紀  伊  日  光  社  多  宝  塔  跡

紀伊日光社多宝塔跡

紀伊日光社概要

沿革などについては文献資料が少なく、詳細な沿革などは分からないが、鎌倉前期には存在したと思われる。※
 <文永9年(1272)文書には日光山とある。>
応永年中(1394−1427)日光社・神宮寺焼失(文献名不明)する。
祭神も資料が少なく不詳、熊野十二社権現をはじめ、中世には蔵王権現・高野明神・春日・若宮などが祀られていたと考えられる。
日光曼陀羅の箱書は「日光三社大権現三八社御絵図入」とあり、室川地蔵堂の「明神講祈祷札」には「日光七八社祈祷守護」とある。(近世には78社の併祀をみる。)※※
 ※平維盛の創建とする伝承もある。
 ※※次の見解もある。日光社はもともと熊野三所権現を祀った社であったが、頼宣の紀州入部により、熊野権現より日光社に改めたという。それに伴い「参詣曼荼羅」の書き換えが行われたという。 (書き換えの内容は不詳)

「紀伊続風土記」その他の近世の文献により、
近世の姿は「本社 三社 末社 若宮八幡宮 拝殿、庁、鐘楼堂」などで構成されたものと思われる。

明治初年に廃社となり、明治10年(明治7年とも云う)清水八幡社が日光社を合祀(「和歌山県神社誌」)、明治初年の廃社では社殿堂宇は焼払うと伝える、現在、現地では小祠が再興されている 。

2006/11/26追加:
現地説明板(上湯川 史跡(町)日光社神宮寺保存会 掲示)には以下のように標す。
『開基年代・祭神など不詳であるが、大峯山・高野山と熊野三山とを最短距離で結ぶ山岳古道を「古辺路」といい、中世にはこの「古辺路」の往来が繁くなり、途中の護摩檀山とともに修行・宿泊の拠点として創建されたと伝える。 』
◎現地の状況
現地は人家から隔絶した紀伊山中の尾根高所(標高900m)にあり、「古辺路」がほぼ廃絶した現在では、恐らく訪れる人も稀であろうと思われる位置にある。またこの尾根高所・神社境内附近広くはほぼ原生林と思われる。
以上のような環境でも、神宮寺跡及び社殿跡は比較的整備され今に伝えられる。基本的に深い木立の中で下草・潅木類は成長が難しい環境ではあるが、恐らく上記の「日光社神宮寺保存会」あるいは町が定期的に樹木の枝打ちや雑木の伐採などを行い、神宮寺跡、社殿跡の保持を図っているものと思われる。朽ちてはいるが「町史跡・日光社神宮寺跡」「多宝塔跡」「経塚」の3本の木標もある。
 ※山深い山中ではあるが、多宝塔跡・建物跡は明瞭に残り、場所が不明であるとか、確認に鎌・鉈が必要という状態ではない。
 従って、見学は比較的容易である。
 日光社1/25000地図
高野山の南西方向に直線で約20km、高野龍神スカイラインで約38km地点に護摩壇山がある。
この護摩壇山には高野山から午前1便、午後1便(計2便)往復する路線バスがある。(12月〜3月の冬季は運休)
護摩壇山から北西に4km弱、高野山寄りに引き返したところに笹ノ茶屋峠がある。この峠より日光社に分岐する尾根道があり、尾根筋に約1km弱下った所に日光社がある。(分岐は標識がありはっきりと分かり、尾根道は町により整備され 、明瞭である。)
 なお、上記地図では、護摩壇山から笹ノ茶屋峠へは尾根道が一部あるように表示されるが、おそらく廃道同然となっているのであろうか、分岐を見つけることは出来 ず。(護摩壇山から笹ノ茶屋峠へは、スカイラインを辿れば、面白味はないが、確実であろう。)
旧清水町(現有田川町)上湯川から入るルートもあるが、これも交通の難所のようで、上記の高野山からのルートが現実的であろう。
 ※護摩壇山:標高1370m、和歌山県最高峰、この山は落武者・平維盛が護摩木を焚いてその命運を占ったと伝える。
 笹ノ茶屋峠西側尾根
      笹ノ茶屋峠附近(右端)から西側に下る尾根で、日光社はこの尾根筋の高所にある。

日光社参図(日光曼荼羅)

●「日光社参図(日光曼荼羅/日光社参詣曼荼羅)」
(紙本着色、150×116.9cm)
小松家(願主小松弥助平長盛、平維盛の末裔という)蔵:推定鎌倉期(あるいは室町期ともされる)

