丹後天橋立・丹後智恩寺・丹後成相寺五重塔・丹後国分寺跡・丹後「薬師の塔」

丹後天橋立・丹後智恩寺・丹後成相寺五重塔・丹後国分寺跡・丹後「薬師の塔」

丹後天橋立

雪舟「天橋立図」(国宝・京都国立博物館蔵): 「水墨美術大系 第7巻 雪舟・雪村」講談社、1979 より

雪舟「天橋立図」:下図拡大図(2012/06/27画像入替)

「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」管理者:前野幸夫氏は次のように述べる。
 この図の制作年代には諸説がある。つまりこの図の智恩寺には「宝塔」が描かれるが、この「宝塔」が明応9年(1500)建立とされ現存する多宝塔を描いたものなのか、あるいは明応9年建立の現存多宝塔以外の「宝塔」を描いたものかがはっきりとは分からない。
 雪舟が明応9年(1500)建立とされ現存する多宝塔を実見し描いたのであれば、この図の製作年代は明応9年(1500)以降となる。
しかしながら、子細に観察すればこの図の「宝塔」を現存する多宝塔とするには多くの疑問がある。もしこの図の「宝塔」が現存する多宝塔以外の「宝塔」を描いたものならば、製作年代は明応9年以前となるのである。・・・・(下に詳細を掲載)
ともあり、いづれにせよ、「天橋立図」は雪舟作で西暦1500年前後の制作であること、またかなり正確に当時の景観を描写していることについては諸説は一致するとも云う。
  ※2012/06/27追加:「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」は現在廃止されているようである。
  なおこの絵には
塔婆として、智恩寺の塔婆(現存多宝塔か、または別とも解される宝塔の何れか)、大谷寺の北斜面上の宝塔(薬師の塔)、成相寺三重塔、丹後国分寺五重塔が描画される。

2007/10/20追加:「O」氏ご提供画像:2006/02/10撮影:成相寺(推定)から宮津方面を望む。雪舟「天橋立図」とは逆の俯瞰である。

「成相寺参詣曼荼羅」(桃山期とされる。成相寺蔵) ・・・合計5基の塔婆が描かれる。

成相寺参詣曼荼羅」(桃山期、成相寺蔵) ・・・合計5基の塔婆がある:左図拡大図
   (2007/11/29画像入替)

1)知恩寺多宝塔(図左下)
2)籠神社から成相寺仁王門に至る北の参道途中の寺院(大谷寺附近・図右端中央)
  の多宝塔
3)籠神社から成相寺仁王門(楼門)に至る西の参道途中の坊舎にある多宝塔
  (図中央やや右下)
4)成相寺仁王門を入ってすぐの坊舎(仁王門の左手)にある多宝塔
  ※本坊惣持院と推定される。(下に掲載)
5)成相寺五重塔はおおむね再建された現塔婆のある位置付近に描かれる。

成相寺は本堂(本尊観音菩薩)を中心に、五重塔、中門、仁王門などの堂塔、塔頭子院があり、山腹には真名井道、大谷(傘松)道、小松道などの参道が府中の門前町へと続く様子が描かれる。

   ※3)の多宝塔についての情報は皆無。

2007/11/29追加:
成相寺参詣曼荼羅:150×127cm
図上部には成相寺を描き、図中央に成相寺惣門(楼門・仁王門)がある。惣門左の築地塀に囲まれた堂塔は本坊惣持院と推定される。
 (「天橋記」では、仁王門左に本坊惣持院、此書院より眺望すれば與佐の海・・・云々の記載がある。)
さらに、惣持院の奥(画像左端)の築地塀に囲まれた板葺・蔀戸の大型建物があり、惣持院住僧の建物であろう。
吉祥院、聖智院、慈性院、明王院、文聖院などの坊舎は惣門を入った右に描かれた板葺の8宇の坊舎と思われる。
惣門の正面の一段高い石垣上に本堂があり、その前にある「舞台のような」建物は礼堂(貼紙)である。
五重塔左は八幡宮拝殿と八幡宮(何れも貼紙)があり、本堂右後(北東)には熊野権現鳥居・拝殿・本殿がある。

