が大きく『右』旋回を早めつつある」という批判が重ねられる。この状況への「反攻」の力は、「演劇における『人類館』、映画における『オキナワン・チルダイ=琉球の聖なるけだるさ』、音楽における海勢頭豊や喜納昌吉ほか、あるいは文学における阿嘉誠一郎や又吉栄喜」などの「皮相な政治の分野ではなく、文化領域における土着に根ざしたこれらの営み」にあるというのが、非常に短いこの文章の結論である。
 蛇足であろうが少し補っておく。七五年には「沖縄経済発展の起爆剤」といわれた「海洋博」が開かれた。しかし、その結果は惨憺たるもので、「復帰」過程における価格体系の変動、日本資本の進出の結果としての企業淘汰ともあいまって、「海洋博不況」といわれる企業倒産が相次いだ。さらに、オイルショックの教訓として計画されたCTS(石油備蓄)基地建設は、反対運動を押さえつけて金武湾埋め立てが強行されたにもかかわらず、当初想定された企業誘致、石化コンビナート・工業地帯建設には全く結びつかなかった。第一次振計においてうたわれた、製造業の発展によるバランスの取れた経済構造は全く実現されず、公共事業による建設業、サービス業の肥大化の傾向が既に現れ始めた。
 既に運動の目的を失っていた「復帰協」は七七年に解散した。政党、労組の「本土」系列化も進む。七八年一二月に行われた県知事選挙では、保守の立場で立候補した西銘順治が当選し、沖縄革新の衰退を象徴することになった。この時期に行われたNHKの世論調査は、「復帰」=「世替り」の混沌のなかで、七七年から数年内のいずれかの時点で、当初の「復帰」を非とする県民意識多数が、是とするものに逆転したことを示している。日本においては、「石鼓」が指摘するように、七八年福田自民党政権の下で、有事立法論議が公然と行われ、「日米防衛協力指針」が策定され、ガイドライン安保による、現在につながる日米軍事同盟強化の道が確定された。米軍への「思いやり予算」がスタートしたのもこの時期である。私たちの経験でいえば、七七・七八年の三里塚開港阻止決戦が今日にいたる最後の大衆的実力闘争として闘われた。しかし、当時の政治の状況を思い浮かべればきりがないので、この辺でやめておこう。
 こうした「退潮」「沈滞」と表現されがちな状況のなかで、沖縄知識人の一部にあっては、反復帰論から自立・独立論への初期的な結晶化が、「復帰」一〇年を直前にした、八一年の二つの「憲法私案」の作成(『新沖文』第四八号「特集 琉球共和国へのかけ橋」)として行われる。「自立経済論」の提起はこの文脈に位置づけられる。また、本稿作成の作業に着手してから、不敏にしてようやく気づいたのだが、後で触れる安良城・西里論争が、琉球・沖縄史における近代化、「旧慣温存期」評価をめぐって激しく闘わされるのもこの時期だったのである。

1−4 原田・矢下提起のおもな内容と論点
 おもな内容と論点は以下の通りであった。@沖縄経済の現状把握を「国内植民地」と規定する。Aこれまでの自立経済論(「革新」のそれを含む)の総括して、近代化・開発路線と規定しこれをトータルに批判し否定した。批判の対象とされたのは、松田賀孝(『開発と自治』)、牧野浩隆(『沖縄経済を考える』)、名護プラン(「逆格差論」)などであった。総じて「国内植民地」認識の欠如が指摘された。Bこれに替わる沖縄経済への分析視角として、(新)従属理論(南北問題解明のための、フランク、アミンの経済理論)の適用が試みられた。開発経済学ではなく、従属理論の適用による自立経済学であることが強調された。 経済自立の定義は「一定の社会的経済単位とくに民族集団が、自己発展力の主体と体系を内在させ、固有の経済発展の軌道をみいだし、それへの動態を開始している状態」とされた。
 経済自立の展望については、フランク、アミンの理論に沿って、ソ連、中国など既成社会主義国とは異なる「社会主義世界体系の有機的構成部分」を目指すものとされた。社会主義的自立と民族自決の展望については「民族解放社会主義革命」であり、主体は「社会主義的民族統一戦線」であり、「中心」国プロレタリアートとの分進合撃、国際主義的階級連帯であり、連邦制、連合による世界的結合原理などが提起された。
 上記内容については、翌年のシンポにおいて比嘉良彦が正面から扱っている(『沖縄自立経済論の問題点』)。@国内植民地、A南北問題、B自立経済、それぞれの概念が明確ではないとの指摘と内容的な批判的言及があった。これについては改めて少し詳しく紹介する。

1−5 原田・矢下提起の今日的評価
 やや結論めくが、我々の見るところでその意義は以下のとおり。@政治的自立・独立論の「従属論」による経済学的基礎付け。日本社会の政治思想にあって、我々の知る限り「従属理論」の実践的適用としては最も早いものであった。A日沖間の支配従属関係の経済学的解明。国内における南北問題、「植民地問題」としての指摘は、当時の新旧左翼の沖縄闘争論の水準を一頭地抜きん出るものであった。この観点から、人民闘争の主体のありようを、住民、農漁民、失業者・都市貧民などに振り向ける視角が可能になった。さらに工・農関係への分析視点、島嶼経済論の紹介が先駆的に行われた。B地域格差の歴史的背景を世界的スケールの導入によって解き明かす視点の提起。ここから国際主義的展望と国内植民地論の視点が可能となった。(「国内植民地論」に関する山崎カヲルさんの視点は後で紹介する。)C民族・人民的抵抗共同体の展望、土着、地域主義に立脚する、共同体社会主義の視点が提起された。
 しかし他方でその問題点は、まず@「軍事植民地」視点の欠如に特徴的に示されていた。これも後で示す比嘉良彦さんの指摘を待つまでもなく、なぜか?という素朴な疑問の湧くところである。沖縄における米軍基地の偏在を、提起者たちが知らなかったはずはない。この疑問について、この論稿作成作業における提起者に近しい友人との討論によって、凡その理解を得ることができた。国内平等論を前提とする沖縄差別の論点に立つのではなく、徹底した沖・日間関係の経済学的解明から、一元的にその支配・従属関係を示すべきとの問題意識に発するものであったようだ。なぜなら、「復帰」は「異民族支配」からの解放としての、ありうべき民族統一ではなく、日本帝国主義による沖縄の再併合であったからである。また、軍事支配については、「復帰」直前、自衛隊沖縄移駐に対して、七一年に行われた、沖縄出身者を含む反軍五兵士の闘いが、裁判闘争として持続していたことによって、十二分に闘いうるとの判断もあったもののようだ。

反軍五兵士決起の意義については『中村丈夫氏軍事論集 クラウゼヴィッツの洞察』(〇六年・彩流社)「第四章 戦争、軍事に関わる法理と人権」参照。この裁判闘争を弁護士の立場で支えたのが、先ごろ亡くなった若き日の新見隆さんであった。

 それにしても「軍事基地と観光の島」として固定化されてきたこの三五年の経過を振り返って、沖・日間関係の経済学的解明は、近代史を総括する歴史論的研究と合い携えて行われる必要があったのではないか。後で触れる遠山・梶村理論はそのための一つの材料である。
 また今日からすれば、A従属理論の破綻は隠しようのない事実である。その理論的総括が問題になる。従属理論による南北格差への告発は、世界システム論、生産様式節合論などの理論の継承を生み出した。後述の「機械制大工業論」(冨岡倍雄)もまたその一つと、我々には見える。その沖縄社会への適用が検証されなければならない。更に大きくいえば、B八九〜九一年の既成・国家社会主義の崩壊の歴史的事実に踏まえた、社会主義的展望の更新、共産主義運動論の展開に補強されなければならない。

共産主義運動論については、本稿では詳述しない。『ドイツ・イデオロギー』における「現状止揚の現実的運動」、ガタリ/ネグリの「個人的かつ集団的な特異/固有性を解放する試み」という立場からの理解を徹底するとだけ、述べておく。

2 比嘉良彦さんの指摘

 七八年の「原田・矢下提起」に対する直接の沖縄側からの回答は、翌年のシンポで、比嘉義彦さんによって行われた。『沖縄自立経済論の問題点―第1回シンポジウムをふりかえって―』(比嘉良彦/『沖縄経済自立の展望―‘79第2回シンポジウム報告―』比嘉良彦・原田誠司編著・所収/鹿砦社/1980年7月)がそれである。
 以下、上記、比嘉さんの指摘から問題をつかまえることとする。

2−1 比嘉さんの指摘と問題の所在

 まず、「沖縄問題」と「基地経済」とをとらえるフレームが次のように示される。
 「『沖縄問題』を論ずる場合、『反戦平和の問題』として『基地問題』を語ることは多いが、『経済問題』としての『基地問題』は『軍用地料の問題』として、あるいは『軍雇用員の解雇問題』として、つまり、基地需要(基地収入)の問題や雇用失業の問題として取り上げられるだけで、『軍事基地』総体、あるいはその『軍事基地』を提供し、『共同管理』を行っている日本政府の意志そのものが『沖縄経済』とどう結びついているかというような視点から論じられるということは、これまで少なかったように思われる。
 私は、『沖縄問題』として『経済』と『基地』の問題を考える場合には、基地経済の県経済に占めるウエイトの増減といった見せかけの基地経済としてではなく、また、基地の存在が産業構造・都市形成に及ぼす影響といった開発に対する直接の疎外要因としてでもなく、もっと深い意味を持った、日本政府にとって『沖縄の存在価値』とは何かといったところにまず焦点をあてる必要があるのではないかと思われる。
 したがって、私は『沖縄自立経済論』が持つ真の意味は『沖縄の存在価値』を『軍事戦略上の価値』としか認めない日本政府の意思そのものから沖縄を解き放つ『沖縄自立論』に強く結びつかざるをえないところに極めて重要な意味があると思う。(4 「国内植民地」概念と沖縄経済)」
 次に「復帰」以後の経済政策の評価が行われる。
 「復帰後八年の諸施策を検討してみるならば、直接的な軍事関係費の増加はもとより、一見非軍事的な財政支出もすべて沖縄の『軍事戦略的価値』を維持するための必要経費として支出されていることがわかる。文字通り、『沖縄は基地として日本国家に買いとられた』のである。
 前記の視点でみるならば、…一次・二次産業中心の平和産業による自立経済への道(県民の求める道)と軍事基地沖縄の道(政府の意図する道)とは、両立するものではない。」(5 「振興開発計画」と「自立経済」)
 こうした現状認識に踏まえて次のように結論する。
 「沖縄県民は復帰路線をさらに推進して、地域分権や参加論と結合した地域間分業論を受け入れて、本土と完全に一体化する道を歩むか、あるいは逆に、『自立経済論』をトコトン追求して自立への道を歩むか…。」ここでは、自立経済論が、「独立か帰属か」という選択、両立の余地のない政治的切断線によって分かたれるという厳しい判断が示されている。
 そこで屈折の多い比嘉さんの論述を結論に絞って単純化すれば以下のようになる。自立経済を考えることは、日本帰属を選択した五一年の群島議会での討議と決議の事実に照らせば、@反復帰・思想的自立論から自立・独立の道か、A対日従属、補完・手直し論になる。国内植民地という規定だけではなく、軍事植民地であるとの認識が、この選択を検討する際に不可欠である。

2−2

 反復帰・思想的自立論から政治的な意味での自立・独立論にいたる道は、論者それぞれによって一様ではない。それは論者の立場の微妙な相違と、そして自立・独立の政治選択の重さによるものだと考えられる。
 比嘉さんが紹介している新川明さんの「経済自立論や地方分権論を考えるに際して要求される長い射程の発想のバネとして…“独立論"にかかわる議論はもっと深められて良いと思う」という慎重な言い回しもこの事情を伝えているものと受け止められる。
 また川満信一さんは『沖縄祖国復帰の意味』という論文(『沖縄・根からの問い』七八年・泰流社刊)で、(戦後の)「独立論がもっとも現実味をもって論議されたのは、沖縄の戦後体制がその基礎をととのえようとする一九五〇年前後である」(p29)として、やはり群島議会での独立・帰属論争の紹介している。そしてそこからさらに当時の復帰運動を痛撃して「もし復帰するところがあるなら、沈黙に閉ざされた怨恨の領土以外にはない」(p41)とする。さらにそうした復帰運動を克服するためには「沖縄の近世にさかのぼって、苛烈な国家的収奪のもとに地獄を生きた底辺の民衆の語られないままになっている告発と呪詛の声を掘り起こし、さらに島的共同社会のなかで、人人が求めた《共働・共生》の思想を論理化して、資本主義に対するたたかいの拠点としての思想的基盤が必要とされている」(p48)という。
 そして、この思想的探求はさらに突き詰められる。「もしも、私たちが個々の、根源的な自由性へ志向する情念や、想像力の解放を追求するならば、必然的に永久革命者の位相をとるしかない。というのはこの根源的な自由性とは、この存在の無化、あるいは死滅においてしかあり得ないからである。」(『共同体論』/同上書p267)自立・独立の政治選択が、こうした思想的根源性に担保されなければならないとする川満さんの思いを確認しておきたい。

