過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2002/01/05〜2002/03/03  )

過去の訪問塔婆履歴

2002/03/03 山城平等院多宝塔跡1
  同         2
  現地説明板復元図
1994年平等院鳳凰堂の南東約150Mの地で、4M×2Mの範囲の石の集積を検出し、多宝塔跡と推定されている。現在は鳳凰堂基壇を参考に塔婆基壇が小公園中に復元されています。文献によると康平4年(1061)多宝塔が藤原寛子によって建立。塔基壇が小規模であり、多宝塔ではなくて宝塔であった可能性もあるようです。現地説明板の復元図も宝塔として描画されています。
山城大鳳寺跡 大鳳寺という寺名が伝承されている。数次の発掘調査により、白鳳期創建の金堂(瓦積基壇)跡を検出。法起寺式伽藍配置を想定しているようです。現状はこの一画だけが畑地として残され、金堂跡と思われる土壇を見て取ることが出来ます。塔跡のあたりは素人目には全く分かりません。
山城岡本廃寺心礎1
  同        2
まったく知られていなかった寺院だったが、宅地開発に基づく発掘調査(昭和60年)で、法隆寺式伽藍配置の金堂(瓦積基壇)・講堂(掘建柱)・塔跡・ニ重の塀跡等が確認され、出土品から白鳳期創建、奈良時代前半に改修された寺院と判明。塔跡から心礎と思われる巨石が出土したとされる。ただし発掘調査報告を読んだわけではありませんので断定は出来ませんが、塔跡の明確な遺構が検出されたようではないようです。また心礎とされる石は自然石のようで白鳳期に自然石を心礎として使用したことには疑問があると思われます。現状は小公園(塔跡)の隅に心礎が説明板とともに保存されていて、金堂跡などは全く住宅地に変わっています。心礎とされる石には楔跡が連続して残されています。これも何時の時代なのか気にかかる点です。
山城浄妙寺跡1
  同     2
浄妙寺は、藤原道長の建立した寺院であった(「御堂関白記」)。この地(木幡)は歴代藤原氏の葬祭の地でありつづけた。道長の現世栄華と木幡に眠る一門の御霊の鎮魂と今後の一門の繁栄の祈念の象徴として建立された寺院であったようです。2回の発掘調査により、三昧堂(一辺15.7M)とその東に同規模の建物跡(多宝塔・寛弘4年<1007>落慶・規模の大きさから大塔とされる)を検出。現状遺跡は小幡小学校校庭に埋め戻され、現地には案内柱のほか見るべきものはありません。
山城三室戸寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
2000/09/30撮影画像を入替
2002/03/03撮影画像を追加
元播磨(佐用郡三日月町)高蔵寺塔。元禄17年(1704)建立。明治43年買取移建。さらに近年(昭和52年頃)本堂右横奥に移建。本堂左横前の台地上の跡地には石造十三塔が建立され跡地としている。きわめて小型の近世的塔ですが、美しく管理されているようです。