2010/04/05追加:
 丹後成相寺惣持院跡:成相寺仁王門を入って、すぐ左手に石組を持つ平坦地がある。
 かなりの大きさがあり、更に奥の上段にも平坦地がある。下段の平坦地が惣持院跡と推定される。
 ※成相寺仁王門:サイト「ぷひぷひ探検隊」の成相寺のページ より転載
     この写真の山門向かって左奥に惣持院跡と推定される平坦地がある。但し、跡地は建物陰で殆ど写真には写らない。
  ※他のサイトから写真を拝借した理由は、帰路デジタルカメラを紛失、従って推定惣持院跡などの写真も紛失したからである。

「丹後国天橋立之図」 、福岡藩儒貝原益軒など解説、享保11年(1726)
  「扶桑名勝図」の内の「丹後国天橋立之図」で、「丹後国天橋立之図」の図の6面のうち、2〜4面の部分図

丹後国天橋立之図」:上図拡大図

左に天橋山智恩寺、中央やや右より上方に丹後国分寺、右やや中央より上方に成相寺、その下方に大谷寺が描かれる。
塔婆としては天橋山智恩寺多宝塔のみとなる。

2007/11/29追加:
「与謝之大絵図」(部分図・橋立周辺図)

 与謝之大絵図1(部分図・橋立周辺図):江戸期と推定、成相寺蔵・・・但しトレース図
   成相寺(本堂・仁王門・熊野権現・子安地蔵など)、丹後国分寺消息、大谷寺、篭宮、智恩寺、弁才天などの様子を知ることができる。


丹後智恩寺多宝塔(重文)

明応9年(1500)丹後国守護代の府中城主延永修理之進が建立(銘文による)。
一辺4.8m、高さ18.1m。塔本尊:金剛界大日如来。

 丹後智恩寺多宝塔1
   同        2
   同        3:左図拡大図
   同        4
   同        5

2005/02/10:「N」氏撮影:
 丹後智恩寺多宝塔

2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 丹波智恩寺多宝塔11
   同        12
   同        13
   同        14

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◆雪舟「天橋立図」智恩寺部分図:「水墨美術大系 第7巻 雪舟・雪村」より

 2012/06/27追加:雪舟「天橋立図」智恩寺0:部分図0

中央やや左に「宝塔」、そのやや右上は弁財天女堂、左下の門構のように見える一対のものは石地蔵

雪舟「天橋立図」智恩寺1:部分図1         雪舟「天橋立図」智恩寺2:部分図2

「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」管理者:前野幸夫氏は「雪舟『 天橋立図 』を丹後から解く」のページにて、この智恩寺塔婆について以下の見解を述べる。
  ※2012/06/27追加:「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」は現在廃止されているようである。
この図の「多宝塔の形と色が・・・・現存塔婆と余りに異なる。白漆喰に赤い色(ベンガラ)が塗られている・・・
また「
多宝塔の位置・・・現存する延永(寄進者名)多宝塔の位置よりかなり上(西)、現在は駐車場になっているところ」に多宝塔が描かれている。さらにこの「漆喰の宝塔は天女島を背にしてい る。
  ※天女島とは宝塔の斜め上に浮かぶ(推定)弁才天女堂のある島を云う。
 以上によって、この絵の「宝塔」は
天女島の門――俗世から極楽異界への入口、華やかな舞台装置としての門。この門越しに弁才天女に手を合わす。これなら、白漆喰にベンガラ塗りは相応しい装いでしょう。実際に参詣人が潜って社前まで行くわけではないので、胴部の真ん中に丸窓が開いているように見える。ここから社殿を仰いだのでしょうか‥。
 ただし、この宝塔がいつ建てられどの時代まであったのか、現時点では判っていない。描いているのは雪舟『天橋立図』だけで、同じ室町時代の『天橋立・富士三保松原図』にも描かれていないからです。