2−3

 こうしたことから七八年シンポにおける、川満さんの「なぜ自立経済論か?」という問い(七八パンフp49)の重要な意味が浮かび上がる。自立・独立論の政治選択の重さを重々承知したうえで、なぜ人は自立経済論を語りたがるのか。
 これへの遠い応答を、『振出しに戻った経済自立論』(『新沖縄文学』五六号p95原田論文「『ローカル産業複合型』発展を担いうるとしたら、沖縄の各地で勃興している『シマおこし』運動以外にないのではないか」)であると受け止めるのは、原田さんにたいして礼を欠くことになるかもしれないが、一連の論議の流れを集約する、原田論文のポジションからは、そのように見えてくる。「自立経済」の主体にかかわる記述だからである。とするならば、同じ号に掲載された、嘉数啓論文『沖縄経済自立への道』へのコメントという論議のフレームからして、原田さんにしてみればこうした物言いは全く本意ではなかろうが、随分と腰の引けた見解であるといわざるを得ない。本来否定的に評価したはずの「地域経済論」にシフトすることになってしまうからだ。沖縄人民の反日・反帝闘争の現実的基礎こそが問われなければならなかったはずだ。


3 牧野浩隆『再考 沖縄経済』

 ぐっと時代は下るが、自立経済論の政治選択(帰属か独立か)による、切断という構図は、牧野のこの著作にも類似したものが見受けられる。
 『再考 沖縄経済』(九六年・沖縄タイムス社刊)は、大田県政における、『基地返還アクションプログラム』『国際経済都市形成構想』(九六年)への直接的な批判である。
 その根本には、政治的、倫理的な立場からする基地撤去論への批判がある。アプリオリな基地撤去論(これは当然ながら独立の政治選択を暗黙に前提としていると見なされる)に対して、「現実的な沖縄経済の課題」が対置され、それは人材育成と産業技術であるとされる(同上書p57)。これは具体的には、稲嶺県政の下で進められてきた大学院大学構想と、IT産業誘致の政策に一致する。
 牧野は自らの経済構想が、九〇年を前後して転換したという。それまでの構想は、経済的保護・援助の政治的措置による産業育成であり、近代的経済主体(企業、産業における近代的合理的経済人)の形成であった。(『沖縄経済を考える』七八年・新報出版印刷刊)
 九〇年以降は、資本・金融の自由化により、「全国総合開発計画」に象徴される一国的な経済開発計画が失効し、国際的な金融と産業の移動が確保され、国境による産業立地の制約が解体されたという。国独資から情報金融独占への資本主義の段階論的移行であり、いわばポストモダンの経済状況の現出である。
 その結果、沖縄の「地域開発政策の特質は、@地域内発型の産業振興、A研究開発機能、人材育成を中心とした産業振興、B地域における新規産業の振興―を主体としなければならない」(p281)とされる。
 さらにその前提には、「返還軍用地を活用した国際都市の形成によって産業振興を図るという図式に固執するならば、軍用地返還まで産業振興策展開困難であることを示唆する」(p219)という基地経済と経済自立との「解きがたい」二律背反の認識図式がある。
 確かに大田県政における自立経済建設のプランは、「基地撤去」のifを前提とした思考実験であり、いわば他愛の無い夢想のようなものであった。だが、これに対する牧野の批判も、現実主義を標榜しながら、巨大な軍事基地群の存在を所与の前提として、そのうえで可能な経済発展の展望を構想するものであった。現実承認のかぎりでそれは「現実主義」的に見えるかもしれないが、事実上それは、「基地経済」、またそれに関連する「対価」としての財政依存経済の存在を不問に付すことになる。東アジア最大級の密集した軍事基地、それに伴う基地経済と抱き合わせの先端技術開発・知識集約産業集積の虚構性は、住民の目にはあきらかではないか。またその現実を承知して立地する企業がどれほどあるのか。この自覚を欠くとすればこれもまた政治的退廃の一つに数えるしかない。これが人々の経済活動における前向きな意欲を鼓舞するわけがないのである。理念的倫理的に批判するわけではないが、少なくともここでは牧野の批判が、沖縄社会で繰り返し自立・独立論が生成することの理由と意味を見通すことはできないことを指摘しておく。つまり、牧野の立論は、不断にその政治的前提を掘り崩すのである。それゆえ、大田のプランと牧野の批判はメダルの裏表の関係にあると考えられる。
 ともあれ、牧野の政策的視点は、稲嶺県政のなかで、それなりに現実化してきた。これは三振計〜新振計の展望と一体となったものである。新振計、県振計のいう地域的特性を生かした開発(この政策観点は、二振計以降明確化されてきた)がそれである。日本国家と、日米軍事同盟の枠組みのなかで地域特性を生かすという、モダン〜ポストモダンの差異化を介した連続性が読みとれる(国民国家の内部における主体の同質性を担保にしてその差異を消費する構造)。観光・リゾート開発と、基地・財政依存との併存が示す、グロテスクな現実は、その矛盾の端的な現れである。
 ここでも独立か帰属かという政治的切断の問題構成が存在していることを、繰り返し指摘しておきたい。


4 従属論の再審―問題の所在

 ここで扱うのは、以下の二つの文献である。
 梶村・冨岡『発展途上経済の研究』(世界書院/八一年)所収『東アジア地域における帝国主義体制への移行』(梶村)―a
 冨岡『機械制工業経済の誕生と世界化』(お茶の水書房/九七年)―b
 
 これらの著作は、必ずしも従属理論への評価をテーマとしたものではない。直接には、「南北問題」の理論的解明を主題として、梶村さんは、「東アジア比較近代史」を論じ、富岡さんは「世界資本主義」の歴史的発展を説く。しかし、ここから、梶村さん、冨岡さんそれぞれの従属論総括を汲み取ることができる。問題の出発点には次のような従属理論への批判の観点がある。「途上国経済を解明する理論的トゥールとしてあるのは、『低開発の発展』と『中枢と周辺』というふたつの概念のみであり、すべての現象はこれによって説明される。」
 「南北問題が全世界的な経済構造の問題である、という認識の仕方はただしかったが、その肝心の全世界的な経済制度の構造そのものの論理的な解明は放棄されて、もしくは失敗して、いるのである。」(a/はしがき)
 「従属理論」の総括はそれ自体として大きな理論的テーマであるが、問題の概略をつかむために、原田さんたちとともに「自立経済論」を提唱された、中村丈夫さんの総括視点を一瞥しておきたい。沖縄経済の「従属論的」把握が、自立経済論の骨格をなしている以上これは避けられない。中村さんは、かつて我々の学習会で「新従属理論か生産様式論か」という対立図式を示して次のように述べた(『風をよむ』紙第3号)。「新従属論も…七〇年代後半―八〇年代前半には諸種の批判の的となり、特に第三世界での生産様式の内発的変動の規定力を重視する立場の再生的台頭に直面することになる。それは一口に言って、帝国主義中心部からの世界的規模・尺度でのシステム的拘束―たとえば本源的蓄積と本来的蓄積との不可分の合成―という一方的・外生的な―流通主義的たらざるをえない―固定的モデルに執着したためとみられる」と理論的には総括される。同時に実践的にも、フランクにおけるラテン・アメリカ人民戦争の、アミンにおける中国文化大革命の挫折が対応する。他方では、NIESの出現が、理論的実証性を問い直すことになる。対する「生産様式論」については次のように概括される。「周辺資本主義の成立は基本的に、従属地域での社会諸階級の編成のあり方によって左右されると主張する。…C.メイヤスーの帝国主義的低賃金の基盤としての家族制共同体論、P.P.レイの異種生産様式節合論などによって準備され…第三世界の個別的・具体的分析を精密化しつつある.それは…異なった生産関係の共存メカニズムを追求して、第三世界内階級闘争の諸条件を明らかにしようとしているとみられる。」しかし、この両者の「統一」はきわめて難しいとされる。「なぜなら…(この両者の方法的対抗は)マルクス主義の場合世界革命路線上の選択に発している」からである。民族問題に関する、レーニンとルクセンブルグとの対立、コミンテルンにおける「民族・植民地問題」をめぐる論争がここから想起されなければならないという。また〈新従属論対生産様式論〉シェーマの弱点として「経済主義的」狭さ、「第三世界国家論のほぼ欠落」が指摘されていることにも留意しておきたい。いずれにせよ総括的結論は、別の論文で「第三世界の闘争の現実に、粘り強く学びなおすほか、高度にしてリアルな理論への道はない」(『曙光』一九九号)とされている。
 中村さんの総括からは、問題の構図はおおよそつかむことはできるが、しかし結論はやはり「振出しに戻った」ということになろうか。
 そこで、梶村さん、冨岡さんの著作を参照することにする。残念ながらお二人とももはや故人となってしまった。ご健在であれば、あれこれと質問もすることができたであろうが、今は残されたテキストとの対話をするほかない。これらのテキストのメリットは、従属理論の問題意識を共有しながら、それぞれの歴史論的な観点を持ってその限界の突破のためのアプローチを試みているところにある。

5 従属論の再審@―沖縄社会の近代史に即して―『東アジア地域における帝国主義体制への移行』

5−1
 梶村論文の主題は、世界資本主義の中での後進資本主義発展のプロセスを、東アジア三国(日本、朝鮮、中国)の歴史的比較(p67〜)から検証することにある。その際に以下のような発展のモデル図式が挿入される。
〈後進資本主義発展の時系列的モメント〉
 時点@:すでに存在している資本主義世界との接触(開国)。
 時点A:国内では在来の商品生産の生産力発展の加速と改編が進行する一方、権力の側に外圧に対応する準備が十分でない事情のもとで、例えば貴金属流出等、国民経済形成に不利な現象が急展開し、こうした「民族的危機」のなかで、とりわけ政治変革過程が加速され、比較的短期間内に決定的な政治変革(が行われる)。
 時点B:A以後に形成された政権は、世界史的条件に規定されつつ、幼弱な国内産業を最大限保護・育成して後進資本主義的発展に道を開こうとする。そうした営為が軌道に乗る。
 後進資本主義発展の成否にとって決定的な条件となる外圧とは、具体的には、決定的政治変革の時点に加えられる政治軍事的外圧の強度にほかならない。
 この図式の具体的な適用は以下のとおりである。
〈東アジア三国への適用〉
 中国:@南京条約(1842年)/開国。
     A洋務派政権(1861年)―太平天国。
 日本:@日米和親条約(1854年)
     A明治維新(1868年)〜尊攘派
 朝鮮:@江華条約(1876年)
     A甲申政変/急進開化派(1884年)〜甲午農民戦争(1894年)
 また以下のような発展の基礎条件が示され、上記三国においては、この点での有意の差はなかったとされている。
〈内発的発展の必要条件〉
 @いかに部分的であれ何らかの内発的商品経済の経験を蓄積している社会であること
 A国家ないし準民族的な結合が存在していること
 結論的には、東アジア三国の近代史における、帝国主義国、植民地国、半植民地・従属国というそれぞれへの歴史的岐路は、「発展の時系列的モメント」のうち、決定的な政治変革の行われる時点Aでの外圧の強度によるとされる。
 しかし、上記の要約から、直ちに、では沖縄は?という疑問が沸きおこる。梶村さんの東アジア三国の比較近代史にして、なぜ沖縄が含まれないのか?嘆息のでるような大きな疑問であるが、少なくとも、八〇年代までの日本歴史学には、琉球・沖縄史は一般に視野の外にあったのであろうという厳然とした事態が浮かび上がる。現在、学会においてこれがどのように扱われているかはわからない。網野善彦の『日本社会の歴史』(九七年・岩波新書)では、沖縄史はアイヌ・東国史とともに確かに方法的な一貫性をもって扱われているが、大学教授のなかで、あまねくこの認識が共有化されるにはいたっていないように思われる。


遠山茂樹は、七一年の時点でわずかにこの問題に触れている。(『遠山茂樹著作集』第四巻『日本近代史における沖縄の位置』岩波書店)


 乏しい知識で推論すれば、琉球・沖縄は、上記中・朝と、壊滅的な収奪、破壊的攻撃を受けた先住民族(アイヌの場合はこれに相当するように思われる)の事例との中間に位置するものと考えられる。では近代における琉球・沖縄の社会は社会構成体としてどのように評価され、その歴史はどう考えられなければならないか?