当寺は本山派修験宗。西国33箇所10番札所。寺伝では、宝亀年間、宮中に奇瑞があり、光仁天皇の勅命で藤原犬養がこの地を探り、志津川上流岩淵で黄金の仏像を得る。天皇は叡感し御室を移して尊像を安置し、御室戸寺と称したとされる。開山は大安寺行表あるいは智証大師円珍ともいう。康和年間(1099-1104)園城寺隆明上人が中興。文明11年(1479)橋寺と争い焼亡。延徳元年(1489)再興多くの子院があったとされる。天正元年(1573)槙島合戦で足利将軍に加担し再び焼亡。江戸中-後期には山麓に金蔵院を残すのみであった。文化11年(1814)現本堂再興。大正8年(1818)書院と茶室九窓亭を三渓園に売却。清涼寺式木造釈迦如来立像(鎌倉・重文)、木造毘沙門天立像(平安・重文)、阿弥陀堂の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(平安・重文)を有する。鎮守社十八神社本殿(室町・重文・三間社、三間向拝)も有する。
2002/03/06
(X氏ご提供画像)
備後神勝寺多宝塔1
  同        2
みろくの里という観光施設内?にあるようです。多宝塔は昭和の建立ということのようです。おそらく本格的木造塔と思われます。その他のことは現在不詳。
備後福性院二重塔1
  同        2
  同        3
江戸期末の建立とされる。平成に大修理。「瑜祇塔」と称するようで本尊は大日如来のようです。
貞観9年、行教和上が宇佐八幡宮に参籠の途中、郷里に立寄り、宇佐八幡を勧請して一宇を建立、能面山霊光寺を開基したとされる。室町末期、法輪山福田寺と改称。慶長3年、天災により一山鳥有に帰したが、同16年快真僧正が再建したという。
2002/02/23 播磨山田廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
現在心礎は民家の庭石として残されています。寺域は民家の東方向・約200-300Mの地点とされるようです。心礎は目測で1.8M×1.1M×1M前後の花崗岩系の自然石で上部全部を平に加工?している。中心に径20〜25Cmの孔が穿孔されている。寺院の創建は奈良時代と想定されているようです。山田は林田のさらに奥に位置し、北東南は三方の山に抱かれ、西は林田川が南流する狭い盆地状地にある。おそらく古代から近世まで変わらない小規模な生産力をもった地であったのだろうと思われます。
播磨下太田廃寺1
  同       2
  同       3
  同       4
  同  南側柱礎石
  同    薬師堂
四天王寺式伽藍配置と確認されている。東西約115M南北約130Mの寺域とされる。
心礎は1.5M×1,7Mで、中央に径33Cm、深さ16Cmの枘孔がある。現存基壇は東西10M南北7Mを測る。心礎を含め9個の礎石が元位置で残されている。現薬師堂(昭和10年改築)の位置が講堂跡で、ゲートボール場(明治18年まで土壇があったとされる)が金堂跡のようです。出土瓦は奈良前期〜後期のものとされる。なお元薬師堂(万延元年建立)も残されています。
2002/02/23 第三回播磨考古学研究集会に参加。報告および配布資料「古代寺院からみた播磨」から右記廃寺の簡単な要約を掲載します。
(当集会は「X」氏よりご連絡を頂き、参加しました、)