以上のことから、雪舟が『天橋立図』を描いたのは――もっと正確に言うなら、雪舟が天橋立へ来てスケッチしたのは、1500年より前のことだと考えらる。
雪舟は、智恩寺多宝塔を見ていないから描いていないという、至極当然の結論に達する。

 という見解を述べる。
確かに図柄では、多宝塔ではなくて、宝塔の形に見える。また位置も厳密に解釈すると現状の位置とは合わないのも事実であろう。
 (この認識に立てば、「雪舟は、智恩寺多宝塔を見ていないから描いていない」という結論になる。)
要するに、この図の「宝塔」は現存多宝塔を描いたものでなく、全く別の「宝塔」を描いたものであろうと云う。
しかしこの全く別の宝塔については、「この宝塔がいつ建てられどの時代まであったのか」は分からない、なぜなら「描いているのは雪舟『天橋立図』だけ」 であるから、と云うことにならざるを得ない。つまりは現多宝塔とは全く別の宝塔については、存在の有無も含めて、全く情報がない。
 従って、現時点では、この智恩寺に描かれている宝塔が現存多宝塔なのかあるいは別の宝塔なのかは不明とするしかない。
しかしながら、この宝塔が「胴部の真ん中に丸窓が開いて」「ここから社殿を仰いだ」「天女島の門」のような 形状と機能を持つように見えるのも確かなことであろう。
確かに、竜宮門のような門(天女島の弁才天女の拝所の機能がある)にも似た「宝塔」を描いたものとすべき見解も説得力を持つのである。

2012/06/27追加:
時代や国や歴史などの背景は全く違うが、単に形状だけが似ている「宝塔」は石造ではあるが、存在する。
 即ち、京洛東福寺塔頭勝林寺石造宝塔である。
この方塔の塔身は、木造塔に見られるような上部を球面状に始末する円筒系ではなく、卵を縦に立て、その上下を切り取った(下部の切取りが上部より大きい)ような形状を呈する。その立面はあたかも下脹れの楕円形に見える。
さらに塔身の中央には方形の穴を彫り、それは裏まで貫通させるので、裏を見通すことができる。
他に
○上諏訪社御鉄塔:
上宮のご神体であった。寛永八年(1631)諏訪忠恒(高島藩主)が2度目の再興をしたとき、現状の石製多宝塔に改められたと伝える。明治の神仏分離で現在は諏訪温泉寺多宝塔内に安置される。塔身中央には貫通している思われる方形の穴が彫られる。
  → 信濃諏訪大明神神宮寺の上社及び温泉寺の項を参照
○京都妙覚寺華芳塔(石製宝塔);
笠と胴の間に一穴を穿ち、日蓮上人自筆の経を納めると伝える。(叡山に修行中の上人が法華経を写経、宝塔に納める。)
元亀2年(1571)信長の叡山焼き討ちで、他所に移され、その後、当寺に移されたと伝える。
 ※山本修理亮なるものが叡山で見つけ、妙覚寺に納めるとも云う。(寺伝)
なお、この宝塔は焼損を残し、形はかなり崩れていると云う。
日蓮上人存命中の製作なら、鎌倉期のものとなる。
  → 京都妙覚寺の華芳塔の項を参照
○近江園城寺別院世喜寺
未見に付き写真はないが、関寺牛塔もやや似た形状を持つ。鎌倉初期、高さ3.3m、重文。石造宝塔としては最古最大といわれる。
 → 近江三井寺

◆智恩寺多宝塔に関する若干の古絵図・写真など

○成相寺参詣曼荼羅
 成相寺参詣曼荼羅(智恩寺) :智恩寺には多宝塔が描かれる。

○「丹後国天橋立之図」 、福岡藩儒貝原益軒など解説、享保11年(1726)
  丹後国天橋立之図(智恩寺):智恩寺部分図 :智恩寺上方に「天女島」が描かれ、その島には弁才天女堂が描かれる。