5−2

 だが、この設問それ自体が、自明のものではない。すなわち「島津の琉球征服という、『琉球王国』の日本社会への政治的包摂は、実質的な経済的包摂を徳川期に必然化し、これを基盤に、『琉球処分』は琉球の全面的な日本国家・社会への政治的・文化的包摂を上から他律的=強圧的に完了したのである。二段階的包摂とみなす所以である。」(安良城盛昭
 八九年・吉川弘文館『天皇・天皇制・百姓・沖縄』p209)とする見解が依然として一定の影響力をもって存在しているからである。この見解にしたがえば、近代以降の琉球・沖縄を日本国家とことさら区別して、固有の社会構成体として分析しなければならない理由は無くなる。
 安良城その人はすでに物故しているが、その系譜に連なると見られる高良倉吉はたとえば次のように述べている。「琉球王国は、全体としては幕藩制国家の体制的規定下におかれるようになり、その直接的な管理責任者として薩摩が介在していた」(九三年・岩波新書『琉球王国』p73)。「沖縄は、日本の国家体制とは別枠で自前の『王国』を生み出し、その『王国』が時間をかけながら日本社会の一員として編成されるという歴史過程をたどった。したがって、沖縄の前近代史の目標は、この『王国』の形成過程や内容、あるいは変容を解明することであり、近代史の目標は『王国』がどのように崩壊し、『王国』をもった地域がどう日本社会の中に編成されたかを究明することである。」(『同上』p33)沖縄の「異国性」把握にこめられたニュアンスは感得されるものの、基本的には、安良城の学説のパラフレーズである。「沖縄イニシアティブ」をめぐる同化主義的発言の理論的思想的背景がここにある。


渡辺浩によれば「幕府」「朝廷」「天皇」「藩」という、日本封建社会を論ずるための基本的用語の使用には問題があるという。徳川体制そのものの理解にもかかわる指摘と読んだ。(『東アジアの王権と思想』九七年・東大出版会)


 他方、安良城の激しい批判を受け、この論争を受けて立ったのは西里喜行であった。西里の論旨の大宗は以下のようなものである。「日清『両属』下の二七〇年間に琉球経済が日本経済に従属的に『包摂』され、『日本』と『琉球』の経済的『一体化』が進行したにもかかわらず、廃琉置県を契機として琉球民族の内部から自主的・主体的に『日本民族への転化』を促進する動きは表面化せず、むしろ逆に強烈な琉球意識をベースにした救国運動が展開されたことを、どのように理解すべきであろうか。いわゆる『琉球民族体の日本民族への転化』が『完了』したといえるのかどうかが当面の問題である。」「廃琉置県すなわち琉球王国の滅亡には二つの側面がある。第一には『日本』と『琉球』の『統合』を促進し、両者の『一体化』の客観的基礎を強化する契機となったこと、第二に琉球の民意を配慮しない強権的措置が採られたことによって、『日本』と『琉球』の双方に歴史的に存在してきた自他意識を定着させたこと」。(「琉球=沖縄史における『民族』の問題」/九六年・榕樹社『新しい琉球史像』所収p194・195)
 まずは、この安良城・西里論争から一定の整理をつけておかなければならない。論争の意味を少し敷衍すれば上記紹介のとおりであるが、係争点は、実は極めて具体的である。つまるところ、琉球処分前後から、一八八〇年代にかけての日清両国による琉球併合、分割策動に対する、「脱清人」=清に亡命した琉球士族などによる「救国」運動についての歴史的、階級的評価いかんである。安良城は言う。「冗談ではない。明治政府が認めている現在の『非常特別の優待』=『寄生的な特権』が一時的なものであって、遅かれ早かれ壊滅することを『脱清士族』は知っていたが故にこそ、彼らの『寄生的な特権』を永続的に保障する『琉球王国』の恢復を願う階級的運動に駆り立てた」。(『前掲』p221)旧慣温存期の旧支配階級の一部による行動を「救国運動」と形容すること自体が、逆鱗に触れたことを察せられて余りある。薩摩侵入以降の、琉球と日本との経済的一体化(これとは別に、新里恵二との対談では、「琉球王国における特定の階級関係を現実に支えた武力装置」を薩摩が握っていたことがその理由とされている)からして、直ちに民族的差異を無視してよいとするスターリン主義的な極め付けが、近代化論と寸分違わない実質を示す好例である。安良城没後の西里による「論点がかみ合っていない」という述懐も肯ける。

5−3

 しかし問題は、西里も前掲の論文冒頭で藤間生大の「二段階民族統一説」に触れて「民族体と民族の関係をより柔軟に捉えることはできないであろうか」と言うように、民族問題の理解にかかっている。マルクス主義にあっては、依然としてこれは未決の問題である。とはいえ安良城―西里論争の背景には、琉球・沖縄民族の存在を否定するのか肯定するのかという、対蹠的な立場があったと理解するほかない。したがって「民族概念の定義はさておき」として議論を進めるわけには行かないのである。
 周知のように民族概念にはスターリンによる悪名高い定式がある。「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である」(『マルクス主義と民族問題』)という特徴列挙式の定義であり、また次のように整理される発展段階論的定義である。「社会的共同体は、種族共同体から民族体(ナロードノスチ)、民族体から民族(ナーツィヤ)へと発展してきた。一つの共同体から他の共同体への移行は、大体において、生産様式の発展に照応した。すなわち民族体は原始共産制から奴隷制ないしは封建制、すなわち、前資本主義的生産様式への移行の過程で形成され、民族は奴隷制ないし封建制から資本主義ないし社会主義への移行の過程で形成される。」(寺本光朗『アジア・アフリカ講座』第三巻―湯浅赳男『天皇制の比較史的研究』より重引)
 「日琉同祖論」が支配的なメンタリティとして存在し、加えるに安良城流の「経済的一体化」の実証を行ったとすれば、スターリン的民族概念の定義では、西里のいう民族の自他意識などが入り込む余地が無い。まして旧支配階級による「救国運動」などはもってのほかであろう。しかし、この点に限っていえば、すでに紹介した、梶村さんの「東アジアにおける帝国主義体制への移行」の論点の一つから、次のような歴史認識が得られる。「往々にして、『民族的危機意識』に駆られた旧社会の中間層ないし支配層内反対派から変革主体が析出する」(a/p65)。「上からの変革主体として同列視しうる洋務派、尊攘派、開化派」(a/p72)。そして、これに続く人民闘争は、太平天国、甲午農民軍、そしてわが国の自由民権運動も含めて、「上からの」変革の時期から、若干のタイムラグをおいて登場するのが通例であった。したがって、旧支配階級の運動の意味が、その階級的利害の貫徹にのみ限定されるというのは歴史的にみて、必ずしも妥当ではない。
 それにしても問題は、民族概念である。これについて中村丈夫さんは八一年の「自立構想シンポジウム」で次のように述べた。「民族問題は、もはや民族概念の定義から出発して論じうるような静態的なものではなくなっている」。「古来から存続しているものが時に応じて姿を現すのではなく、その都度の社会的あるいは権力的な関係の変動のなかで、民族問題も民族も再構成される」。「たとえば、資本主義的生産関係の拡大、資本主義の空間構造の再編成のなかで、過疎化、格差拡大などからアイデンティティーが問われ、自覚されてくる。」/「(スターリンの民族定義)は俗流社会学の見本のような静態的、形式的なものでした。」「世界構造の変動から、または世界変革の主体形成から生きた民族問題を考えようとすれば…民族の定義などは一度思いきって政治的にくくって、『世界的にはプロレタリア的な地位におかれ、反資本主義的な抵抗や自立を志向する、非階級的ないし趙階級的な社会集団』とでもさしあたり考えておけばよいのではないか、とさえ考えています。」「要は、世界的な反動とたたかうために、旧い共同体が新しい利害や意識の連帯をつうじて抵抗共同体に転生し、再建されることです。それにもとづく民族概念の拡張はまた、生産手段の非私有化とか経済の計画化とかといった手段の目的化の逆立ちではなく、労働の主体的な自己決定にもとづく新しい人間共同体、真の人間的自由を中心とする社会主義概念の変革と結びつく、と考えているわけです。」近代世界における民族の実在性と虚構性とを踏まえ、さらに次の歴史的ステージにあって、人民的共同性のあり方を考える基礎となる指摘である。
 上記の問題構制から、琉球王国時代の社会構成体規定、地割制度と貢納・王権の政治性格、その発展の度合い、原始的蓄積のあり方、中日両属体制の政治的規定、支配従属関係、収奪体制などなどの歴史学的解明の課題が導かれる。これらは、入門書を少しばかりかじっただけでは、とても手におえるものではないが、こうした設問が、挙げて近代以降、今日にいたる琉球・沖縄社会における支配・被支配関係の政治・経済的、また歴史的解明、人民闘争・階級闘争の主体形成の条件を知るためのものであることを常に念頭において問題を絞り込もう。
 たとえば、一七・八世紀の農民の生活について『高等学校 琉球・沖縄史』(第三刷/九五年/新城俊昭―以下『教科書』と略記)では次のように解説されている。「王府の経済は農民の収める貢租や労役を経済基盤としていたので、農民に厳しい統制を加えた。農民の負担はほぼ五公五民で収穫の半分は耕作者の収入となったが、実際にはさまざまな名目で税がかけられていたため七公三民となり最低限の生活を維持するのが精一杯であった。特に一七世紀以降、薩摩への貢租が新たに加わり、内外の交渉関係費なども増加してくると農村への統制はますます強くなっていった。」「こうして疲弊した農村はますます窮乏し、一七世紀半ば以降には身売りする農民があとをたたなかった。」「身売りとは、上納のために借り入れた米や銭を返済できなくなった農民が貸主のもとで相当年限、下男・下女として従事することである。これによって家庭が崩壊することを家内(チネー)倒れといい、これと連動して上納の責任単位である与(くみ)が解体する与倒れの現象もおこった。」(p112)
 一八世紀から一九世紀にかけては世界的に天変地異が続き、それに伴う凶作が、農村の窮乏化を促したことも記述されている。しかし、同書の別の箇所では、先島における人頭税に触れて「人頭税は時代によってやや税率が異なるが、平均してみると六公四民ないし七公三民で、沖縄本島あるいは本土の他地域とほぼ同じ税率になる。」(p119 誤解のないように引用を添えれば、人頭税の過酷さが通説されるのは「生産性が低いうえ、地方税にあたる所遣(ところづかい)米が他地域よりも高かったこと、そして何よりも地元役人の搾取が厳しかったからではないか」とされている。またp118に先島における一人当たりの平均貢租負担が示されている。)先島、沖縄本島、ヤマトの税率を比較するだけでは、生産物や貢租の絶対量と必要生活資料の比較ができない。琉球・沖縄社会の窮乏が、しばしば数千人単位の餓死者を出し、また数千から一万人超に及ぶ疫病による死者を出したことを確認しておこう。
 一七四九年には人口二〇万人、一八七九年には人口は三一万人余とされている(『教科書』p114)。一九世紀末の一般農民層の人口は県内人口の八割以上であったという(『沖縄県の歴史』p251)。「琉球処分」期の有禄士族は三百六十人余、「無禄士族の数は、全士族のおよそ九五%にあたり、その数は数千人」(『教科書』p177/178)とある。また、『県の歴史』では「琉球士族層の九割を占める約七千戸(三万余人)の無禄士族層」(p247)とあるから、全人口三一万人として、その一割強・三〜四万人が士族層であり、八割強・二五万人程度が農民であったと考えられる。残りの一〜二万人が四民制度で言うところの工・商身分にあたると考えられるが、琉球王国の身分制度において、それに相当する身分の規定についての記述が見当たらない。
 『教科書』では次のように記述されている。「琉球の身分制度は尚真王の時代に形づくられ、島津侵入のころには大名・士・百姓の三身分に分けられていた。それが一六八九年、系図座の設置によって系持(士族)と無系(百姓)の区別が明らかになり、近世琉球の身分制度が確立した。」(p104)支配階級の身分、役職については複雑にすぎて到底すぐには理解できそうも無いので省く。「役職のない士も多く、王府の奨励で絵画・細工物・調理・船頭などそれぞれの技術を生かした職業についたり、地方で山地を開墾して屋取と呼ばれる集落を形成して農業に従事するものも少なくなかった。」「百姓はいわゆる平民身分で、商工業に従事した町百姓と地方に住む田舎百姓とがあり、貢租負担の義務があった。」(p104/105)これによれば、職人と商人は、下層士族および百姓の両身分から供給されたことになる。
 商品作物生産は、一六四七年に、砂糖とウコンが専売制とされて以来、王府の直接の管理下に置かれた。そしてこれらの産品は大坂市場でさばかれ、売上銀の一部は、進貢貿易の資本銀となった。これは「琉球―薩摩―大坂を結ぶ形で、砂糖と銀を中心とする物流経済が確立され」、「琉球は砂糖を媒介として幕藩制市場に構造的にリンクされた」(『県の歴史』〇四年・山川出版社p192)と評価されている。また貨幣経済については、「民間の海運・商取引を通じて入った寛永通宝が、首里や那覇を中心に流通した。」「清朝の制銭は流通しなかった一方で、このように寛永銭や鳩目銭が、流通したことは日本経済との結びつきの深さを示している」(『同上』p199)とされている。
 しかし、こうした歴史記述をわずかに通読した範囲での素朴な観察として、近世近代における土着の豪商、豪農といわれる階層、社会集団の存在が全く見当たらないことに気づく。*本源的蓄積に結びつくはずの余剰生産物は、王府の強収奪によってことごとく国家財政に吸い上げられ、さらにそれは、王府にとどまることなく、薩摩藩への貢納、進貢貿易・「江戸立ち」の日・清両属外交によって蕩尽されてしまったのである。近代以降の琉球・沖縄社会における人民闘争・階級闘争のあり方にとって、こうした経済状況は深い影響を及ぼしているように思われる。「琉球処分」時点でのこれに対する抵抗が、歴史的反動としての旧士族の一部にしか浸透しなかったこと。奄美の薩摩支配による過酷な収奪によって「奄美の農村は極端に貧富の差がひろがり、現代にまでその影響を残している」(『教科書』p115)という指摘は、奄美にとどまらず、沖縄全体に及ぶものであると考えておくべきであろう。