○パンフレット「日光神社への道紀行」有田振興局発行 より転載
 日光曼荼羅1
中央に本殿三社(春日造り桧皮葺廻り縁)・相殿二社・小社、社殿前に鐘楼堂(板葺)・宝殿(推定)、左側に多宝塔(檜皮葺き3間四面、礎石建物)、左側前方に推定薬師堂(板葺き向拝廻縁格子戸礎石あり)、さらに前方に推定釈迦堂(板葺き正面3間格子戸廻縁礎石あり )がある。
下方向に坊舎5宇(草葺き廻縁)が描かれる。

2010/10/11追加:
○「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より


 日光曼荼羅3:個人蔵、紙本着色、149×117:左図拡大図
本図は応永年中(1394-)以降の製作と推定される。
「上湯川村寺社改帳」(寛政4年1792)では「応永年中に失火仕、本社は造営仕候共、堂宇坊舎再興相成不申候、その節境内伽藍等絵図仕置、今に現在仕候」とあると云う。
本図の納められている箱には「日光三社大権現十八社御絵図入」とあり、裏には「願主小松弥助長盛」とあると云う。
この小松氏は平惟盛の系譜と伝えられる。
 ※小松家は同社廃絶までその祭祀に関わってきた家という。
またこの願主「小松弥助長盛」とは下に掲載のように、三社社殿石段下にある一対の石燈籠の銘にある「小松弥助長盛」と同一の人名である。
 

 日光曼荼羅2:上図と同一図:モノクロ画像

2017/04/13追加:
○和歌山県立博物館HP 及び 和歌山県立博物館展示 より

和歌山県立博物館HPより転載
 日光社参詣曼荼羅4:左図拡大図:容量大
 日光社曼荼羅料紙貼継

和歌山県立博物館展示:2017/03/02撮影
 日光社参詣曼荼羅5
 日光社参詣曼荼羅6

○「有田川中流域の仏教文化 重要文化財・安楽寺多宝小塔修理完成記念」和歌山県立博物館、2017 より
 日光社の最古の文献:文永9年(1272)「阿弖河庄上村臥田注文」(「又続宝簡集」巻56)には「建長8年日光山と申候神田 こ御所よりよりさせ給て候」とあり、鎌倉期にはその存在を確認できる。しかし、祭神をはじめ不明なことが多い。
 本曼荼羅図は現在は軸装であるが、元々は縦8つ折り、横4つ折りに畳んでいた痕跡が残る。
そして、本図には総数41名の聖俗の人物が描かれ、「形式化の見られない伸びやかで自由な人物表現が16世紀に製作された参詣曼荼羅に通じ、本図の製作時期もそのころ」(室町後期)と捉えられる。
 祭神については、瑞垣内にある5棟の建物の正面間口を合計すると12間あり、それ故熊野十二所権現を祀るという説もあるが、そもそも瑞垣内の左側の建物は本来右下に描かれていたものを切断し、現位置に貼られたものであり、また拝殿や本地堂などの本殿以外の建物でもあり、この説は成り立たない。
 ※但し、「瑞垣内の左側の建物は本来右下に描かれていたものを切断し、現位置に貼られたもの」ということであるが、どうして右下にあった建物が切断といえるのであるのかは、よく分からない。
 最後に本図の構成であるが、上段は三つの峰が描かれ、従来は中央護摩壇山、右は熊野山、左は高野山とされてきたが、熊野を独立峰と見るのは無理であり、だとすれば、中央は日光社の建つ日光山、右は護摩壇山、左は高野山ではなかろうか。
中段は中央の三棟は日光社本社、左右は拝殿・本地堂の類であり、左の多宝塔や堂宇は別当・神宮寺の建物であろう。そして中段の下方には鐘楼、やや粗末な草葺の堂は勧進聖の拠点である穀屋(あるいは本願)であろうか。
下段は中段とは木々で区切られ、日光社の建つ日光山・湯川川の流域を描くものであろう。右端から、小宇・小祠、茅葺の6棟の建物、左端には板葺の堂舎・神社がならび、複数の堂・祠・堂舎・社と集落が想定され、湯川川の流域を描くものであろう。
以上の意味で、本曼荼羅図は日光社を中心とする信仰圏を描くものであろう。
  →下に掲載の「日光社を中心とする信仰圏の文化財」を参照