○「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」管理者:前野幸夫氏の解説
  ※2012/06/27追加:「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」は現在廃止されているようである。
「江戸時代後期までの画にはこの天女島が描かれるが、明治12年(1879)、埋め立てのため建物は陸上に移され、島は消える。
さらに、社殿は智恩寺本堂前に移築され、現在は鎮守堂として祀られている。」

○2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 智恩寺弁財天女堂

○2007/01/01:「Y」氏ご提供
 安藤広重「天のはし立」:「日本選景」日本文化振興会、昭和12年、掲載木版摺り

○2007/08/08追加:「京都府写真帖」京都府、明41年 より
 丹後橋立智恩寺  (智恩寺は臨済宗妙心寺派 )

知恩寺発行リーフレット(1970〜80年年代か)をスキャンしたもの
 丹後智恩寺多宝塔9

○2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:本はがきの年代は通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 文殊智恩寺多宝塔

2022/06/29追加:
「ふるさとミュージアム丹後」2022年春季企画展
 「海上禅叢−天橋山智恩寺の名宝から−」ルーフレットから
 智恩寺多宝塔(重文)     大日如来坐像:文亀元年(1501)銘という。多宝塔本尊と云う。


丹後国分寺跡(史蹟) ・・・史跡は中世丹後国分寺跡である。
2013/06/12修正・追加:「中世再興後の丹後国分寺の寺地移動について」吹田直子(「京都府埋蔵文化財論集 第6集」京都府埋蔵文化財調査研究センター、 2010 所収)より修正・追加

創建時丹後国分寺(古代丹後国分寺、天平丹後国分寺)

古代丹後国分寺の寺地、その実態などは詳らかでないと云う。
古代丹後国分寺に関する論考としては「丹後国分寺」中島利雄(「宮津市文化財調査報告 5」昭和57年 所収)などがあると云う。

中世再興丹後国分寺(建武再建丹後国分寺)

2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
現在3つの礎石群を認め得る。字本堂屋敷には約70間四方・高さ4,5尺の土壇が残り、その上に36個の礎石を残す。
字本堂屋敷の西南約50尺の字松原の塔屋敷と云われる地に礎石16個が残る。塔跡であろう。
本堂屋敷の南方約95尺に相対する礎石2個が残存する。蓋し南門址であろう。
しかし何れも礎石は比較的小さく、また配列も粗雑であり、古代の礎石を混在するなど、創建時のものではなく、建武再興以降の遺構と考えられる。なお創建当時の寺地もここであったと思われるが、その規模等は今詳らかにすることを與わず。
塔婆に関しては以下の史料がある。
雪舟筆「天橋図」では堂宇一の左方に五重塔を描く。
寺蔵「建武再興縁起」にはこの塔の記載がない。塔婆は建武以降室町期に再興されたのであろう。
 ※「建武再興縁起」の「供養願文」には金堂(「金堂供養会指図」より5間×6間の堂と知れる)、僧堂一宇、七間僧坊二宇、庫院一宇を
 建立とある。(「金堂供養会指図」は下に掲載)
 従って、建武元年の時点では五重塔などの再興は未だであったのであろう。
天和3年(1683)「流失損害記録」の記載には「本堂、□□重塔<3間4面>、護摩堂、・・・」とあり、塔は天和3年まで存在したことは確かであろう。
 ※天和3年(1683)「流失損害記録」とは同年の「記録覚」(下に掲載)であれば、□□重塔<3間4面>は六間四面とある。
  天和3年まで塔は存続したことは確かではあろが、六間四面とは良く分からない。
 丹後国分寺址塔址実測図他:塔址礎石実測図ならびに国分寺址平面図

○塔礎石16個(心礎はなし)、金堂礎石36個、中門礎石2個が現存する。(礎石は自然石の上面を削平した程度の礎石)
ただしこの礎石は創建当時のものではなく、現存礎石は室町再興時の伽藍礎石と推定される。
即ち、創建時の伽藍はいつしか退転し、建武元年(1334)金堂が再興されたのである。
なお、現在残る遺構は雪舟「天橋立図」(室町期)中の伽藍配置と近似するとも云う。
さらに本堂(金堂)供養会指図<「丹後国分寺再興縁起」(重文)>は金堂跡の礎石配置とほぼ一致するという。
 ※再興縁起・金堂供養会指図:金堂跡平面図付加は下に掲載。
しかしこの伽藍も天文11年(1543)兵火で焼失する。
 ※天文11年の「当寺伽藍荒廃之覚」が根拠であろうが、本古文書は下に掲載。
 丹後国分寺塔跡1        同        2        同        3