新里恵二は薩摩侵入以前の琉球王国を『古代専制国家』とし、薩摩侵入以後「封建制への傾斜を深めた」という見解を述べている。(『沖縄史を考える』七〇年・勁草書房)学問的な評価についてはわからないが理解のえやすい見解だと思う。

5−4

 歴史的には、琉球/沖縄社会は、社会構成体としては、地域・血縁で結びついた独特の部族的共同体が社会的生産の基礎を担う単位として成立したところからスタートしたものと考えられる。「沖縄における家政は、地域政治や国政の一部であり、家政の継承が優先的に考慮されるべきことが容認されていた。」(浜下武志『沖縄入門』〇〇年・ちくま新書p182/183)ここから、女性が祭祀にかかわる活動を担うことによって、当初共同体の支柱となっていたであろうことは推測される。しかしこれは、のちには「父系血縁による帰属原理を貫く」門中制度(同上p183)に組みかえられる。この転換は、この時期に続く軍事的征服支配集団の登場と相即するものであろう。そうした共同体の一つの軍事的指導者が王権を確立し、王族と戦士集団によって征服と支配を行った(三山時代)。琉球における固有の華夷秩序を奄美、先島に拡大するまでこの体制は続いた(第二尚氏・尚真まで)。この王権、固有の権力の原型は「ヒキ」によって示されている。上掲の『沖縄入門』では高良倉吉の研究を簡略にして次のように述べられている。「ヒキは軍事的・交易体制的・行政的性格を有する古琉球独自の組織編成であったことが推定できる。」(p184)であれば、その軍事・交易・行政の役割は条件に応じて転換が可能であったということになる。
 明の冊封体制に服属して以降、琉球社会の生産力を基礎に、東アジアの海域における卓越した経済力と軍事力をともに再生産しつづけることの不可能性ゆえに、軍事的征服行動を交易活動にふりかえる「ヒキ」の役割の転換を行うことによって、琉球王国の基礎が形成された。したがって「非武の思想」があったのではなく、それは、交易と両立させて、中朝日が葛藤する東アジア世界に卓越した軍事力を維持することを早期に断念したことの結果と考えられる。琉球王国にあって、王府の人民支配は文官支配の傾向を強めたが、しかしそれは日中からの不断の圧力を背後にしていたがゆえに容赦のない収奪を行った。対外的には弱いが国内的には農民への共同体的拘束を統括する貢納制の強い王権である。同時にその国内における強い王権は、祭祀支配を行う神女組織を統合することによって補完され、琉球社会全般にわたる家族制の強い影響力によって大きく纏め上げられていたとも考えられる。ここから琉球社会における支配と従属の中・朝・日いずれとも異なる独特の特徴が形づくられた。(古琉球の時代まで)。琉球・沖縄社会と人民は、中国、日本、そして琉球王国自身の華夷秩序による三重の国際的=国家外交圧力の鉄環に締め上げられた事実に変わりはない。しかも、にもかかわらず、王国版図周辺部での反乱(千五百年・八重山のオヤケアカハチの乱、一五二二年・与那国の鬼虎の乱)を除けば、大きな抵抗闘争も生じなかったという、支配の特異性がもたらされた。
 こうした支配のあり方を指して、川満信一さんは次のように述べる。「琉球王府制は、最下層のミクロ共同体を、閉鎖的なシマ宇宙として存在させ、ただ貢物(税)だけを取れば、あとは余程のことでない限り干渉せず、というアジア的な制度の特徴を備えていたのではないか」。(『沖縄・自立と共生の思想』八七年・海風社p100『独立論の位相』)ここでいう「アジア的な制度」とはいうまでもなく東洋的専制であり、それは極まれば、「帝力何有於我哉」という「無為の政治」である。
 薩摩侵略以後は、その対外関係における中日両属支配が顕在化・強化されたことによって、国内支配も一層強化されたが、「琉球処分」に到るまで、社会構成体の独立性と、封建的というよりは古代的な固有の性格には大きな変化はなかった。資本の本源的蓄積はほぼ皆無に等しく、社会発展を促す新たな階級は自生的には形成されなかった。したがって「琉球処分」は、日本帝国主義による領土併合であり、「国内植民地」時代の始まりであったが、他方人民多数にとっては、伊波普猷のいう「奴隷解放」の意味する側面もあった。王府の支配から、日帝支配にくみ込まれることによって、共同体ぐるみの人身的拘束から、「餓える自由」と「人身的隷属と土地からの自由」とが与えられたことは確かだったからである。沖縄民権運動の先駆者とされる謝花昇は、第二代沖縄県令・上杉茂憲が派遣した、第一回県費留学生の一人、また唯一の平民(農民)出身者でもあった。
 琉球処分以降も旧慣温存策が長期にわたって継続されたため、一八八〇年代以降怒涛のように侵入してくる寄留商人、ヤマト資本、官僚、警察・軍人によって沖縄社会は近代初期段階で牛耳られ、日沖の近代史における支配従属構造が再編成・強化して確立される。以後現在にいたるまで、従属化を深める波動が間断なく反復され、この構造は繰り返し作り変えられながら強化され継続されている。
 いずれにしても歴史学の学問的な価値は、残された種々の資料から歴史像を再構成することにあるだろうが、われわれが歴史を学ぶのは、過去の蓄積された人民闘争の成果を引き継ぎ、資本と国家の支配のすべてを廃絶するための力のありかを知ることに尽きるのである。文字と知識を支配した旧社会の支配階級の資料を解釈するだけではこの目的に到達することはできない。したがって通説を採らず、あえて転倒して見せる、次のような竹中労の稗史の方法は、「人々が餓えを武器として波涛を越え、小さな丸木舟で汎アジアに津梁(橋)を架けた、太古の苦闘に理会することから拓けるのである」という視点においてただしいのである。「後年の薩摩侵攻の原因、尚真王がつくったといえる。なにが名君であるものか! 時代は末期に退廃の仇花を咲かせる。もっとも繚乱と錯覚させるその治世は、琉球人から進取の気象を奪い去り、海洋独立国としての主体を腐蝕、喪失させた半世紀であった。」

5−5 「国内植民地」規定の意味

 「国内植民地」については、七八年シンポに際して、中村丈夫さんが資料レジュメを提出している。すでに「国内植民地」規定にかかわるシンポでのやり取りについては紹介した。提唱者の趣旨は、日沖関係を明確な経済的支配従属関係としてつかみ、それによって、「復帰論者」の中の反戦平和主義、国内平等論的認識との明確な一線を引くことにあったものと解される。しかし、シンポにおける発言者の大方が、「反復帰」の立場から討論を進めたがゆえに、この提起の意義が、必ずしも明確にされたようには思われない。またその後の、従属論の頽勢とともにこの種の問題意識が顧みられる機会はなかった。しかし、日沖関係を論じれば、その厳然たる差別、すなわち支配従属関係に必ずつきあたるのである。近年の、ポス・コロ、カル・スタ論議に登場する、「沖縄=植民地」という文化表象理解の基礎にはこの歴史的社会的背景があるのであり、これはまだ解明され尽くした問題ではない。一国的民主主義・国内平等論の単なる裏返しの構図を文学的比喩で確認するだけでなく、歴史的、社会科学的に解明することこそが依然として求められている。
 これに絞っては山崎カヲルさんの『国内植民地概念について』と題する論稿がある。(『インパクション』一七号/八二年四月)まず中村さんの国内植民地についての定義が、「一般的には、形式上本国の平等な構成部分でありながら、実質的には特殊な質をもつ搾取、収奪、抑圧、疎外のもとにおかれた従属地域を指す」として紹介され、「資本主義国内部において、資本蓄積の進行に対してある特定の地域が果たす特殊な役割が民族問題との関連で問題とされている」と、意義付けられる。さらにこの問題にもっとも詳細に論及しているとされるデール・ジョンスンの主張が紹介されているが、ここでは国内植民地概念の深化そのものがテーマではないので、その紹介は省き、これに対する山崎さんの評価を以下に示しておく。「国内植民地概念は、世界的規模での中枢部・周辺部関係を、一国の先進地域と後進地域との関係へと転用することで成立している。フランクの言う『低発展の発展』の国内版が、国内植民地主義なのである。」
 さらにこれに対する批判的論及が、七〇年代の南アフリカにおけるアパルトヘイト体制に関するハロルド・ウォルプの分析を援用しながら行われる。山崎さんが紹介しているように南ア共産党『南アフリカの自由への道』でいうところの、「新しいタイプの植民地主義が発展した。そこでは、抑圧者たる白人民族が、被抑圧人民自身と同一の地域を占拠し、後者と並んで生活している。…非白人系南アフリカは白人系南アフリカ自体の植民地なのである」という現実を、民族と階級という葛藤する二つのタームを使い分けながら正確に認識し、戦術を提起することが問われたのである。とりわけウォルプの「抑圧・被抑圧『民族』の内的階級分化を一方で認めながら、同時に『民族』間の搾取・抑圧を強調することで、他方では特に被抑圧『民族』を同質的なものとして扱おうとする傾向が、国内植民地主義論には常につきまとう」との評価が示される。ここからウォルプも同意するという、従属論を批判する「生産様式節合論」の意義が提起される。「前者は階級支配と民族支配との存在をともに認め、両者の関連を探ろうとするのに対し、後者は階級支配の基本性を前提にして、民族支配なるものの政治的・イデオロギー的・経済的機能をそれによって説明しようとする。」
 さらに山崎さんは、マルクスの『剰余価値学説史』の一節を紹介する。「民族は実在しない。あるいは、単に資本家階級としてのみ実在する。」これに続けてその意味するところが以下のように展開されている。「民族とはマルクスの言葉をパラフレーズして言うなら、支配階級としてのみ実在する。支配階級はそのことによって、一方では国内被支配階級を同一の民族に統合して階級対立を歪めさせ、また他方で植民地支配においてこの『民族』による統治という外見を押しつけることで、前者の歪みを拡大させ、さらには『民族』解放闘争を惹起させる。このため、『民族』は支配階級のイデオロギーでありながらも、国内被支配階級を包摂するイデオロギーとなるし、植民地支配に対する闘争のイデオロギーともなりうるという、複合的な機能を持つようになる」。
 後年、山崎さんが、ラクラウ/ムフの『ポスト・マルクス主義と政治』を翻訳紹介することを知っているわれわれにとっては、謂わんとするところは明らかであろう。「民族」をヘゲモニーとして捉えること、根本的な視点において階級闘争の観点を手放さないことが決定的である。問題は日沖関係を歴史的な支配従属の蓄積においてつかみ、さらに東アジア軍事外交関係の環としてつかむことである。差別支配であり、軍事支配であることの認識の根本的な意義がここにある。当該地域や、民族を歴史的・社会的に、つまり階級闘争の観点からつかまなければ、「国内植民地論」は一方では、ある種の地域間格差を論じる地域経済論に、他方では国内平等を前提とした民族差別の告発にとどまる。差別、格差を内在する国民国家の枠組みこそが粉砕されなければならない。国際的・一国的に民族の枠組みを通じて貫徹する階級闘争の観点を欠くならば、時に民族運動として進み、また民族内部における支配と搾取、対立として現れる階級闘争をつかみそこない、自立・解放の展望を失うことになる。これが「国内植民地論」を扱うさいの限定の一つである。

5−6

 もう一つはかつて川田洋がいっていたことだ。手元にふさわしい文献がないので(確か『情況』七二年五月号『国境・国家・我が弧状列島―国家論=過渡期世界論・序説』)、記憶と臆測で書いておくしかないが、沖縄自立解放が、日沖関係を論じれば見通せるかのような、もっと端的にいえば、沖縄独立が、日沖関係だけで成り立ちうるかのような、素朴としかいいようのない理解への批判であった。近いところを論じている(と思う)、『「叛帝亡國・国境突破」の思想』(『映画批評』七二年一二月・七三年一月)から、少しだけ紹介しておこう。まず、「〈琉球―台湾〉混民族域」というイメージが提示される。「この混民族域に形成された交通形態は、@大日本帝国、A太平洋戦争、B戦後的冷戦体制=米中対立、の三つの要素によって歴史的に規定されてきた。」「ここには固有の意味での『国家』は存在しない。」「琉球―台湾の上にのしかかったものは、全く外界からやってきた、国家権力のそれとはまったく異質な圧力であり、それこそが対中包囲網という形をとった超国家の体系だったのである。」「従って、いま浮上する〈琉球―台湾〉混民族域の自己表現は、あれこれの『国家』に対してよりも、この超国家体系にむきあうものでしかありえない。」
 またこうも言われる。「ケインズ流の統制経済とインフレーションの世界経済の運動論理が、戦後資本主義に、スターリンの予言を裏切る奇跡の経済成長を産み出すやいなや、ただちにそれは、国民経済の硬直化と、脱国籍貨幣資本の世界的流動を産みださざるを得なかったように、国民国家の危機を救済するものとして出現した超国家的権力の世界支配・世界分割・世界再編の下に『流動する基底部』としてあらわれ、何よりも『国家』を、老いさらばえた『国民国家』を脅かすように自己運動する。」ハート/ネグリもはだしで逃げ出すこの観点を「過渡期世界論」という。これを失えば、沖縄自立・独立の要求は、ただの民族主義、しかも無力なそれになってしまうといっているのである。