播磨野口廃寺、播磨西条廃寺、播磨石守廃寺、播磨中西廃寺、播磨山角廃寺、
播磨多哥廃寺、播磨上ノ段遺跡(野村廃寺)、播磨椅鹿廃寺、播磨野条廃寺、播磨繁昌廃寺、
播磨吸谷廃寺、播磨殿原廃寺、播磨辻井廃寺、播磨溝口廃寺、播磨多田廃寺、
播磨下太田廃寺、播磨山田廃寺、播磨西脇廃寺、播磨金剛山廃寺、播磨中垣内廃寺、
播磨小神廃寺、播磨中井廃寺、播磨奥村廃寺、播磨越部廃寺、播磨千本屋廃寺、
播磨新宿廃寺、播磨長尾廃寺、播磨満願寺(廃寺)、播磨早瀬廃寺、播磨櫛田廃寺、
播磨与井廃寺

2002/02/10 播磨伽耶院多宝塔01
  同        02
  同        03
  同        04
  同        05
  同        06
  同        07
  同        08
  同        09
  同        10
  同        11
  同      本堂1
  同         2
  同         3
  同   三坂明神1
  同         2
  同         3
多宝塔(重文):正保4年(1647)に小倉城主・小笠原忠政が寄進したと伝える。本尊は弥勒菩薩。初層は和様二手先斗(中央蟇股)、上層は和様四手先斗(扇垂木)。以前、相輪は無く宝珠で代用していたようですが、昭和60年復元。以前の宝珠は塔脇に2組置かれています。
当寺は、大化元年(645)、法道上人を開基とし、孝徳天皇の勅願により建立されたとする。大谷山大谿寺東一坊と称した。平安中期には数十の堂宇と坊舎130余があったとされる。その後羽柴秀吉による三木城攻略の兵火および慶長14年(1609)の失火により、全山焼失する。天和元年(1615)後西上皇(在位1654-63)から伽耶院の称号を賜う。中世以降、聖護院の五院家の1つとして大いに権勢を振るう。
現在の諸堂はそれ以後の再建で、東から多宝塔、鎮守三坂明神社(重文、慶長15年<1610>)、木堂(重文、慶長15年再建、方五間、寄棟造瓦葺)と江戸初期の建築が南面して並ぶ。さらに南に仁王門、本堂西に開山堂、行者堂、本坊、総門としての仁王門が並ぶ。撮影時は雪が舞っていたので、雪が写っています。
播磨蓮花寺多宝塔01
  同        02
  同        03
  同        04
  同        05
  同        06
  同        07
  同        08
  同        09
  同     蟇股
  同     床下
  同     相輪
  同     本堂
  同    仁王門
以前は三重塔であったようですが、延亨4年(1747)の再興塔です。初層は一手先、中央蟇股、脇間は蓑束。上層は四手先(扇垂木)。桟瓦葺き。印象的には無骨な印象です。一応補修が終わって化粧はされていますが、まだ不十分なようです。当寺は大化元年(645)法道上人の開基とする。また空海がこの地で修行ともいう。中世には、18院33坊有ったと伝える、天正7年の羽柴秀吉による三木城攻略の戦火を受け、焼失。その後江戸時代に再建され、今は堂々とした密教本堂、多宝塔、鐘楼、仁王門、鎮守、本坊、坊舎跡などが広い境内にあります。鐘楼の梵鐘は貞和2年(1346)の銘を持つ。
播磨広渡廃寺両塔基壇
  同    両塔模型1
  同          2
  同    伽藍配置
  同    伽藍模型
  同    西塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同    西塔模型
  同    東塔跡1
  同        2
  同        3
  同    東塔模型
史蹟。昭和48-50年に発掘調査が行われ、現在は歴史公園として整備されています。回廊内に東西両塔があり、薬師寺式伽藍配置であった。ただし回廊は講堂とか金堂に取り付くのでは北門取り付き、この点では特異な伽藍配置のようです。東西両塔とも丸い川原石を積んだ乱石積みの一辺10Mの基壇であり、そのとおりに復元されています。西塔心礎については以前は小野市役所とか市民会館前にあったようですが、今は現地に戻されています。当廃寺は7世紀末に建立され、平安期末に廃絶し、本尊は浄土寺薬師堂本尊として遷座したとされる。心礎は(「日本の木造塔跡」による)2.2M×1.45M×82Cmで、径70Cm、深さ17Cmの孔が穿孔されている。なお公園内に100分1(多分)の復元模型が屋外に展示されています。