○現在残存する基壇等の遺構は建武元年(1334)の再建国分寺と考えられる。(天平国分寺は不明)
 2012/06/27追加:
  雪舟「天橋立図」(国分寺):部分図1:2012/06/27追加
  雪舟「天橋立図」(国分寺):部分図 2
   ※雪舟「天橋立図」では五重塔が描かれ、建武再興(天文焼失)塔婆は五重塔であったと推定される。
  丹後国天橋立之図(国分寺):部分図: 享保11年(1726):
   ※建武再興塔婆は焼失し、その後再興されることは無かったので、享和年中のこの絵には塔婆は描かれない。

○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8
今の本堂屋敷(金堂跡)、その西南の塔屋敷にある礎石は創建当時のものでなく、建武元年円源が再興したものであろう。
塔屋敷は西塔跡であろう。(東塔はなく西塔のみの伽藍配置と思われる。)なお、本堂屋敷の南には8世紀の門跡を存する。

○「中世再興後の丹後国分寺の寺地移動について」
本論考では中世再興国分寺の再興・廃絶と近世国分寺再興の事情が寺蔵文書で推論される。
中世国分寺は律宗西大寺の宣基上人によって、嘉暦元年(1326)勧進が開始される。
中世の丹後国分寺を知る最も有力な史料としては「丹後国分寺再興縁起」(寺蔵・南北朝期)がある。ここでは、金堂供養指図に於いて、金堂の具体的姿を知ることができる。
 再興縁起・金堂供養会指図:金堂跡平面図付加
以下中世の興亡が古文書や豊富な近隣史料で推論を交えて論じられる。(内容は省略)
その内の一点だけ内容を転用すれば、天文11年に焼失と云う根拠は寺蔵の「当寺伽藍荒廃之覚」である。
 当寺伽藍荒廃之覚:天文11年(1542)国分寺伽藍の炎上を伝える。
但し、天文11年の府中の兵乱とは具体的にどのような兵乱であったのかは現在の知見では明らかにすることができない。

近世再興丹後国分寺(現存国分寺)

国分寺跡の北方の山鼻に近世再興丹後国分寺(国分字丸山、高野山真言宗)が現存する。

○「中世再興後の丹後国分寺の寺地移動について」 より
「記録覚」(江戸期、年月未詳)と称する寺蔵文書一通がある。
 丹後国分寺「記録覚」
ここには天和3年(1683)に国分寺一山が洪水で破損したと記す。
本堂、■重塔、護摩堂、鎮守、天王、梵鐘、国分寺、長良坊とあり、江戸初頭まで、これ等の堂塔が存続していたものと推測される。
但し■重塔の六間四面とは良く分からない。本堂規模も礎石が残る中世の金堂(6間×5間)とは規模が相違し、中世再興の金堂や五重塔が江戸初期まで存続していたかどうかは不明である。
 丹後国分寺付近小字
字長老防には長老坊があり、天和3年時点の本堂は本堂屋敷にあったのかも知れない。なお天王は今も資料館敷地に「天王社」と称する小祠が残り、流失の後再建されたものと思われる。
なお、明治40-42年の「本堂新築一件綴」に国分寺境内配置図があり、当時の国分寺境内建物と現史跡地の金堂跡、塔跡、門跡のほか庫裏跡、護摩堂跡、長老坊の跡地の記入がある。本図の作成の根拠は現状では得られないが、庫裏跡、護摩堂跡の遺構もしくは伝承が当時はあったものと推定される。