6 従属理論の再審A―世界資本主義の発展から―『機械制工業経済の誕生と世界化』

 次に、冨岡さんの著作についてみておこう。この作業で、われわれが注目するのは、繰り返しになるが、「従属理論」の総括であり、さらにいえばそれに代わる経済学的展望である。沖縄を論じて「従属理論」の総括を問うというのは、迂遠な衒学趣味のように思われるかもしれないが、われわれにとってはそうではない。原田・矢下論文の理論的骨格が従属理論の沖縄への適用であったのであり、従って、その政治的な結論は、黙示的ではあっても沖縄人民の民族的自決にもとづく社会主義的変革であり、日本のみならず少なくとも東アジア規模での新たな社会主義的国際秩序の形成であり、これによる世界資本主義体系からの離脱であったはずだ。だが、「従属理論」はカンボジア問題と、アジアNIESの登場によって大きくその権威を貶めてしまった。しかし、これに代わって反帝国主義の立場による貧困と悲惨からの脱出を求める経済学的展望はいまだ提出されていない。従って、その総括と展望の提示は、全世界人民多数が、その生存のために帝国主義との対決を清算できないために片時も忘れることのできない宿題である。沖縄闘争にかかわるわれわれにとっては、一層切実な問いでもある。
 この観点からするとき、冨岡さんの見解の特徴が浮かび上がるように見える。それは、梶村さんの問題意識との異同、その変換や転調をみることで際立つ。もともと、ご両所の見解が一致して共同作業が行われたものでもないことは明らかで、その優劣を問題にするものではない。それぞれの見解をできるだけ正確につかみたいということにつきるのである。

6−1

 冨岡さんの基本的観点はこの本の最初のページに示されている。「NICSの出現は世界の貿易構造にそれなりの変化をもたらしたのは事実としても、それは世界貿易の南北構造をつきくずすものではなかったし、今でもつきくずしてはいない。何よりも、世界には豊かな先進工業諸国(機械制工業経済体系を導入した地域)とそうでないアジア・アフリカ・中南米諸国とが併存している、という二重構造はいまなお頑強に存続しているのである。…ハイテク産業にささえられた先進諸国民の生活の急激な変化と比較するなら、南北の相対的格差はかえって拡大しているとさえいいうる。」「近年人々の目を見はらせている『アジアの成長』とは、いってみれば、一九世紀において欧米の経済発展の影響が東欧・中東・南米におよんだのとおなじことがいまアジアに生じているにすぎないのである。アジアの経済がアルゼンチンとならんだからといって、それで南北問題が解決したとはいえないように、今日のアセアン諸国の経済発展がそのままこれら諸国の機械制工業国化につながるという保証はないのである。むしろ、問題はここからはじまる、といってよい。」
 この問題意識は、私たちにとってもそうであり、そして梶村さんにとっても共通のものであったと推測される。この問題についての解明にあたって冨岡さんは「発展段階説」の事実上の否定を明言する。だがその前に、梶村さんの「発展段階説」評価を見ておこう。これによって両者の視点の違いを知ることができるからである。梶村さんは、遠山茂樹の東アジア地域史論の意義を敷衍しながら次のように述べた。
 「世界史は単なる一国史の寄せ集めではなく、史的唯物論においてかなり明快に定式化されている一国における社会構成の継起的展開の論理とは次元の異なるものとして、世界史それ自体の法則性・諸国家間の関係の法則的展開の論理を究明する理論領域があるべきなのである。…ところが従来、世界史の理論は、その領域自体として確立されておらず、一国史の法則を単純に拡大して最先進国の発展段階をもって世界史の時代区分を行うようなことがなされてきた。また、事実上世界史的条件を捨象し、先進国基準と単純に比較して一国史が論じられてきた。」「近代以降、すなわち世界資本主義の形成過程および完成後(帝国主義体制下)においては、世界史的モメントの比重ははるかに大きい。なぜなら、資本は、それ自体の属性によって、商品によって具体的に結ばれた世界を創り出し、維持するからである。この前近代と近代の根本的な差異が一般に充分理解されていないきらいがある。」(文献a/p59・60)梶村さんは、東アジアの近代史において、日本国家が、他に一歩先んじて資本主義への道を歩んだことについての、日本の先進性と、中国・朝鮮の後進性とを無批判的に肯定する発展段階説を痛打したのであった。

6−2

 これに対して冨岡さんは、まさに梶村さんの論じた韓国経済の発展に論及して次のように言っている。「この説の妥当性を認めるものであるが、他方、この説が暗黙に前提としている発展段階説が今日再検討されざるをえない状況におかれているという事情もあるので、ここでは遠山・梶村理論とはいささかちがった視点から、韓国経済の今日の発展の歴史的諸条件について考察してみたい。」(文献b/p187・188)
 「経済史という視点からすれば、商品経済の発展を基幹的要因としてあげなければならないだろう。商品経済の発展こそが資本の蓄積を生み、蓄積された資本があってはじめて諸資源が生産要素として結合されうるからである。したがって、この点では、資本主義の発達を単純に自然資源や宗教などをもって説明するものより、従来の発展段階説は経済学としてはただしい方法をとっているといえる。」(p191)としたうえで、先にいう「事情」については、さらに次のように述べている。
 「だが、その商品経済の発展において、前述のように、世界諸地域がそもそも単一の世界経済圏の中にあり、農業などでは商品経済化はむしろアジアにおいていっそうすすんでいたとするならば、その後に工業化した地域とそうでない地域とを識別するための経済学的カテゴリーを商品経済の発展の程度に求めることはできないし、いわんや、イギリスの国内商業以外のすべての商業を根拠もなく前期的であると片づけてしまうのはあまりに乱暴である。そしてここに発展段階説の限界が露呈するのである。」(p192)
 そして次のように問題を設定する。「商品経済の発展とそれにもとづく一定程度の資本蓄積の存在がほぼ一様とみなしうる世界のなかから、ある特定の地域―すなわち欧米地域―にのみ資本主義的機械制大工業が成長してきたというのが近代の歴史であるが、その特定の地域が選択された要因は何か」?(p192)
 この回答は、機械制大工業の技術的特性への検討から求められ、それを日常生活技術として普遍化せしめる自然環境条件の地域性によって絞られる。結論はこうだ。「端的にいえば、それは犂、斧、鋸、釘、ナイフ、弓矢、銃、といった鉄の利用量の差であり、したがって、鉄の生産と加工技術の普及度の差といえる。」「イギリス産業革命をになった綿工業の発展はミュールや力織機という動力機械の普及によってはじめて可能だったのであり、それら動力機械の発明と普及は鉄の生産・加工技術の生活レベルでの日常的な存在を基盤としてはじめて可能であった。」(p196・197)したがってヨーロッパの地域に特定されて機械制大工業は成立した、とされる。
 これが、冨岡さんの描く機械制大工業経済の起源である。図式的な一般的モデルとしては次のように要約される。「イギリスに世界ではじめて機械制工業経済を形成せしめた要件をまとめるならば、世界木綿市場、資金(元手としての、および流動性としての、資本)、労働、および技術(鉄に関する技術の社会的特性)、という四つの要因に帰着せしめることができる。」(p125)この定式は次のとおり。
 「資金+労働+技術+世界市場→機械制工業経済」
 「イギリスは世界のパイオニアとして左辺の四項を無意識的に準備していったが、そのあとにつづいた地域では…先進イギリスとの競争のもとで、それぞれのおかれた状況に応じてこの四つの項のそれぞれ異なる量を政策的に準備し結合しようと努力し、ある地域では成功し、ある地域ではこの四項の中のいずれかに不足し遅れをとったのであった。」(p126)
 上記定式は、一見して資本・労働・土地=資本主義的生産の三要素のパラフレーズであろうと推測される。だから、あえて上記の定式にまとめたことの理由を、冨岡さん固有の資本主義経済についての理解を知る必要がある。冨岡さんは、次のように言っている。
 「今日われわれがそのなかで生活している経済の仕組は機械制工業経済である。これを資本主義経済、ないしは市場経済、といってもよいが、資本=資金=頭金=元手をもってする経済活動の歴史は貨幣の歴史とともにふるく、ハンムラビの時代までさかのぼることができる。しかし、ここで論じている資本主義経済とは、勿論単に元手をもちいておこなわれる経済活動の総体をいうのではなくて、その元手の主たる部分が高速運転によって大量生産をおこなう機械に投下される経済をいうのである。」「(一八世紀以前の資本主義と産業革命によって生まれたヨーロッパ「資本主義」経済)とを区別する場合、ひとは、しばしば、前者においては資本主義的生産が経済活動の一部をしめていたにすぎないのに対して後者においては経済活動全体に支配的である、という風に量的にとらえるのが普通である。しかし、両者の違いを、動力をもちいる大量生産用の鉄製の機械がもちいられているか否か、という風に実体面からとらえれば、その質的な区別が判然となるのである。経済学で『資本主義』という場合には勿論この機械制生産体制が前提となっているのであるが、すくなくとも純粋理論以外ではそれを明示的に取りあつかう必要がある。この機械制工業経済が形成された地域とその歴史に着目して『ヨーロッパ資本主義』といえば資本主義経済一般との質的な差違はいくらかは表現されるが、『近代資本主義』では量的な差異をしめす以上のものではない」。(p118・119)