西塔跡5は現地説明板を撮影。
また現地には、史蹟の整備に加え、史蹟とはいえ単に廃寺跡にしては珍しい立派な「ガイダンスホール」があり、廃寺の説明・発掘の様子・発掘瓦等が展示されています。どうかいつまでも「健在」であることを願うばかりです。
播磨新部廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和43-46年に発掘調査され、東塔・西塔・鐘楼・回廊・中門などの遺構が検出、薬師寺式伽藍配置とされる。創建は白鳳期とされる。ただし現地の現状は田畑・民家・寺院であり、東塔心礎以外には何も往時を偲ぶものはありません。(もっとも東塔の西方に気になる土壇がありますが、実態は分かりません。)東塔心礎はほぼ原位置にあるとされ、今は現地の岩本氏宅の庭先にあります。心礎は(「日本の木造塔跡」による)1.6M×1.4M×1.3Mで中央に径45Cm深さ15Cmの孔が穿孔されている。西塔礎石は流失し京都、大阪から現在は岡山にあるとのことです。
なお現地の案内板は新部廃寺とはせず、大寺廃寺跡と称しています。
播磨河合廃寺金堂土壇
  同     金堂礎石
  同  金堂西方田地1
  同          2
現地の上月氏の田地の地下に心礎が埋まっているとされる。昭和2年に掘り出され、埋め戻され、昭和28年に発掘調査が行われた。(「日本の木造塔跡」による)一辺12Mの基壇面から1.33M下に心礎が発見された。1.9M×2.6M0.6〜0.3Mで、径71.2Cm深さ9〜3Cmの孔があり、さらにその中央に径50Cm深さ21Cmの孔が穿孔されている。現在も心礎は埋め戻されていて、見ることは出来ません。現地には金堂跡とされる土壇(上に粗末な薬師堂と金堂礎石2個が残る)があり、塔はその西方40Mの田地にあったとされる。このことより法隆寺式伽藍配置であったと推定される。寺院は出土瓦から白鳳期の創建とされる。
西方田地1は金堂土壇のおよそ40〜50M地点から撮影。田地2はおよそ100M前後から撮影。ただし、方位は若干ずれているかも分かりません。
播磨河合西廃寺1
  同      2
参考項目(あくまで参考であって、塔婆跡とか文献上塔婆があったということではありません)。
大寺廃寺・河合廃寺の近くにこの廃寺がある。現在の八王子社と薬師堂境内が寺域中心と推定される。出土瓦より平安後期の寺院とされる。前面に池跡があり。浄土伽藍と推定。
写真は八王子社と薬師堂境内と案内石碑。
2002/01/20 播磨北平野廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
本徳寺伽藍など
心礎は姫路本徳寺本堂裏右手の庭の庭石(手水鉢)として健在です。心礎は1,2M×1Mで径60Cmの柱座の造り出しがあり、中心に径30Cm深さ14Cmの孔が穿孔されている(「日本の木造塔跡」)。この心礎は北平野廃寺の心礎とされるが、なぜここにあるのかは、現在情報がありません。平野廃寺は真宗常称寺の西隣のコクゾウサン(虚空蔵さん)の境内に跡があり、礎石が残されているまた礎石は常称寺の庭石にも転用されている由です。
現在、本徳寺は大変荒れているようです。正門・本堂の背後の玄関・庫裏・書院といったような建物は崩壊寸前の箇所もあります。訪問時はご不在のようで、廃寺になったのかと思いましたが、後で近所のお年よりに聞くと住職は住んでいるそうです。大変由緒のある真宗の寺院のようですが、もし心礎のある庭を囲む建物が老朽化のため、取り壊しあるいは寺地が転売にでもなった場合、心礎も転売あるいは行方不明になるのではと危惧します。なお「X」氏情報によると、姫路市教委は本徳寺内には心礎などないという認識のようです。
播磨見野廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
現在、姫路文学館の望景亭の庭に手水鉢としてあります。公共の文化施設である文学館(考古館ではないとしても)内ですから、それなりの心礎としての待遇があるのだろうと思って訪問しましたが、全く冷遇されています。単に庭石の一つとして措かれているだけで、案内に聞いても全く知らないし、案内板の一つもありません。姫路文学館という名称が泣こういうものでしょう。
心礎は望景亭隅に石を組み上げた上に据えられ、手水鉢として利用されています。自然石の一辺を平にして、中央に柱穴を穿孔し、さらに中央に舎利孔が穿孔されています。