○Web情報によれば、
1)明治21年、現国分寺に安置の丹後国分寺丈六仏の胎内像と称する金銅観音菩薩半伽思惟像が、盗難に遭う。
長くその所在が不明となっていたが、近年、大阪府下の美術館に収蔵されていることが判明する。
2)大坂府下の美術館である正木美術館に「伝丹後国分寺本尊胎内仏(白鳳)」とする「弥勒半跏思惟像」を蔵する。
 弥勒半跏思惟像:伝丹後国分寺本尊胎内仏(白鳳)、正木美術館蔵

丹後国分寺異説

2007/06/09追加:
○「国内神名帳」と国分寺--『丹後国内神名帳』と丹後国分寺--」(「国内神名帳の研究 論考編」三橋健、おうふう、1999 所収)より
天平建立の丹後国分寺は鎌倉末期荒廃し、円源房宣基によって再興される。宣基は西大寺叡尊に繫がる僧侶と言われ、西大寺の国分寺復興運動の一つといえよう。
嘉暦2年(1327)手斧始め、建武元年(1334)上棟式と伝える。雪舟「天橋立図」はこの再興の国分寺とされる。
永正4年(1507)若狭武田元信と細川政元が府中城を攻め、この戦火で灰燼に帰す。
現丹後国分寺(与謝郡国分・現宮津市)は国分寺跡東北に所在し、奈良期軒丸瓦などを伝存する。
また当地の関連で文献上に残る地名・現在も当地に残る地名、何より上記の伽藍跡などから、与謝郡に国府・国分寺が所在したことは明白と思われる。
 ところが、丹後国分寺所在に関して、異説がある。
加佐郡和江村(現舞鶴市)小字堂の奥に国分寺を称する寺院跡がある。
寺院は天暦10年(956)に焼失と伝え、方5,5mに礎石があり、平安期の布目瓦が出土した。
「丹後加佐郡旧語集」:「国分寺、仏国山、今ハ寺ナシ、和江村ヨリ戌亥ノ方谷ニ寺跡礎有、毘沙門堂有、津鹽丸隠セシ寺ナリ」
「丹哥府志」:「・・・和江村に国分寺跡あり、仏国山と号す、一国一寺の国分寺に非ず、和銅6年丹波5郡を割りて丹後の国を置く、是時宮を造りて元明帝を祀り、郡立明神と称す、又供養のために一ヶ寺を建立す、蓋仏国山国分寺は其寺なりと云ふ」
 現状(未見)は毘沙門堂一宇(平成5年造替)が残る。なお「山椒太夫」の安寿姫と厨子王丸が匿われた寺はこの国分寺と伝承する。
 ※但し、地形図で確認する限り、この地は狭隘で、国分寺の伽藍を建立する適地とは思われない。
なお丹後国府の所在は「和名抄」「延喜式」とも(与謝郡)ではなく、在加佐郡とする。通常国府と国分寺とは隣接するとすれば、国府の所在とも合わせて検討する必要があろうとも云われる。

2007/11/29追加:
○「与謝之大絵図」(部分図・和江国分寺跡周辺図)
 与謝之大絵図2(部分図・和江国分寺跡周辺図):江戸期と推定、成相寺蔵・・・但しトレース図
   中山渡の西方山中に国分寺跡と明記される。


丹後成相寺五重塔

成相寺古図

雪舟「天橋立図」
 雪舟「天橋立図」(成相寺):部分図1:2012/06/27追加:
 雪舟「天橋立図」(成相寺):部分図 2
  層塔(五重塔か三重塔かは不明)が描かれる。
  塔の詳細は不詳であるが、断片的な情報を寄せ集めれば、室町期には層塔があり、戦国期に焼失したと思われる。

成相寺曼荼羅図
 成相寺参詣曼荼羅(成相寺五重塔・多宝塔) :
  参詣曼荼羅の性格上、この時期(桃山期)に塔婆があったのかどうかは不明である。
  即ち参詣曼荼羅図であるから、成相寺の盛時の様子を図示したものとも解釈される。