6−3

 なるほど、と思う反面、こうした理解は、資本主義経済を技術的特性から見るという問題設定のなかに、すでに回答が孕まれていたのではないかとも思う。経済学や経済史学の学問事情は、素人にわかるはずもないが、「近代資本主義」というタームが不可であり、「機械制工業経済」が正解であるという理解は常識的に見て一面的との印象をぬぐえない。狭隘な唯物史観の目的論的解釈や、イデオロギー性に辟易して、既存マルクス主義経済学の脱色に腐心した面が、いくぶんかはあったのかもしれない。あとで見るように、工業化や、いわゆるテイクオフの条件を考察するうえで非常に有効な視点だが、他方で、社会構成体の特質、当該社会における階級対立などのマルクス主義の核心が洗い流されてしまう。社会経済の技術的特性への着目は、確かに自然を対象とする人間的実践のマクロ歴史的な展望を可能とする。宇野経済学で言う経済原則、ポランニーのいう「社会への経済の埋め戻し」を念頭においた巨視的な歴史的展望が浮かび上がるのであり、実際に、本書でもそうした言及が各所にちりばめられている。ご健在であれば、この点を論じた著作を物する意欲を持っておられたのかもしれない。
 実際のNIES分析などでは、「機械制工業経済」というタームは各国事情、時代背景をつかんで適用されているのであって、「鶏を割くに牛刀をもちいる」というようなことは全く見られないが、それでも固有の社会をその階級配置と階級闘争の歴史から見るという視点は、後景に押しやられているように思われる。発展段階論の否定が、階級闘争による歴史的諸段階への考察を清算してしまい、ある種のエコロジカルなマクロ歴史観に飛躍してしまったとの印象である。したがってこの点については、前出の、山崎さんの紹介になる、「生産様式節合論」の観点が有効な補強をなすと考えられる。
 以上の所感を留保して、さらに、NIES、アセアン経済分析から、南北問題把握の観点、さらに従属理論への批判を見ていこう。まず上記定式の左辺の項のうち、資金、世界市場、労働については「世界のいずれの地域でもみたそうとおもえばみたされうる、という一般的状況が戦後、とりわけ一九七〇年代以後生まれてきた」とされる。さらに東アジアにあっては、梶村説のとおり、近代化初発の時点での技術発展における有意の差はなく、日本を除く諸国にあっては、植民地化によってそれが政治的に抑止されていた。したがって、NIES経済の爆発的発展は、ある意味では必然的でさえあったとされる。
 NIES発展の原因はそれにとどまらない。「しかし、NIESの経済的成功の背景には、そのような多分に必然的といえる要因が作用したということ以外に、台湾が世界にさきがけて設置した『輸出加工区』が重要な役割をになっていたという事実、を指摘しないわけにはゆかない。台湾がこの輸出加工区に先進国企業誘致政策をとったことは、資金に民族性があるとする旧来の誤認の放棄宣言であり、それ自体機械制工業世界経済の転機をつげる最初の狼煙であったが、そればかりではない。その特別区域に先進国市場むけの生産と供給をおこなう先進国企業が立地したがゆえに、この区域が機械制工業経済体系の一部分として機能し、成長しえたのである。そして、その成功が加工区以外の周辺に好影響をもたらして台湾経済全体の活性化をもたらしたのである。」(p167)
 従来の「輸入代替工業化政策」が断念され、「輸出産業誘致政策」が採用された。勿論それは先進国経済の「飛び地」に過ぎないが、「とはいえ、それがシンガポールのような都市国家で生じたものであれば、たとえプランテーションであったとしても、それは先進国経済のエンクレーヴであると同時に都市国家シンガポール経済そのものであり、機械制工業経済の『波及』と考えてよい。」しかしNIES以外の「アジアのその他の地域にあっては、NIESに牽引されての経済的成長はつづくにしても、その機械制工業体系の成熟までにはかなりの時間が必要とされる」。(p168)その差は、地域の技術特性であるとされる。
 この仕組をもう少し詳しく見ておこう。シンガポールの例は次のように説明されている。
 「ここでは、資金は立地した多国籍企業がもってくる。その企業は最初から国外市場向けの生産を目的としてきたのであって、シンガポール市場をめざしてきたものでないことは当然である。目的はそのやすい労働力にあるから、それと直接関係する部分以外のすべての機械(技術集積)は、原材料から部品にいたるまで、本国に依存する。要するに『トンネル』方式であるが、にもかかわらず、シンガポールの国内総生産は増加し、対外債務には無関係―立地企業の問題―で、むしろ雇用労働者の労賃だけ先進国からの資金の漏出を促進する」。(p298)
 「漢江の奇跡」といわれる韓国経済の発展はどう見るべきか。「韓国がとった方式が、二重金利、二重レート、輸出工業製品の国内販売禁止、大胆な外資導入政策、などによる
 輸出企業の徹底した隔離政策であり、『オン・ショア』経済の人為的な『オフ・ショア』化であった。二重金利、二重レートはまもなく一元化されるが、それはむしろ国際競争力をもつ企業を他から隔離する手段でもあった。いわば、在地の韓国輸出企業をそのまま隔離して外国の資金・技術と二人三脚をくませ、むりやりに世界経済の場で活動させる、という方法であった。」(p216)また次のようにも説明される。「この隔離のためにとられている措置が一般の輸出奨励政策と根本的にことなるのは、それが、外国からふところ越しにはいってくる資金はそのまま直接的に国外の経済循環過程に還流させ、国外の経済循環過程が国境をこえて国内にまで勝手に拡大することをゆるさない、という断固たる意志表示であり措置だからである。国外の経済循環の国境をこえての不用意な進入は国内経済を撹乱し、いたずらに資金の海外流出をまねくのみで、国内経済にとって百害あって一利もない。それは、かつての植民地経済をふりかえるまでもなく、六〇年代の途上国の輸入代替工業化政策の結果や、産油国の経済開発の諸相をみれば、あきらかである。そこで、いわば、国外の資金はオフ・ショアで処理する、というのが不利な条件を養分とする中進国工業の根本的発想であり、その理想型がフリー・ゾーンなのである。」(p299)
 だが、こうした政策が世界のどこでも実現できたとは言えず、韓国の工業化と「中進国化」は、やはりその技術特性によるものだとされる。しかしその前途は「世界経済の基軸をなす部門に対しては新規参入に対して絶対不寛容である、という経験則」からして、長く苦難にみちたものとなると、冨岡さんは予測する。
 このNIES経済の評価は、南北問題への観点、従属論の総括にかかわる論点である。これについては次のように言われる。「NIES型工業は、先進国でたえず新製品が開発されてゆくかぎり、そして賃金格差があるかぎり、今後も存続し増殖する。…しかしそれは統計上は国内総生産を増加させるが、体質的には国境の外における経済循環への寄生であり、それ自身では南北問題を解決する手段とはなりえない。なぜなら、みずから新製品を開発して既存の世界市場にきりこんでゆかないかぎり、今日では先進国たりえないからである。」(p299)
 こうした評価は、根本においては「従属論」と同じ問題意識にたつものとわれわれには見える。別のところでは次のようにも言われている。「工業化のためにはそれを媒介するところの貨幣が必要である、工業化を媒介しうる貨幣は経済活動の所産としての貨幣でなければならない、そしてその経済活動を拡大するためには、つまりあの先進諸国の周囲をとりまく『隔絶した懸崖』をとりくずすためには、結局は工業化が不可欠である、というふうに―。だが、この循環はたんなる議論の循環ではない。現実過程の悪循環が議論に反映したものにほかならないのである。」(p279・280)
 この問題意識を確認した上で、さらに冨岡さんの従属理論批判を見ていこう。冨岡さんは南の貧困の定義からはじめている。「南北問題における、…本来的な意味での国際的貧富格差とは―…産業革命以後の機械制大工業の産物たる耐久消費財と公共サービスの消費における国際的格差にほかならない。」(p317)「これらの財の所得に比しての相対的価格差こそが購買力平価でみた南北間の所得格差の内容をなしている」(p320/321)この定義は重要である。では、その原因は何か?「今日の先進国と途上国とのあいだに国際的所得格差がうまれている背景には、耐久消費財と公共サービスという機械制大工業の産物たる財が途上国において生活資材として内在化されていないこと、および、現行の国際通貨制度のもとではそうした途上国の現状を前提として通貨の交換率がきまってくること、というふたつの事情が介在している、ということになる。このふたつの事情のうちの前者は途上国の工業化にかかわる問題であり、後者は国際通貨制度の改革にかかわる問題である。そして、さらに、このふたつの問題の処理にあたっては、第三財(A、B二国間の貿易において、B国のみが生産し得る日常生活用消費財)たる耐久消費財と公共サービスの生産体制としての機械制大工業の世界的性格に関しての新しい認識が必要である。」(p337)


第三財についての説明は以下のとおり。「ある財が世界的な普遍性を獲得していないということは、それが通常の意味での国際貿易商品になっていない、ということである。つまり、その財に関しては、貿易関係発生の根本的要因たる内外比価の差をもとにして、相互に利益の生ずる範囲内で、大量の消費財の取引がおこなわれるリカードゥ的な貿易関係は成立しない、ということである。」「すなわちこの第三財とは産業革命以後もっぱらヨーロッパの機械制大工業によって産出されるようになった耐久消費材と公共サービスにほかならないのであるが、この財に関してはこれをもっぱら生産し消費する欧米地域以外にはリカードゥ的な貿易関係がなお成立しえてはいない。だからこそ一九世紀以後、この財およびそれに関連するものの取引が欧米地域に集中することによって世界貿易の重心が相対的にこの地域にかたよるという外観を呈し、先進国と途上国とのあいだの貿易関係がそれに応ずるように相対的に希薄化していった」。「こうした関係を現実にもたらしている要因たるこの第三財の価格―経済学的な意味でいまだ世界的な普遍性を獲得するにいたってはいないが、にもかかわらずそれなくしては今日的な意味での“ゆたかさ”を獲得しえない耐久消費財と公共サービスの価格―を国際的な場で位置づけようというのが本稿の最終的な目標である。」(p332・333)


 次に所得格差、所得水準の規定要因としての生産性の問題が検討される。まず、「労働価値説」による説明が否定され社会的生産諸力にその要因が求められる。「労働価値説にたつかぎり、今日の南北間の所得格差の方こそがあってはならないのであり、所得は本来国際的に同一水準であるべきなのである。」「生産性の上昇とは、本来、社会的な関係として達成されるものであって、人間的個人的なものではない。スミスやマルクスが生産諸力という言葉をつかったところに、彼らが本来意図したところがあらわれている。生産諸力とは財貨やサービスをうむ社会的に総合された力なのである。」「今日普通にいわれている生産性とはこの生産諸力を量的に測定するためのひとつの尺度であって、したがってそれは労働に関する人間的個人的達成とはなんらかかわるものではありえないし、空間的な比較の用具ではなくて、時系列的比較のためのものである。」「生産諸力の発展は、人間の労働能力がなんらかのあたらしいものを獲得することによって達成されるものではなく、逆に技術発展にもとづいて形成されるあたらしい社会関係によってもたらされるものであり(個々の発明や発見は、それが社会的なあらたな関係の形成に成功したときにはじめて、技術革新たりうるのである)、人間の労働能力はそのあたらしい社会関係にみずからを形態的に適応させてゆくものにすぎない。したがって、生産諸力の発展による実質所得の上昇は生産に従事する諸個人の労働能力のなんらかの量的な増加によってもたらされるものではない。」(p342・343)
 そしてこの機械制大工業の生産諸力のあえて言えば世界史的な意義が次のように述べられ、結論に導かれる。「巨額の資金をもって製作される機械によって未曾有の大量生産をおこなう機械制大工業は、最初から、広大な地域にひろがる原料市場と、消費市場の存在とその世界市場を構成する広大な地球の人々の経済活動と、を前提としてはじめて成立した。その広大な地域に、機械制大工業はみずからに適合的なあたらしい社会関係をつくりだし、おしひろげることによって、はじめてあたらしい高水準の実質所得を実現した。かつてマルクスが『ブルジョワは世界をおのれの顔に似せてつくる』とのべたように、19世紀以後の地球上の一片の地域たりともこの機械制大工業による社会的再編成をまぬがれたところはない。したがってその社会的再編によってこそ実現される高実質所得水準は、当然、その社会的再編の進行する広大な全地域、すなわち世界全体、に帰属すべきものであって、たまたま機械制大工業の本体の存在するイギリスという一地域、およびその住民、によって『囲い込』まるべきものではありえないし、それはまた機械制大工業経済の本性にも反している。」「この新しい水準の実質所得の実現は、国境という堰がある場合には、それによってせきとめられ、工業化がうみだした本来世界的な性格をもつ果実が工業本体の存在する国民国家の垣根のなかに『囲い込』まれるのみで、ついにそこから流出することなく今日にいたっているのである。」「結論は、したがって、南北間所得格差を解消するためには経済的国境を廃止しなければならない、ということになる。」(p345・346)
 この結論の内容から、「従属理論」は次のように批判される。「いわゆる従属学派は国際的所得格差を途上国から先進国への『価値』の移転―流れ―によって説明しようとしているが、問題は、本来先進国から途上国へ波及するべきはずの実質所得上昇の『流れ』が国民国家の持つ垣根によってせきとめられている、というところにある。そして、その『せきとめられている流れ』を説明するために実体のない『価値』概念をもちいる必要はない。端的にいって遮断されている『流れ』の実体をなすのは資金および資金と逆方向にながれるべき労働力である。この資金と労働力の自由な流れが阻害されているがゆえに、各国民国家に個別の通貨と個別の価格体系とが維持され、それらを媒介するための不自然にして不合理な通貨換算率が成立し、耐久消費財と公共サービス財の価格の途上国価格体系への内在化が阻止されることになるのである。」(p346)

6−4

 国境の廃絶という大きな命題が提出されたことは喜ばしい。だが、冨岡さんが、「これは規範的命題ではない」というにもかかわらず、国民国家と世界経済との転倒した関係の圧倒的な現実からするとき、規範的にしか受け止められない感覚を否定できない。労働力の国際移動の自由を完全に保障する経済的国境の廃絶は、昨今のグロバリゼーションのごときものではなく、普遍的生産力・個人と共に成立する普遍的交通形態のことではないか。あるいは、冨岡さんは数百年単位での経済発展を念頭においているのかもしれないが、現に抑圧と貧困を訴えている労働者人民に、数百年レンジでの機械制工業経済の長期趨勢的あり方を説いても、やはり空しい。機械制大工業経済という、今日の資本主義の実体を特定し、その生み出す国民国家に仕切られた価格体系が南北問題を生み出したという指摘は、長期趨勢の展望としては正しいが、さらにその根拠を問えば、帝国主義による支配と従属の歴史と構造の問題に至らざるをえないはずだ。この点では、梶村さんの提起からの一歩後退と思える。この点については、先程述べたような「生産様式節合論」による補強が必要になる。とはいえ、ここで批判されている従属理論の「不等価交換論」や、「低開発の発展」論(これについてはp315)に対して、機械制大工業経済の技術的特性に着目し、クールにここから理論を展開したことによって確保された視点のあることも事実である。長期的な経済発展の視点を提示し、補正することにより、世界経済の現実に長期趨勢のレンジから一歩接近したことは確かのように思われる。