望景亭:姫路文学館の一角にあり、もとは大正期に建てられた個人の邸宅を補修したもので、40畳の和室と茶室を備えているようです。今は市の施設として、「文化的な催」に開放されているようです。ついでに心礎もほんの少し「文化的な扱い」をして欲しと思いますが。なお見野廃寺は姫路市南東にあり、白鳳期の創建とされるようです。
播磨市之郷廃寺心礎1
  同         2
  同         3
市之郷薬師堂
山陽線沿北に小さい薬師堂があり、その敷地内に置かれています。現在付近は準工業地区のような様子です。もと心礎は現在位置の南南東約30Mにあり、昭和33年鉄道用地となり、現在地に薬師堂とともに移転されたようです(現地案内板)。「日本の木造塔跡」によれば、山陽線の南にあり、土壇様の北に薬師堂があり、土壇様の中央に心礎があったとする。1・7M×1.1Mでかすかに柱座の造り出しがあり、中央に径37Cm深さ8Cmの舎利孔がある。薬師堂は付近の様子とはかけ離れて、今も信仰の対象のようで、常にお参りの人がいるようです。付近は変わってしまい、また心礎は原位置から移動したとはいえ、現環境が安住の地のように思われます。なお市之郷廃寺は白鳳期の創建とされるようです。
播磨国分寺塔跡1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
塔跡・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・中門・回廊・南大門等の各跡を残す。寺域の北の一角に寛永16年(1639)に再興された現国分寺がある。
現在はほかの他のいくつかの国分寺と同じように、(型どうりに)史蹟公園として整備されています。塔跡は瓦積み基壇が復元され、ほぼ礎石が残こされているようです。
播磨名所巡覧圖會:巻之4より:記事:「・・・・地面に大礎の残りたる甚だ多し」国分寺全図
播磨太寺廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同   柱礎石
  同    塔土壇1
  同        2
天台宗高家寺の山門右脇に塔の土壇があり、4〜5の側柱礎石と心礎がある。東の3ヶは原位置と留めているとされる。心礎は1.15M×0.9Mで中央に径25CM深さ8Cmの孔がある(「日本と木造塔跡」)。同右左著の本文と現地の説明板では心礎は庫裏の手水鉢に転用されているということでしたが、今は塔跡に戻されているようです。訪問した日、ご住職は不在で、推測になりますが、近年庫裏は住宅風に新築され、庭の改装が行われ、その折に心礎を土壇に戻したようです。ちなみに庭には心礎らしき石はありませんでした。もっとも現在置かれている位置は元の心礎の位置ではなく、基壇上の石仏の前の「飾りとして」あるいは「適当に」置いたという感じです。なお境内から奈良時代前期から江戸期までの瓦が出土するようです。
播磨圓満寺五重塔1
  同        2
  同        3
平成5年5月、舎利宝塔・納骨堂として完成。一辺12.5M高さ42M。鉄筋コンクリート。屋根は銅板葺き。外観は法隆寺を模す。初重裳階付き。内部は4階までエレベータ付き、冷暖房完備。外部に非常用の階段が隣接。
高野山真言宗。当寺は天長年間、弘法大師の開基とする無量寿寺の隠居寺のようです。この塔婆を代表として本堂・仁王門など境内全体が「商売」といった感じで、個人的には好感をもつことは出来ません。ただし平野部に建ち、山陽線の車窓からあるいは遠くからでも良く目につく塔です。
2002/01/17 若狭羽賀寺
羽賀寺之図(全図)
同   (部分図)1
同   (部分図)2
同(タイトル部分図)
羽賀寺之景
同(部分図)
三重塔婆扉(内)1
  同   (内) 2
  同   (内) 3
  同   (外側)
塔跡推定地 1
  同     2
本   堂1
本   堂2
本   堂3
本   堂4
本   堂5
本   堂6
若狭神宮寺ご住職から、かっては羽賀寺にも三重塔が存在したことをお聞きしました。
神宮寺・明通寺等からの帰り「若狭歴史民族資料館」に立ち寄り「羽賀寺−日本海交流と若狭−」の冊子を入手。
その中の図版に「羽賀寺之図」があり、三重塔の図を確認し、また塔婆の扉が保存されている記事を拝読。
今般、以上の情報を基に少しでも塔婆の痕跡に触れられたらと思い、当寺に参詣しました。