丹後国天橋立之図
 丹後国天橋立之図(成相寺):部分部:享保11年(1726):近世には成相寺塔は既に退転し、描かれず。

再興五重塔
平成11年完成。(内装は工事途中また落慶法要はまだ未実施・・・平成11年現在)
高さ108尺(33m)。純和様を用いた伝統様の木造塔婆である。総工費は10億円を予定。戦国期焼失塔の再興と云う。
仏舎利は心礎に埋納すると云う。

2007/10/20追加:
 「O」氏ご提供画像:
  (2006/02/10撮影)

丹後成相寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5:左図拡大図
  同        6
  同        7

2001/8/12撮影画像:
 丹後成相寺五重塔01
   同         02
   同         03
   同         04
   同         05

2010/04/05追加:
 丹後成相寺五重塔11:成相寺参拝券写真
 丹後成相寺五重塔12:成相寺発行リーフレット
 丹後成相寺五重塔13:同上
2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 丹後成相寺五重塔21
 丹後成相寺五重塔22
 丹後成相寺五重塔23
 丹後成相寺五重塔24
  ※五重塔付近は雨とガスに覆われ、
  写真撮影には最悪のコンディションであった。

成相寺:世屋山と号する。高野山真言宗。西国観音28番札所。
慶雲元年(704)創建と伝える。
応永7年(1400)山崩れ、坊舎60余り流失。現在地に再興。五重塔、三重塔なども造営される。「成相寺古記」
永正4年(1507)、天文14年(1545)に焼亡する。

2007/10/20追加:「O」氏ご提供画像:(2006/02/10撮影)
 丹後成相寺本堂:安永3年(1774) 再建。5×5間、入母屋造、屋根銅板葺、正面千鳥破風・軒唐破風。
 丹後成相寺鐘楼:江戸期建立

2007/11/29追加:
2007年3月発表(宮津市教委):新聞報道
 現本堂北へ約300m(標高約400m)に平坦地があり、ここから東西約22m、南北約14mの建物跡を発掘。土器破片などのから、10〜14世紀に造営された本堂と推定される。また、同地からは8世紀後半とされる須恵器や土師器の杯も出土し、創建時期が遅くとも奈良後期であると推定される。(※応永7年の山崩・伽藍崩壊の旧伽藍地と推定)
附近には70カ所を超える造成平坦地があり、建物の石列、井戸跡なども発掘され、僧坊などの存在も明らかと思われる。


薬師の塔」(丹後大谷寺右上斜面宝塔)

◆雪舟「天橋立図」

2012/06/27追加:雪舟「天橋立図」(大谷寺):部分図1

当図の中央に大谷寺、右上に「宝塔」、左上は今熊野、下の右に薦大明神、薦大明神の左横上は不動、その左は忍橋が描かれる。

 雪舟「天橋立図」(大谷寺附近):部分図 2:左図を含拡大図
大谷寺右上斜面に「宝塔」が描かれる。

この宝塔については、詳細は不明であるが、大谷寺宝塔というより
「薬師の塔」という伝承の塔が相応しいという見解がある。
<現地は未見・未調査のため、可否につき判断不能>
参照:「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」

「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」管理者:前野幸夫氏は「雪舟『 天橋立図 』を丹後から解く」のページにて、この大谷寺塔婆について以下の見解を述べる。
  ※2012/06/27追加:「Webサイト『丹後情報蔵』MAENO」は現在廃止されているようである。
「籠神社背後の宝塔:
籠神社の背後に、朱で彩色された宝塔が描かれる。
 これまでは、描かれた位置から推測して、大谷寺上の不動堂の場所に宝塔があったのではないか――と見られていた。
しかし、不動堂の東250m、真名井川の谷口右岸に「薬師の塔」があった――と地元に伝えていることから、現在では、雪舟がその薬師の塔を描いたと理解されている。ここは今も小字「薬師」の地名が残っており、写真(割愛)右の竹林の中には、多くの屋敷跡が残る。」
と。
 ※以上の傾聴すべき見解がある。この見解に対し何等判断する材料を持ち合わせてはいないが、ここには何がしかの伽藍があり、「薬師の塔」と伝承されるように、何等かの「塔」があったと推測される。