 再度沖縄の現実に立ち返って、この議論から導かれるのはさしあたり次の二つである。
 @南北問題解決の展望が「国境の廃絶」にあるとするなら、労働者階級・人民の側からして沖縄自立経済はこれにどのようにかかわるか?
 A機械制大工業の地域性からする工業化の限界と不工業化の論理からして、長期展望に立つ沖縄社会のあり方はどう見られるか?
 @に関連しては、韓国経済の分析例が、ただちに沖縄におけるFTZ構想を連想させる。韓国における二重価格政策は「一国二制度」論とほぼ重なる。しかし違いも決定的である。日本社会の価格体系と違う価格体系を沖縄社会に導入するとすれば、その管理統制を行うことが求められるが、それは事実上の経済主権の確立であり、沖・日「連邦制」すらも想定されていない現在の日本社会の状況からすれば政治的独立宣言に等しく、したがって同時に従来の日本資本と政府資金の途絶または大幅な改変を意味する。政治的独立と経済的自立とを切り離して想定することは極めて困難と思われる。「日本という単一の経済体系のもとでは、すでに単一の価格体系とそれに見合う賃金水準が成立していたがゆえに、南北問題はおこりようにもおこりえなかったのである。」(p308)との一文があるが、逆にいえば、別の価格体系を導入すればそれはただちに日沖間の、国内地域格差ではなく国際的南北格差をもたらすということでもある。また、冨岡さんはあえて捨象しているようだが、NIES諸国が、程度の差はあれ、いずれも「開発独裁」として知られる、国民の諸権利への強い統制力を持って経済政策の実施にあたったことも常識に類することながら忘れてはならない。政治的独立は、民族主義の発揚に基づく強い国家権力の発動を意味するのである。
 もう一つ「経済的国境の廃絶」からは、かつて平恒次教授が提言された「沖縄帝国主義」(『沖縄経済の基本的不均衡と自立の困難』/『新沖縄文学』第五六号「特集 自立経済を考える」)が連想される。『新沖縄文学』の同じ号に、いわばメイン論文として掲載された嘉数啓『沖縄経済自立への道』への論評として、平教授が寄稿されたものだが、その一章のタイトルにこの文字が見える。「日沖間の所得格差(ということは沖縄の相対的困窮化)があるレベルに達すると、沖縄人は県内人口の増加が防げる程度県外に流出する」という指摘を受けて、平教授は次のように言う。「日沖間の所得格差を縮小させるために、自発的に多くの沖縄人が県外に転出することである。…格差拡大という経済指標に受動的に適応するのではなく、積極的な行動によって却って格差を縮める」。「今度こそわれら沖縄人が琉球弧から出撃して全世界的琉球文化帝国を作ろう」。同趣旨の論文は、さらに詳細に世界的規模での琉球精神共同体と、琉球共和国運動の提唱として、やはり『新沖縄文学』第四八号に掲載されている(『新しい世界観における琉球共和国』)。
 貧困ゆえの労働力人口の県外流出は、琉球処分以後、いわば沖縄における経済の常態としてあり、何もいまに始まったことではない。にもかかわらず、二〇年以上以前の平教授の提言が眼をひいたのは、富岡さんの所説に感化されたことと共に、近年沖縄における若年労働者にあって、「キセツ=季節」と呼ばれる就労形態がかなりのウェイトを占めると聞き及んだからである。日本社会においても、また世界的な規模でも、非正規雇用の拡大が近年の労働環境の激変をもたらしている。支配階級がこれを誘導していることは明らかだが、今日の「タビ」=出稼ぎを労働者階級人民の立場から積極的に捉え返す必要がある。日沖所得格差に促されての受動的対応のひとつであり、平教授が言われるような、世界的規模での経済活動に結びつくものとはなっていない。しかし、すくなくとも労働運動にとっては、座視できない問題であろうし、また情報産業・観光など、県外資本の誘致による開発路線の推進を疑わないという日・沖支配階級の経済政策に、反開発の立場を対置するにとどまらない問題提起を通じて再考を促すことは可能ではないか。
 Aについてはおそらく長期展望に立ってのことであろうが、地域特性の尊重の観点から、ガンジー「チャルカ運動」などの不工業化の政策の意識的選択の展望が語られる。「地球上のすべての地域の人々が工業化によってその福利を享受するということは、地球上のすべての地域が工業化する、ということであり、それは好ましいことではない。もし世界中が機械制工業地帯になるなどというグロテスクな事態になったとすればそれは同時に人類の死を意味するからである。」(p306)「各地域の固有の言語や文化が一朝一夕には消滅しないのと同じように、非ヨーロッパ地域でその工業化をはばんでいる非ヨーロッパ的技術特性はそう簡単に消滅するものではなく、むしろ、それは、今日なお、それぞれの地域の民衆の自然で健全な実生活をささえているのである。」(p214)
 この視点からは「シマおこし」、地域経済、伝統文化、産業の振興、フェアトレードなど、従来からの政策が提起されてくることはもはや常識であろう。
 しかしその場合、ここでいう「不工業化」の政策選択のあれこれが、かつての「いも・はだし」論や、現在にいたる「観光立県」路線のように直接の経済政策問題として扱われているのではないことに留意しておかなくてはならない。沖縄社会の将来展望にかかわるあらゆる可能性を試みることが、権利的に保障されなければならないし、そのうえで、地域に居住する人々の意志の総体が、産業発展の選択を行えばよいということにつきる。恵まれた環境の保全が、観光・リゾート開発などとしてただちに市場化されなければならない、理論的必然性などはどこにもない。現在政策化されている現実性を標榜する開発路線は、この点からすればあまりにナイーブにすぎる。日本資本主義の経済的強制力のもたらす結果にほかならないが、仲井真・新知事の公約「観光客1千万人、企業誘致五百社」というような具合に政策的言説とするのは、過剰適応というほかない。むしろ問題は、開発に関わる当該地域住民の政治意志を、くりかえし問うことによって、地域自立の基礎を固めることである。経済発展のあり方の選択肢を示すことによって、基礎コミュニティのレベルから、自立・独立の意志を形成する制度的、組織的な保証が行われなければならない。かつて名護市で提唱された「逆格差論」もこの観点から再評価される必要がある。「象・設計集団」の起案を、市の行政、住民の運動、がいかに土着化させたのか、あるいはできなかったのかを問うことが総括の問題である。
 繰り返しになるが「自立経済」は、原田・矢下論文では次のように定義されていた。「一定の社会的経済的単位とくに民族集団が、自己発展力の主体と体系を内在させ、固有の経済発展の軌道をみいだし、それへの動態を開始している状態」。その限りではあらゆる意味での自立に向けた経済政策の束であり、実際には多様な政策複合としか言いようがないと考えるほうが、単一の経済政策理念によっておこなわれると考えるよりも現実的かもしれない。この三〇年の「自立経済論」をめぐる歴史と現実の経験が示すところであろう。その意味で、嘉数啓の『沖縄経済自立への道』(八三年『新沖文』第五六号)は「自立経済論」の論点を網羅的に俯瞰し、「ローカル産業複合型発展モデル」を提唱する総合性と、現状承認という意味での現実性の点でバランスの取れたものと考えられる。しかしそれらを束ねる構想やヴィジョンは必要とされるし、人々はそれを「自立経済論」に求めてきたはずだ。前に紹介したこれへの原田さんの応答(『振出しに戻った経済自立論』)の結論は、「問題はヴィジョンを実行力あらしめる闘いにある」、「独立論的発想なしには経済自立の道は、切りひらけない」とするものであった。この批判に我々は共感する。問題は、経済自立を自立・独立のヴィジョンと結びつける仕方にある。つまり、政治的あるいは精神的な理念としての独立宣言にとどまることなく、日々の生活における経済活動や政治的実践のなかで、着実に自立・解放へと向かう現実的な手ごたえを確認できる構想・ヴィジョンとその下での政策プラン、運動の実践を人々は求めてやまないのである。だが、万人にそのような実感を与えられるようなものはない。理念と構想をになう社会的立場が違えば、現実を受け取る感受性も異なってしまうものだ。だからこそ、人民の闘争と主体が問題になる。
 我々からすれば、沖縄自立は、日本を含むアジア・環太平洋地域、さらには全世界の解放と結びつくものとしてしか考えようがない。少なくとも、反復帰論に始まり、自立・独立論が、理念の宣言にとどまらず、さらに政治・経済・文化諸領域におけるいくつもの具体的な政策を、実際生活の験しと社会的評価の吟味にかけて蓄え、再び理念の彫琢をおこなう営為のなかに、政治的な成熟を見出す他に道はないように思われる。それはこの理念を受け継ぎ、政策を使いこなす、世代を超えた人から人への主体の継承と組織的結晶化の努力と不可分なことであろう。そして今、この時点こそがこの作業の機会である。
 原田・矢下論文が提起された当時、いわゆる第三世界革命運動は、いまだ世界の抑圧された人々の希望の灯火であった。また、ポーランド連帯労組の闘いなどが、社会主義そのものの革新に希望を抱く根拠でもあった。フランクは、みずからの理論的提起が、ゲバラの理想を引き継ぐものであると信じていたであろうし、アミンも社会主義中国がみずから第三世界に属していると宣言し、世界革命運動の大後方となることを疑っていなかったであろう。しかし八〇年代から今日にいたる歴史の経過のなかで、第三世界革命運動の光輝も、社会主義再生の希望も無残に潰え去り、その権威は泥にまみれた。しかし南北問題が解決されたわけでも、沖縄の軍事植民地状況が解消されたわけでもない。確かにカンボジア問題とNIESの台頭は、従属論の理論的背骨をくじいてしまった。しかし、反帝闘争、社会主義・共産主義の失敗を悪し様に罵り、世界を席巻した新自由主義・グローバリゼーションが南北格差を解消するものではなかったことも、人々の歴史の経験となったとおりである。
 ソ連・東欧「社会主義」崩壊以後急速に進行した新自由主義・グローバリゼーションと米国一極支配体制のもとで、南北問題は新たな様相を付加えていっそう深刻なものになってきた。〇一年の9・11はその象徴的な事件であった。日本社会では、マネー礼賛、優勝劣敗の風潮を疑わず、資本主義、自由主義の発展を謳歌し、他方では中国・韓国・北朝鮮をいわれなく蔑視する民族主義的自己陶酔の気分がみなぎっている。だが冷静に世界に向かえば、冷戦における「資本主義勝利」の浮ついた気分はとっくのむかしに過ぎ去ってしまったことがわかる。石油資源の独占と軍事力の誇示をもくろんだイラク軍事占領は内戦の危機にさらされ、米軍撤退の展望は全く見えない。今日の南北問題は、戦争と暴力の要素を強めて、その悲惨を拡大している。米帝国主義は「対テロ戦争」を呼号し、他方全くの宗教的反動としか見られない勢力が、南の貧困と北のマネーを温床に勢力を築いている。両者は、激しく対立するように見えて、実は相互補完の関係にある。
 この解き難い矛盾の累積から日本も、沖縄も無縁ではない。それどころか、いまや一方の極である米国の影響下にあって、世界的な米軍再編の渦中にあり、沖縄こそその頂点となって、イラク侵略戦争の出撃拠点、緊張高まる東アジアの最前線に立たされている。魔法の杖のような万能の処方箋はどこにもない。理念と歴史的経験の科学的検証という光に照らして、人民がそれぞれ、知識と経験を結集し自立と解放の道を進むほかない。繰り返すが、今がその進路を検証するための時である。


