★大和西安寺跡履歴
2002/07/14撮影
:
◎聖徳太子建立46寺院の一院といい、寺跡は船戸神社境内(□船戸神社現況:写真は神社社叢)とされる。
2004/06/13撮影:
◎西安寺跡現況:舟度神社境内の遺跡状況については下記の予備知識があればある程度推測が可能。
□大和西安寺塔跡1 大和西安寺塔跡2:
塔跡は本殿北東部にある。
土壇は不明確であるが、微かな隆起が見られる。塔跡1は北西から、塔跡2は南から撮影。
□大和西安寺金堂跡:大量の破砕片と基壇の段差と思われる地形が残る。
□金堂跡・礎石破砕地:今も大量に破砕片と布目瓦片が散在する
。
推定金堂跡南の畑地を耕作中の人の聞き取り:随分昔、現地から北西の方向数百mにある真宗大谷派西光寺(船戸神社を管理している)に礎石は移したと聞く。
その当日、正光寺に足を運ぶも、正光寺住職不在のため
詳細は不明とのことであったが、あえて西光寺境内地(前庭)を拝見、しかし礎石らしきものは発見不能であった。
◎「日本の木造塔跡」:心礎(長林寺式)と断定は出来ないとの記述がある。
(心礎と伝承する礎石は正光寺所在と思われる。)
◎「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作 より:
西安寺は舟度神社境内及びその周辺にあったとされる。神社本殿北東に径約5間(9.1m)くらいの不正形の隆起がある。
正光寺住職の記憶によれば、明治15、6年頃まで、その中央(現在の狛犬の東3間位の位置)に径1間
(1.8m)以上の礎石があり、それにはその中央に径2尺(60cm)余りの円形穴を穿っていたと。
また社殿背後には石片の散乱と礎石の掘り出しの痕を見る。明治の末ころ、礫の代用とすべく発掘・破砕したと伝える。(昭和はじめには発掘・破壊を目撃した人も現存していたと云う。)
おそらく西向きの法隆寺式伽藍であったであろう。南と東は高くなり、北と西が低い地形、神社西方17間あたりに門脇、馬場脇の字が残り、また東には形の良い田が残る(講堂跡であろう)。
町役場(2個)、正光寺(数個)、個人邸(保井芳太郎邸1個、堀内武太郎邸1個)に礎石を残す。
□西安寺跡実測図 西安寺金堂跡割石散布
□西安寺礎石(町役場保存) 西安寺礎石(正光寺保存) 西安寺礎石実測図
なお正光寺保存礎石は一見柱穴の加工があるように見えるが、円穴自体も擂鉢状であり、さらに下は円錐形の掘り下げで、明らかに庭石に転用したときに柱座を掘り下げて加工したものと思われる。柱座径は1尺8寸(55cm)で大きさからも心礎では有り得ない。しかし、上麺には柱座の周辺部と思われる部分を残し、礎石であることは間違いないであろう。
※古老などの証言の通り、心礎は破壊されたものと思われる。
◎2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
一名を久度寺と云い、聖徳太子建立46院の一つと云うも、沿革は甚だ不明瞭。
古老は塔の心礎が舟戸神社境内に横たわっていたことを記憶している。それは中央に穴が穿たれている巨石であり明治14年信光橋工事の際割りて用いると云う。
★大和西安寺塔跡発掘
2015/03/07追加: ●平成27年度(2015)第3次発掘調査
◎「西安寺跡で塔跡を発掘」という趣旨の報道がなされる。
◇中心伽藍を始めて確認
飛鳥期創建の古代寺院である西安寺跡とされる王寺町舟戸神社境内で、塔基壇や礎石、心柱を据えた心礎の抜き取り穴などが発掘される。
これまで、7世紀前半の瓦が採取されてはいるが、中心伽藍が確認されたのは初めてのことである。
同寺は、聖徳太子建立46寺院の一つという伝承のほか、百済王の末裔を称した渡来系氏族の大原史氏が創建したとの説もある。
文献から16世紀前半までは存続していたとみられるものの、詳細は不明のままである。
発掘調査の結果、楕円形をした花崗岩の礎石2個(長径約1.45m)やその痕跡、心礎を抜取穴(同約1・54m)、花崗岩を積み上げた塔基壇の東端が出土する。その東端と心礎の距離から基壇は一辺約13mと推測され、西安寺塔は法隆寺五重塔などとほぼ同規模と判明する。
※礎石2個は長さ145cm、幅108cnの礎石と、長さ144cm、幅74cmの礎石である。
このほか、縦130cm、横154cmの心礎抜取穴や、心柱の周りに置かれる柱の礎石を抜き取った穴計5個も見つかった。
遺物はほとんど出土しないが、町教委は形状などから、7世紀後半〜8世紀初めのものとみている。
また炭や焼けた壁土が堆積し、礎石にも火を受けた跡が残ることから、火災に遭っていたことも分かった。