「日光社発掘調査報告」
  和歌山県立吉備高等学校清水分校編、和歌山県立吉備高等学校清水分校発行、1966 より

※この発掘調査は曼陀羅絵図を参考にして実施されたと云う。
言い換えれば、この発掘調査はこの曼荼羅が描く中世の世界が存在していたかどうかの確認をすることにあった。
その成果は、以下の発掘成果から判断すると、この曼荼羅に描かれた世界は見事なまでに実在したことが確認されたということになるであろう。

「紀伊続風土記」(天保10年・1839)
  在田郡山保田荘上湯川村の條:
「日光神社 境内周80町 禁殺生
本社 三社 末社 若宮八幡宮 拝殿、庁、鐘楼堂
室川谷の奥日光山といふにあり・・・・・当社祭神詳ならず3社合わせて日光権現と云う熊野権現を祀りしなるべし、但神名日光の義考え得ず伝へ云ふ古は社殿堂舎多かりしに応永年中焼失して後僅かに今の如く再建せり。中世社殿の図とて小松氏に蔵む其の図に社殿大小合わせて8宇多宝塔薬師堂釈迦堂護摩堂合わせて4宇鳥居4箇所宝蔵1箇所寺院6箇所ありて荘厳なり是は日光 三十八社といふとそ社殿の趣熊野に似たり按ずるに、今の社地諸木繁茂して数十宇ありしやうにも見えず少し疑いあり後考にまつ。・・・・・・・・」
「紀伊名所図絵」「有田群誌」にも「紀伊続風土記」と同一の記事がある。

明治7年日光社は清水八幡(有田川町清水)に合祀、日光社御正体も八幡宮に遷される。
現在、御正体は八幡宮に3体現存すると云う。
1体は金剛界大日如来像、もう1体が文殊菩薩像、最後の1体は破損のため像名が明らかでないと云う。
何れも室町期の造作と推定される。
 

日光社遺構全図: (日光社遺構概要図)
   この図のA区が多宝塔跡
 ※社殿の実際の方位は南向きではなく、ほぼ西向きである。
  (磁石にて確認)

日光社多宝塔遺構:左図拡大図
 

A区(多宝塔跡)実測図
   多宝塔跡発掘実測図

調査A区:
 この遺構は、日光曼荼羅に描かれる多宝塔跡と推定される。
約6m四面の建物跡であり、外周右側は間隔約1mの礎石が7個並ぶ、外周正面は3個、外周左側は4個、外周裏側は4個の礎石が残存。
外周礎石の内部(約80cm内部)には高さ約40cmの盛土があり、礎石が置かれる。
内部は一辺約4,2mで、約1.4mの間隔を取る礎石が一辺に4個残り、この内部に約4個の礎石が残る。
また中心部に割り石で基礎を固めた心礎が残る。(心礎があつというのは多宝塔遺構としてはやや不審ではある。)
遺物として銅製釘隠し、鈴型鉄製品、多くの鉄釘が発掘された。焼土層に覆われる。
以上から、この遺構は亀腹(盛土)土壇上に廻縁を付設した宝塔であろうと推定される。

 

2006/11/26追加:
日光社多宝塔跡礎石配置図(上記A区(多宝塔跡)実測図の縮小図)

下図のA〜Gの礎石が地表に比較的良く露出する。
塔跡には、この附近に植林した檜の枝打で落とされた枝が堆積していることと、長期間放置のため礎石の多くは薄く埋もれる。しかし、写真でも分かるように、人里離れた山中にも係わらず、手入れが行われている 様子で、塔跡は原野に還ることなく保持される。


  2006/11/26撮影
当日は小雨、強風。神宮寺跡は樹齢を重ねた檜林の中にあり、曇天+樹林で昼でも暗く、写真撮影は不調。

多宝塔跡土壇1:西より撮影、
 中央から右に土壇が写る。
多宝塔跡土壇2:西より撮影
多宝塔跡土壇3:北より撮影
多宝塔跡土壇4:北より撮影
多宝塔跡礎石1:南より撮影、
 中央礎石がD礎石
多宝塔跡礎石2:南東より撮影、
 右礎石手前よりABC、中央礎石手前よりDE
多宝塔跡礎石3:北東より撮影、
 手前礎石左よりABC、中央礎石左よりDE
多宝塔跡礎石4:東より撮影、
 手前礎石左よりABC、中央礎石左よりDE
多宝塔跡礎石5:南東より撮影、
 右礎石手前よりABC、中央礎石手前よりDE
多宝塔跡礎石6:北東より撮影、
 手前礎石左よりBC、奥左よりDE
多宝塔跡礎石7:礎石A
多宝塔跡礎石8:礎石B
多宝塔跡礎石9:礎石C
多宝塔跡礎石10:礎石D
多宝塔跡礎石11:礎石E
多宝塔跡礎石12:礎石FかG?
多宝塔跡礎石13:礎石FかG?
多宝塔跡礎石14:不明、FかGか?