7 自立経済論以後三〇年―沖縄自立解放闘争の課題

7−1 沖縄自立解放闘争の展望―主体形成の条件

 本稿の最後に、沖縄自立解放闘争の展望にかかわって、その主体形成の条件を考える。我々の連帯活動のあり方についての前提となるからである。基本的な問題は、主体の反帝国主義・人民的=階級横断的性格について理解を深めることである。ここまで記述してきた琉球・沖縄社会の歴史的社会的根拠、国内植民地・軍事植民地としての政治的経済的位置のしからしめるものである。
 この点については既に「復帰」以前の時点で、沖縄青年同盟が次のように述べている。「世界史的に遅れて生みだされた資本主義である日本帝国主義の形成過程に暴力的に組み込まれ収奪された沖縄は、帝国主義とくに日帝の原蓄過程の構造との関係で…非資本主義的生産関係を多く残存させてきた。」加えて、戦後の米軍支配、それに続く日本資本の進出によって社会の解体が独特の構造をなされているとする。「これが日本とは異質の沖縄労働者人民の団結と闘いの基盤をかたちづくる。」「沖縄の多くの労働者は必ずしも『純労働者』であるわけではない。別の言葉でいえば沖縄の多くの農民は『純農民』であるわけではない。沖縄労働者数のうち、官公労・沖教祖・全軍労が異常に高い割合をしめており、復帰前にはこの層は沖縄で比較的『安定』していた層であり、建設・製造などいわゆる生産部門は絶対的相対的にも少なかった。」「沖縄では都市と農村、労働者と農民の区別は困難である。下層労働者はそのまま貧農である。労働者の利益と農民の利益は沖縄人民の利益としてそのまま結びついている。全軍労のストライキが沖縄人民にとって直接的に大きく影響を与えているのは…全軍労働者の沖縄社会構成の重要さが大きな要因である。」「沖縄の全軍労ストを支え、ゼネストを貫徹した力、それは労働者階級一般の団結ではなく、労働者・農漁民・住民・小商人をつらぬいた、つまり、沖縄人民の利益を守る闘い、沖縄人の意識、共同体がその闘いを支える深く強い基盤である。沖縄解放闘争の主体形成にとって重要な基盤であり、そのこと自身が強力な〈階級性〉を与える。」従って、プロレタリアでも、民族でもなく、「沖縄人民の権力」が重要であるといっている。(七二年『沖青同論文集』p98・99)
 この沖青同論文の認識は、ポルトガル植民地支配と闘い、勝利の直前に帝国主義の手先に暗殺された、ギニア・カボベルデ・アフリカ人独立党のアミルカル・カブラルのそれと遥かに響きあうものである。カブラルは、民族解放闘争の出発に当たって、「ポルトガル領」ギニアの社会分析を行い、これを「ギニアの社会構造に関する簡潔な分析」(『アフリカ革命と文化』八〇年・亜紀書房)という報告にまとめた。そこでは次のように述べられている。「われわれはギニアにおいて労働者階級を探したものの、見つけることはできなかった。」「われわれは農民の革命的能力を正当にも信じていなかったし、明らかに革命的知識人も全く欠如していた」。やや反語的な意味合いも込めてカブラルが言うのは、当該社会の分析と主体形成について、出来合いの理念や先行モデルを単純に当てはめることはできないということだ。更にアフリカ人にあってさえ、「賃金労働者はたいへんなプチ・ブルジョワ的精神の持ち主で、彼らの唯一の目的は既得の僅少なものを護ることであった」とまでいう。そして「デクラッセ」の一つの特殊な集団と仮に呼ぶ、「都会とも農村とも関係をもち、最近農村から出てきた、大部分が青年の集団」に注目する。「彼らは自らの家族の生活水準をポルトガル人のそれと比較し、しだいにアフリカ人が耐えてきた犠牲を理解し始めていく。彼らは闘争のなかで、きわめて精力的であることがわかった。」階級、階層分析はこのように具体的であり、それは当然ながら実践と生活における験しに裏打ちされたものであっただろう。その上で、こういっている。民族解放の権力を掌握する社会階層は、「民族革命(すなわち、反植民地主義闘争)を遂行する人民が、よく闘うならば、それは『全』社会階層である。なぜなら、民族解放闘争の成功には、全社会階層の統一が必要不可欠であるからだ。」
 沖縄に問題を戻せば、沖縄社会の全体に関わる歴史と文化の固有性の問題はおくとしても、ざっと思いつく限りでも、@労働者・都市住民の実態、A住民の共同体的紐帯、B地域的差異性、C政治・社会運動と知識人との結合のあり方が、主体形成の参照枠組として考慮されなければならない。労働者・都市住民は更に、a組織労働者、b下層労働者、c都市貧民、無業・失業者、d転出労働者、というような幅の広い生活条件と意識上の差異があると考えられる。またここには日本政府の財政政策、産業政策が大きな影響を及ぼす。とりわけ、近年の政府による産業・地域振興策と予算の投入は、直接間接をあわせて米軍基地の維持強化と密接にリンクして行われており、露骨な民意の買取、買弁層の育成策となっている。
 先に紹介した沖青同論文が指摘するように、公務員、教員、軍雇用員は沖縄社会の労働者としては比較的「安定」した集団をなしているという状況は現在も余り変わらない。そしてこの集団と、一握りの富裕層を除けば、全国平均の約二倍の失業率、東京の半分以下の一人当たり県民所得が示すように、県民多数が厳しい経済環境にあることは疑いない。経済振興と雇用拡大が県政の普遍の目標となる所以である。とりわけ注目されるのは若年失業率の高さである。ある推計によれば、〇三年時点で、一五歳から三四才未満の総人口三十七万七千人のうち失業者は二万六千人、これにほど同数と推計される「ニート」を合わせるとほぼ五万人の非就労人口があるといわれる。(うつみ恵美子『若者の未来を開く』〇五年・なんよう文庫)同世代人口の約一三%である。沖縄の大学生のうち約四割が、無業者として卒業するという数字もある。さらに、全国的にも増大しているフリーターの存在がある。統計にも乗らない野宿者も相当数に上ると推測される。また県外就職率は一般労働者(新卒およびパートを除く)は三六%で全国一、「一般労働者から臨時・季節工(約六ヶ月)を除いた常用労働者ベースでも六・二%と全国平均(五・一%)を上回っている」(内田真人『現代沖縄経済論』〇二年・沖縄タイムス社)とされる。沖縄を出て日本や国外に出稼ぎに行く労働者は伝統的に多い。平恒次教授の琉球エンポリウム論の根拠でもある。日本政府や、県においても雇用政策の面でこれへの対策が考慮されているとみられるが、労働組合運動、沖縄人民の相互扶助運動の面からも積極的にこの問題を考える必要がある。沖縄人民のこうした問題に関わる運動資料(反戦、民間労働運動など埋もれてしまったものは多い)、統計資料の収集、整理、などの作業についてわれわれもまた協力することができる。

7−2 自立・独立論に呼応するわれわれの活動

 戦後日本社会の「五五年体制」に対応するものが沖縄社会にあるとすればそれは、第三次琉球処分=沖縄併合によって成立した「七二年体制」である。沖青同論文は「復帰論」を同化主義として厳しく批判する一方で、その運動組織実態としての「復帰協」については、「復帰協を形成した構成要素(政党を除く)大衆団体は一般的に復帰主義の理念に基づいて形成されたわけでは決してなく、沖縄社会構成のなかから各々の権利を闘いとるために必然的に生みだされ闘い抜いてきた」、「それゆえ、各階層、各戦線の利益を守り、沖縄人民の利益を守る統一戦線・権力闘争を担う統一戦線へと生み直さなければならない」と評価することを忘れなかった。復帰思想への徹底した批判を行ってきたのは、仲里効さんが「魔のトライアングル」と呼ぶ新川明さん、川満信一さん、岡本恵徳さんたちをはじめとする「反復帰論」者であった。このうち岡本恵徳さんは、昨年亡くなってしまった。他方、復帰協は、既に七七年に解散している。しかし復帰運動の総括という大きな問題は残された。自立独立論が、一歩前に進むためには、反復帰論の総括が必要であり、それは内容的には復帰運動の総括を含むとわれわれは理解している。「復帰」三五年、自立経済論三〇年の現在、この作業に注目し期待したい。
 自立経済論総括をテーマとする本稿の目的の一つは、沖縄における上記課題を受け止める前提作業を行うことにあった。同時にわれわれにとってはもう一つの作業課題がある。それは「戦後レジームからの脱却」を掲げて、安倍自公政権の下で九条改憲に踏み込もうとする日本支配階級に対して、憲法をめぐる階級闘争を労働者階級人民の立場から突きつけることである。「戦後レジームからの脱却」はとりもなおさず、中曽根自民党政権にはじまる戦後「五五年体制」清算の総仕上げである。この反改憲の闘いのなかで、帝国憲法から戦後憲法、「五五年体制」に到る、日本近現代史の総決算を日本労働者階級の立場から行うことによって、戦後のみならず、近世・近代、琉球・沖縄史の総括に呼応する立場を築くことができる。沖縄と日本社会の階級闘争を大きくつかむ観点を、沖縄自民との共同によって獲得することがわれわれの願いである。それはとりもなおさず、東アジア、環太平洋のスケールで資本主義・帝国主義の近代を根こそぎ転覆する作業の緒につくことでもある。米帝との同盟を強め、米軍の世界的な再編を後ろ盾としてこれに連携し、自衛軍をもって再びアジアと世界に覇道を行おうとする日本支配階級のねらいを批判し叩き潰すこと、これによって東アジアにおける革命と反革命は、白日の下にさらされることになる。沖・日のみならず、南北朝鮮、中国、台湾の階級闘争・人民闘争は、密接にリンクしている。国境をこえて階級闘争の世界的な結合を指示する過渡期世界論は、この国際主義的な連帯の実践のなかで新しく命を吹き込まれるだろう。


参考 近代史・戦後史における日沖関係総括―歴史と運動の検証
東アジアにおける沖縄近・現代史。
 『沖縄経済の現状把握のために』(原田誠司)を基礎にして時期区分を行い、@経済、A政治・統治、B階級闘争と政治運動、C東アジア、それぞれの項目を押える。

第0期(〜1879年)琉球王国消滅の時期
@
A琉米修好条約(1854)/尚泰、冊封を受ける(1866)/琉球藩設置(1872)
B牧志・恩河事件(1859)/幸地親方、清に救援要請密書を持って渡航(1876)
C太平天国(1851〜64)/大政奉還・王政復古(1867)、戊辰戦争・天皇制政府樹立(1868)/台湾出兵(1874)/西南戦争(1877)

第1期(1879〜1899年) 廃琉置県から第1次琉球処分、土地整理まで
@地割制度・封建的貢納存続、寄留商人の進出
A琉球処分、旧慣温存。/廃琉置県(1879)/義務教育制導入(1896)、徴兵制一般導入(1898、先島は免役)
B宮古島サンシー事件(1879)/脱清行動拡大(1882)/頑固党(黒・白論争)−開化党対立/人頭税廃止要求国会通過(1895)/県立中学ストライキ(1895)/公同会(1896)/謝花昇など民権運動(1898)
C分島増約案(1880)/明治14年の政変(1881)/清仏戦争(1883)/秩父蜂起(1884)/甲申事変(1884)/甲午農民戦争(1894)/日清戦争(1894・5)、台湾併合・台湾島民反乱「台湾民主国宣言」(1895)、沖縄の日本帰属確定/義和団反乱(1899)/北海道旧土人保護法制定(1899)

第2期(1899〜1929年) 土地整理から世界大恐慌勃発まで
@土地の私有化、地租制度、土地整理(1899〜1903)/甘蔗モノカルチャーとソテツ地獄、重税、財政撒布なし、県外収支出超、長期不況により困窮。
A特別町村制(1908)、特別県制(1909)/国政参加選挙(1912、先島は1919)
B河上肇舌禍事件(1911)、沖縄青年同盟結成(1925)、第1回普選労農党立候補(1928)、戦前無産者運動(1930・牧原争議など)、海外移民増大
C日露戦争(1904・5)/韓国併合(1910)/辛亥革命(1911)・中華民国成立(1912)/3・1独立運動(1919)/5・4運動(1919)/中国共産党結成(1921)/日本共産党結成(1922)/第1次国共合作(1924)/蒋介石・北伐開始(1926)

第3期(1930〜1949年) 戦争経済による収奪と混乱
@「振興10年計画」実施(1933〜予算実施率20%程度で実効性なし)//沖縄戦によるすべての産業基盤の破壊
A改姓改名運動・方言撲滅運動、沖縄戦(1945)//米軍統治
B大宜味村政民主化運動(1931)/奄美共産党結成(1947)/沖縄人民党結成(1947)//戦果、密貿易
C台湾・霧社蜂起(1930)/満州事変(1931)/満州国建国(1932)/第2次国共合作(1936)/蘆溝橋事件・日中戦争(1937)/日本敗戦(1945)/台湾2・28蜂起(1947)/済州島蜂起(1948)/大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立(1948)/中華人民共和国成立(1949)

第4期(1950〜1971年) 米軍支配経済の開始から日本復帰まで
@軍事植民地経済、日米政府による財政援助、基地依存構造がビルトイン
A米国民政府(USCAR)発足(1950)/群島政府・議会(1950)/琉球政府発足(1952)/土地収用令(1953)/奄美大島返還(1953)/公選主席誕生(1968)/佐藤・ニクソン会談で72年返還を決定(1969)
B群島議会復帰決議(1951)/サンフランシスコ講和条約・日米安保条約締結(1951)/復帰運動/沖縄社会大衆党結成(1950)/琉球人民党結成(1953)/非合法共産党結成(1953)/人民党・瀬長亀次郎那覇市長に当選(1956)/土地闘争(4原則・1954、島ぐるみ闘争・1956)、復帰協結成(1960)/琉大共産党細胞全員脱退(1960)/琉大マル研結成(1961)/宮古農民暴動(1965)/沖縄マル同結成(1967)/コザ反米暴動(1970)/5・19、11・10ゼネスト(1971)/反復帰運動・国政参加選挙粉砕共闘(1970)、沖青同・国会爆竹決起(1971)/全軍労4・24スト(1968)/合理化・解雇と対決する全軍労闘争(1970)/中部地区反戦
C朝鮮戦争(1950〜53)/米北爆開始・ベトナム戦争に本格介入(1965)/中国文化大革命(1966)/世界的青年・学生反乱(1967〜69)

第5期(1972〜現在) 日本復帰後の経済
@振興開発計画(復帰特別措置)
A沖縄の保革構造、政党の「本土」系列化/大田県知事・軍用地強制使用代理署名拒否(1995)/普天間基地返還合意(1996)
B反CTS闘争(1973〜)/ひめゆり・白銀闘争(1977)/沖日労結成(1986)/日の丸・焼き捨て闘争(1987)/辺野古新基地反対運動(1996〜)
C米中、日中国交回復(1972)/ベトナム戦争終結(1975)/韓国・光州蜂起(1980)/天安門事件(1989)/東西ドイツ統一(1990)/ソ連崩壊(1991)/湾岸戦争(1991)、9・11事件・アフガン侵攻(2001)/イラク侵略(2003)


2007.2『情況』07.3-4月号所収

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