 「薬師の塔の形状は、智恩寺の宝塔とは明らかに異なる。智恩寺宝塔は下部がドーナツ状であるが、薬師の塔は逆U字状で、潜って奥へ入れる構造をしているように見え、屋根の稜線も、智恩寺宝塔は浅く反り、薬師の塔はわずかに膨らんでいるようで ある。薬師の塔は唐様と言うか、竜宮城の絵に描かれる門のような形状で、雪舟はそれぞれの塔を明らかに違えて描いている。」
と。
 ※両者とも、常識的には、平面円形の卵形塔身に一重屋根(組物もあるように見える)を架し、相輪を建てた宝塔と解すべきであろう。
また塔身の内側の逆U字は「潜って奥へ入れる構造」つまり「門」のような形状ではなく、これも常識的には「扉」と解するべきと思われる。

○成相寺参詣曼荼羅図
 成相寺参詣曼荼羅(籠神社大谷寺付近・多宝塔2基)
図の右上多宝塔が「薬師の塔」を想定していると思われる。
ほぼ中央の多宝塔は性格が不明、籠神社あるいは大谷寺関係の塔婆であるか、あるいは成相寺子院関係の塔婆とも考えられる。
左上の多宝塔は成相寺仁王門内にあり、有力な子院(本坊惣持院)の塔婆と思われる。

○丹後国天橋立図
 丹後国天橋立之図(成相寺):部分部: 享保11年(1726):近世の図では、大谷寺などは確認できるが、塔婆の痕跡などは全くなし。

2010/04/05追加:
大谷寺概要:真言宗、天蓋山と号す。
大谷寺から成相寺への参道(大谷道・不動坂)が現存する。
参道の開始付近の左右に一坊と不動堂を残す。一坊は下記で云う「向坊」か?。
中世には丹後籠神社の別当と云う。
智恩寺多宝塔再建の惣奉行であり、十万を越える不動明王を描くと云う室町中期の住僧智海は大聖院に住する。
「丹哥府志」では山城下醍醐から遷ると云うなど、信憑性に疑問があるが、下記のように記される。
 ○「丹哥府志」
   (宮津藩の儒者小林玄章・之保<玄章子>・之原<玄章孫>の著、宝暦13年・1763-天保12年・1841)
【天蓋山大谷寺】(真言宗)
 天蓋山大谷寺は元山城国下の醍醐にあり、今下の醍醐に大谷寺の寺跡残る、養老三年(719)丹後にうつす、是時勅して天蓋山大谷寺と號す所謂大谷の道場是なり。皇都の東寺と格を同じくして互に遷住す(東寺記録)
抑開山は何人なるや今明ならす、中古寛印供奉大圓上人延朗上人など住職の如きは詳なり、又覚如上人(親驚上人の孫)成相参詣の日大谷の名したはしとて此寺に一宿せしと其道の記にあり。
先是曾我兄弟駿州富士野において復讐の後北條氏の老姦に欺むかれ遂に殺さる。其頃大谷寺に会向あり、是時五郎十郎回向を頼むと?室より呼ぱはる、よって爲に供養を設く故を以て俗に無縁堂といふ、今十郎の法名高崇院峯巌良雲大禅門、五郎の法名鷹巌院士山良富大居士とするは蓋後の世に拵へたるものなり當時斯の如き法名ありや否やいぶかしとするに足る、事は建久四年にあり。又堂の後より成相の道あり不動阪といふ、蓋大谷寺の寺中に不動明王の像ありよって云ふ。
【向坊】(無縁堂の前)
大谷寺の寺中に金剛薩陲院、尊勝院、往生院、大乗院、大聖院、向坊などの諸院ありしが、慶長年中廃寺となり今存する所は僅に向坊のみ。明応の頃智海及憲海といふ高僧住職す、蓋智海は佛書を能くす、今成相及松尾などに其書残る。
 ※撮影したデジタルカメラ紛失のため、大谷寺関係の写真の掲載はなし。


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