従前、地形などから、西安寺は西を正面にし、北側に塔、南側に金堂が並ぶ法隆寺式伽藍配置と推定されてきたが、今回の調査では、金堂の推定場所からは遺構が見つからず、金堂は塔の北側にあった可能性も検討する必要がでてきたという。今後の調査で伽藍配置を解明する必要性が高まったのではないかと思われる。
西安寺塔跡遺構1:向かって左は心礎抜取穴、中央は2個の礎石、礎石間などに焼土が見える。
西安寺塔跡遺構2:担当者が示すところが心礎抜取穴。
西安寺塔跡礎石:以上は産経新聞
より転載
塔跡心礎抜取穴:手前が心礎抜取穴である。
:NHK奈良放送局放送 より転載
◎2015/03/07撮影:
塔跡の発掘調査は当面終了し、現地説明会を待つ状態である。なお、現地説明会修了の後遺跡は埋め戻されるという。
西安寺塔跡3 西安寺塔跡4 西安寺塔跡5
船戸神社は現地の説明板によれば、「衝立船戸神は、伊射奈伎神が投げ捨てた杖から化生した神」云われるという。
この話は、おそらく、江戸後期か明治初期に国家神道家がそのように祀りあげた類型のような話で、「かっては春日神社と言われていた」ということでもあるので、何のことはない春日明神が国家神道によって皇室の祖先に結び付けられ、船戸神社とされたということであろう。
船戸神社現況2 船戸神社現況3:東から撮影、写真中央が西安寺塔跡。
真宗西光寺は町中の小寺で、寺門と本堂の間が庭になる。庭には上記で取り上げた「西安寺礎石(正光寺保存)」以外にも礎石と思われる石が2,3散見されるが、柱座などがある訳ではなく、礎石かどうかは分からない。住職の夫人の談では「どれが西安寺伝来のものかは今となっては分からなくなっている」ということであった。
西安寺礎石(西光寺保存)2 西安寺礎石(西光寺保存)3 西安寺礎石(西光寺保存)4
町役場に保存という西安寺礎石については、役場付近を調査し役場の当直者に訪ねるも有無及び所在は分からないままである。
(2015/03/08:王寺町南小学校にあるという。)
◎2015/03/08撮影(現地説明会)
塔跡トレンチ遺構経変図
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●塔跡トレンチ遺構経変図:左図拡大図;現地説明会配布資料
今般の発掘で、心礎抜取穴痕跡、四天柱礎抜取穴痕跡4個、原位置を保つ脇柱2個(東中央間礎石)、基壇東端の基壇外装が発掘される。
以上により、塔跡であることが確定され、塔の規模、基壇規模がほぼ確定される。
塔の一辺は、脇柱礎1と2との柱間は2.15mであり、四天柱1と4と脇柱礎1はほぼ当間に並ぶので、当間で2.15×3mつまり6.45mと推定される。
また側柱から基壇の端までは3.27mを測り、建物規模と合わせると、塔基壇は12.99mと計算できる。この規模は大和法隆寺五重塔と同規模である。
脇柱の柱座、地覆の状況や心礎は地上式であるtことなどから、飛鳥末期/奈良初期の塔跡と考えられる。
心柱は抜き取られ、上に掲載の「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作の記述を裏付ける結果となる。これでほぼ心礎は破壊されたことが確定する。
脇柱礎1の大きさは145×108cm、脇柱礎2は144×74cm以上である。花崗岩製。
何れも熱によって変色している部分があり、また熱による亀裂も見られる。
基壇東端では幅70cm前後、厚さ24〜30cm、高さ21〜38cmの花崗岩が外面を意識して並べられる。基壇外装は乱石積基壇であったのかも知れない。しかし近くで凝灰岩の欠片が多く出土するので、外装は凝灰岩であったかも知れない。
基壇の上面には12〜13cmの炭が層となって堆積していた。
また基壇上面には床か壁に仕上げに塗られていた白土が堆積する。
何れにしろ、狭い範囲で、これだけの遺構が出土するとは、よほど遺構の残存状況が良いものと思われる。
なお、町役場(2個)の礎石は現在は、本廃寺のすぐ南の丘上にある王寺北小学校に置かれるという。(未見)町の発掘担当者の弁によれは、この礎石は大和川から運んだという。
本廃寺から護岸などの石として搬出され、再び大和川から遺物として取得されたということであろうか。 |
○出土瓦
出土瓦1:素弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥期)
出土瓦2:単弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥期)