詳しくは「若狭羽賀寺」のページをご覧下さい。

丹後金剛院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
2002/01/17撮影画像追加。
天長6年(829)高丘親王(平城天皇第3皇子・弘法大師10大弟子の一人・真如上人)によって創建。白河天皇が当山を復興し、勅願寺(慈恩寺と号す)として、三重塔を建立したと伝える。また美福門院も平忠盛を造営奉行に任じ、阿弥陀堂・食堂・浴室なども整備されたとする。往時は金剛院ほか12坊があったとするが、現在は金剛院1坊が守護する。
2002/01/12 若狭神宮寺
当寺古圖再建(全体)
同(主要伽藍部)

同(三重塔)1
同(三重塔)2
同(三重塔)3

同(表題)

同(サイン)

塔跡推定地(開山堂)1
 同          2
 同   (開山堂背後)
本   堂1
本   堂2
本   堂3
本   堂4
本   堂5
仁王門  1
仁王門  2
仁王門  3
本堂拝観のため訪問。ところが思いがけず、三重塔の描かれた「当寺古圖再建」の絵図を拝見しました。

三重塔が明治維新前後まで存在していたようです。

詳しくは「若狭神宮寺」のページをご覧下さい。

若狭明通寺三重塔01
  同        02
  同        03
  同        04
  同        05
  同        06
  同        07
  同        08
  同        09
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同  本堂1
  同     2
  同     3
  同     4
  同     5
  同     6
  同     7
  同     8
三重塔:文永7年(1270)建立。一辺4,18M、高さ約22M、桧皮葺。昭和32年解体修理。
鎌倉期の純和様で構成される。初重中央間を10支、脇間を8支とし、上層へは中央間を2支、脇間を1支ずつ減じている。正面釈迦三尊背面弥陀の三尊六躰を安置する。
当寺は棡山と号する。真言宗御室派。創建は桓武天皇の時代・大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して創建したという。往時は24坊があったとする。
本堂:国宝。正嘉2年(1258)再建。梁間5間、桁行6間、入母屋造桧皮葺。大正2年解体修理。鎌倉期の純和様の仏堂であるが、頭貫鼻の繰形大仏様を取り入れた細部様式の初例とされる。
なお本尊木造薬師如来坐像(重文)、木造降三世明王立像(重文)、木造深沙大将立像(重文)、木造不動明王立像(重文)のいずれも平安後期の優れた仏像を残す。

冬の若狭は雪の深い地です。この湿気の多い地で当寺や神宮寺、羽賀寺の木造建築(伽藍)が数百年間伝えられてきたことは記録に残らない先人の努力の結果と驚嘆します。勿論戦乱の多寡とか運不運とかもあるのでしょうが、それにしてもこの地に数党の古伽藍が今日まで伝えられていることに不思議さを覚えます。

若狭歴史民俗資料館に明通寺三重塔模型(木製の精巧なものでおそらく10分の1と思われます)が常設展示されいます。公式どうり写真撮影並びに画像使用に許諾は得られませんでした。
まず著作権者である塔婆の製作会社の許諾を得て、所有者である当館の許諾を得てくださいとの事で、面倒なので当面は断念しますが、宮大工の作ではなくて、「商売」として作成されたものよようですが、かなり優秀なものと思われます。