 


その他の遺構については以下のとおり

上掲の日光社遺構全図: (日光社遺構概要図)を参照。
   この図のA区が多宝塔跡、社殿の実際の方位は南向きではなく、ほぼ西向きである。

社殿跡:
石垣を築いた檀上に三社社殿跡(西面する)が残る。(中央社殿跡には小祠が再興される。)
社前には一対の石灯篭(*1)が残る。また石段の両側にも灯篭(*2)が残る。
広い前庭のほぼ中央に横長の篭所(*3)がある。
 *1:銘文「日光山 奉建之御前石灯篭 諸願成就皆念満足敬白 寛文癸卯年(寛文3年・1663)六月晦日 
                                 小川善兵衛 有田郡山保田之内上湯川村」
 *2:銘文「奉献石灯篭一対 明和22子亥歳(明和4年・1767年か)六月吉日 施主 小松弥助長盛 惣氏子中」
 *3:昭和初年まで、6月大祭及び夜祭が行われ、篭所はその名残りと云う。
2006/11/26追加:
 紀伊日光社社殿跡      日光社中央及び右社殿跡     日光社篭所
 日光社右社殿の右側礎石遺構:建物名称不詳
 社殿石段下左灯篭:*1     社殿前左灯篭1:*2     社殿前左灯篭2:*2

発掘調査結果:
T1トレンチ:礎石2個と多くの礎石片(火中で破砕?)を発掘。礎石は鐘楼跡と推定される。
T2、T3、T4、T5、T6、T7トレンチ:特に遺構はなし。

調査B区:
一辺約6.6m、間隔約2mで礎石を並べる正方形建物遺構が出土。礎石は一辺に同間隔で4個、内部に同間隔で4個残存する。この大型礎石(正面および右側)の間に小型礎石を配置、また四周には縁束礎石と思われる礎石が所々残る。 なおこの遺構は焼土層に覆われる。以上から、この遺構は廻縁のある1間四面堂遺構と思われる。
 2006/11/26追加:
  1間四面堂遺構1  1間四面堂遺構2
調査C区:
遺構は特に発見されず。
調査D、E、G、I、J区:
炉跡、銅製金具、多数の瓦器、燈明皿、片口、擂鉢、甕片などが発見された。しかし明確な建物遺構は発見されず。
調査H区:炉跡、刀子、銅製鈴、瓦器、燈明皿などが発見される。
以上のD〜H区は、おびただしい炊飯具、供膳具などの出土からおそらく坊舎跡などであろうと推定される。
 2006/11/26追加:
  調査D区推定坊舎跡平坦地
調査F区:
経塚と考えられる施設及び出土品があった。

※なお出土遺物は吉備高校清水分校に保管と云う。

2017/04/13追加:
日光社を中心とする信仰圏の文化財
○「有田川中流域の仏教文化 重要文化財・安楽寺多宝小塔修理完成記念」和歌山県立博物館、2017 より
この信仰圏は日光社の建つ日光山と湯川川流域であるが、この地域には製作時期が中世に遡る文化財が今なを守り伝えられている。
それは以下のような文化財である。それは今回の調査で判明し、初公開のものも多い。
2017/03/02撮影:
下湯川観音堂本尊観音菩薩立像(平安後期)
下湯川観音堂阿弥陀如来坐像(平安後期)
下湯川観音堂二天立像(11世紀初め頃の流域に残る最古の仏像) → 二天像その1     二天像その2
下湯川観音堂牛玉宝印版木(天正8年/1580銘)
下湯川観音堂菩薩面髻部品(中世)
下湯川観音堂僧形坐像(中世)
下湯川牛蓮寺破損仏三躯(いずれも平安後期)
下湯川牛蓮寺本尊大日如来坐像(未調査で詳細は不明であるが、写真から鎌倉期のものと推定される。
                     平成23年に盗難に遭い、今も未発見である。)
上湯川薬王寺薬師如来坐像(平安末か鎌倉初期)
上湯川薬王寺牛玉宝印版木(天正9年/1581銘)


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