出土瓦3:単弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥期)
出土瓦4:重弧文軒丸瓦(飛鳥期)
出土瓦5:均整唐草文軒丸瓦(平安期)
出土瓦6:均整唐草文軒丸瓦(平安期)
出土瓦7:巴文軒丸瓦(鎌倉期)
○新想定伽藍配置
春日明神本殿の裏手にトレンチを設ける。これは「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作に従って金堂跡を探るものであった。
しかし、このトレンチからは基壇の遺構は存在せず、石田茂作の伽藍配置(法隆寺式)は崩れ去ることとなる。
この伽藍配置を旧とすれば、新しい伽藍想定図が示される。
新予想伽藍配置図:いわゆる法起寺式伽藍配置である。
石田氏によれば、西側に「門脇」「馬場脇」の地名があったといい、伽藍は西面していたと思われる。
春日明神の境内から西に延びる小路があり、これを伽藍中軸線と考えると、塔跡北に金堂跡に相応しい地形が残っていることが分かる。
2017/12/09日撮影:(現地説明会): ●平成29年度(2017)第7次発掘調査
塔跡発掘図
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出典:「西安寺跡第7次発掘調査 現地説明会資料」王寺町教育委員会
今般の調査は第3次調査を拡張する形で調査区を設定し、礎石3個、礎石抜取穴1基、乱石積基壇を検出する。
●西安寺塔跡発掘図:左図拡大図
以下に示すように、東脇柱礎石が3個残存しまた乱石積基壇も良好に残存することが判明する。 その結果、塔の建物規模及び基壇規模がほぼ明らかになる。
即ち
西安寺塔は唐尺(1尺30cm)を基準とし、柱間は7.5尺(2.25m)の等間であり、従って初重平面は一辺22.5尺(6.75m)を計る。基壇の出は11尺(3.30m)、基壇1辺は44.5尺(13.35cm)で造営されたものと判明する。
大和西安寺塔規模概要図 |
●今後の調査予定 平成28年(2016)の発掘調査で金堂跡と推定される遺構が発見されるという。
その発見された遺構とは塔跡の北側と思われ、次年度以降、金堂跡と想定される地点を発掘する予定という。
2020/12/13: ◎西安寺跡第10次発掘調査現地説明会
○「西安寺跡第10次発掘調査現地説明会資料」 より
西安寺跡空撮
◇今までの、9次に渡る発掘調査で次のようなことが判明する。 塔跡:
現拝殿の北東に塔があり、乱石積の基壇を持つ一辺13.35mの基壇に、3間等間の一辺6.75mの初重が建っていた。7世紀末〜8世紀初頭に建立されたものと推定される。
金堂跡:
塔の北側に金堂跡が位置する。東西14.07m、南北12.18mの基壇規模で、外装は乱石積である。建物規模は桁行5間梁間4間である。
伽藍配置:
南向きの四天王寺式伽藍配置と考えられるが、西向きの法隆寺式の可能性も捨てきれない。あるいは大和川に対面する北向きであった可能性もある(現船戸神社は北向きであることはこれを踏襲してとも考えられ無くはない。)
東回廊: 金堂東には上端幅4.76mの基壇を持つ回廊が発掘される。 金堂北の版築層:
金堂北には基壇を伴う講堂跡はないが、7世紀後半頃の版築層が認められる。 ◇第10次発掘調査
塔基壇の南端付近から、南廻廊あるいは中門を確認するため、南方向を発掘する。
塔南端では乱石積基壇が良好な状態で出土、基壇高は1.09mである。
塔基壇外装から南へ5.5mの地点で幅1.1m、深さ30cmの溝を、さらにその南側では、溝底から48cmの高さを持つ基壇状の高まりを検出。
この高まりは南回廊の可能性が高いと判断される。但しこの高まりが中門跡とも考えられるが、階段は検出されず、回廊跡の可能性が高い。
以上の塔跡南のトレンチとは別に、西回廊とされる位置にトレンチ(第10次・西側トレンチ)を設定、しかし西回廊や中門に該当するような遺構は発見されず。
神社西側は一段下がる地形のため、西側遺構は後世削平されてたものと推定される。
西安寺推定図 2区トレンチ平面図:第10次・塔南トレンチ
2020/12/13撮影:
塔乱石積基壇南辺1 塔乱石積基壇南辺2 塔乱石積基壇南辺3 塔乱石積基壇南辺4
南辺回廊?雨落溝1 南辺回廊?雨落溝2 南辺回廊?雨落溝3
西安寺塔金物1 西安寺塔金物2 西安寺塔金物3
第10次・西側トレンチ
2006年以前作成:2021/02/01更新:ホームページ、日本の塔婆
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