若狭太興寺廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
日枝神社鐘楼
太興寺の地名と手水鉢に転用との情報のみを頼りに探す。現在太興寺の村落には禅寺の栄松寺(無住)のみ存在し、その境内および周辺を探す。尋ねた範囲の土地の人も誰一人心礎のことは知らないようです。発見できず諦めかけたとき、神社にも手水鉢はあるだろうと思いやっと「発見」する。
日枝神社の鳥居から社殿に向かう参道の中間左に手水石がある。これが太興寺廃寺心礎とよばれるものです。幅1.8M〜1.5M高さ0.6Mの自然石で、中央に枘穴があったものと思われる。このほぞ穴は後世に加工され現状では分からない。元は付近の通称「村まわり」にあり、江戸末期に現在地に移転されたとされる。「村まわり」からは奈良前期の瓦が出土しているが、伽藍配置は現状では不明。帰路「若狭歴史民俗資料館」の展示で「間違いない」ことを確認しました。
日枝神社:別当は明通寺。中世から成立していたと思われます。なお境内に珍しく崩壊寸前ですが「鐘楼と鐘」が残されていて今も現役のようです。(梵鐘の銘文を確認するのを忘れましたが)
若狭国分寺跡心礎?1
  同         2
  同     塔跡1
  同        2
  同     円墳
(手前は南大門跡)
史蹟:残された基壇から、南大門、中門、金堂、講堂が南北に配置され、東に塔を置く伽藍配置となっていたことが判明。塔跡には心礎と思しき礎石が中央に置くれているが、心礎かどうかは疑問とされる。(塔から発掘された金銅製の相輪の破片は、若狭歴史民俗資料館に保管されている。)
建物はやや小規模であり、瓦葺ではなかった(瓦が出土がない)とされる。珍しく塔の南西に直径50mの円墳(国分寺古墳・墳上には若狭姫神を祀る社がある)が残されている。
現在の国分寺は、宝永2年(1705年)に再建され、薬師堂(鎌倉)に、本尊・薬師如来坐像(重文)が安置され、またほぼ金堂跡には釈迦堂(慶長15年(1610年))が立ち、かつての若狭国分寺の本尊釈迦如来坐像(鎌倉時代の再刻・高さ丈六)が安置されている。
越前幸臨寺1
 同     2
三重塔に関する情報は何も得られませんでした。今後の探索課題として残ります。
三重塔については昭和20年敦賀の空襲で焼失と聞く。
日没前の訪問のため、時間が不足。近所のお年寄りも幸臨寺は知っていても、塔婆のことは誰も知りませんでした。ご住職は不在で、お話をお伺いすることは出来ませんでした。檀家総代のお宅も塔婆のことは分からないようです。檀家・近所のお話を総合すると、現幸臨寺は元の位置から道路を挟んで西に移動して再建されているようです。元位置には観音堂?がある?あった?かもしれないとの事です。敦賀博物館にも何も資料は無いそうです。(電話)ただ戦前、地方紙(福井新聞?)に塔婆の写真が掲載されたことがある?そうです。
現幸臨寺は民家のような粗末なもので、門柱に表示が無ければ寺院とは分からない状態です。
2002/01/05 遠江油山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
天正2年(1574)着工。慶長16年(1611)再興塔。嘉永6年(1853)丹塗りに変更。大正9年(1920)杮葺きを銅板葺きに変更。創建は建久元年(1190)源頼朝が眼病全快のお礼に建立したと伝える。本尊:大日如来。一辺3.6M、高さ23M。三層は唐様と天竺様を用い、一ニ層は和様を用いる。桃山の三名塔の一つと評価されている。昭和42〜44年、全解体修理。塔婆は本堂としての薬師堂に上がる階段下に立つ。
医王山薬王院油山寺(真言宗)と号する。大宝元年、行基の開山と伝える。孝謙天皇は、本尊薬師如来に眼病平癒の祈願をされ、全快をもって、当山を勅願寺に定め、爾来、歴代天皇、諸大名の帰依は厚く、源頼朝、今川義元が堂塔を建立したとされる。
遠江国分寺跡心礎1
  同        2
  同        3
  同     土壇1
  同        2
  同     薬師堂
  同   模型1−1
  同       −2
  同       −3
  同   模型2−1
  同       −2
史跡・磐田市の市街地にありながら、早くから発掘調査が行われ、公園として整備されている。
伽藍配置:南大門・中門・金堂・講堂が直線に配置。塔は回廊外、すぐ西脇にあり、中門から1/3、金堂から2/3の位置にある。寺院は平安中期までは存在していたようで、その後も、規模を縮小して再建されつつ維持されたが、明治に無住となる。現在は近世の薬師堂だけ残されている。
塔跡:土壇と心礎と1ヶの隅柱礎石(東南・自然石)を残す。心礎は約2Mで、径約1,7Mの柱座があり、中央は枘穴?らしき窪みがある。基壇は15M四方とされる。
復元模型1(市役所内展示):100分の1の模型のようです。閉庁中でしたが、通用門より当直の方に入れて頂きました。
復元模型2(JR磐田駅下展示):おそらく30分の1くらいの模型と思われます。木造の本格的な模型がガラスケースに入れられて展示されています。七重塔は66Mと推定されていますので、2Mを超える模型です。ガラスがフラッシュを反射して、写真は下手ですが、これは一見の価値があります。

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