★豊前国分寺跡(史蹟)
方2町の寺域を持つと推定される。現国分寺に明治再建の三重塔がある。
→ 明治再建三重塔は現存する三重塔(明治以降)の406を参照
金堂・塔の基壇の一部および礎石の一部が残存する。一部は現三重塔に転用されている他、東の豊津神社などに転用される。
2007/05/26追加:
○「塔婆」様情報:
三重塔解体時の心礎目撃者の談:「心礎には二段の穴が有った」と云う。
○【豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖されたと思われる。)
昭和60年から発掘調査が行われたが、後世の削平が著しく、現本堂北側で検出された講堂跡と推定される遺構以外は全く明らかにされていない。
(※2013/10/27撮影:豊前国分寺講堂復元基壇・・・現在本堂裏側に講堂基壇が復元されている。)
また現三重塔周辺の調査では明治時代の遺物しか出土していないところから創建時にこの位置に塔が配置されていた可能性は低く、むしろ中軸線をはさんだ東側にあった可能性が高いと思われる。
なお現本堂は寛文6年(1666)、鐘楼門は貞亨元年(1684)、三重塔は明治年間に建てられたものである。
2009/09/20追加:
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
現国分寺も南面し、門・鐘楼門があり、鐘楼門の正面が本堂・西は護摩堂・東は庫裏であり、左手に三重塔がある。
明治建立の三重塔には旧の礎石(心礎と礎石3個)が転用される。心礎は6尺×4尺4寸の大きさで、中央に径2尺1寸深さ6寸の円孔を穿ち、心柱が嵌入される。(心柱が嵌入されているとすれば、円孔の観察は困難であろうと推定される。)
豊前国分寺址平面図 豊前国分寺塔址実測図
2006/11/03追加:
○「みやこ町のサイト→豊前国分寺の秘密」 より
発掘調査は昭和49年と60年から62年に実施。敷地の北側が調査され、本堂の北側で奈良期の講堂跡(東西幅26.7m)を確認。
また、中世の敷地を囲んでいた大溝の跡が東西と北側で検出され、本堂の北東部と西部ではこの時期の僧房や回廊の可能性がある建物が発見された。
山門の南側ではかっての門の基礎と推定される礎石も出土。
(※2013/10/27撮影:豊前国分寺中門礎石)
以上から、奈良期の国分寺境内は東西160m前後で・南北160mから220mほどであり、その内側に南から北へ一直線に南門・中門・金堂・講堂がならび、金堂の南東に塔を配置と推定される。
現存三重塔の反対側に塔が想定される理由は上の【豊津町HP】の内容の通りである。
豊前国分寺推定伽藍図:豊前国分寺跡のページより転載
2013/10/18追加:
○「勝山町史 上巻」勝山町史編纂委員会、勝山町(福岡県)、2006/03 より
九州の国分寺が文献に見えるのは「続日本紀」天平勝宝8年(765)である。ここ豊前の国分寺も天平勝宝8年の少し前に建立されたものと推定される。しかし、以降天正年中に焼失するまで、一切の同時代資料を欠き、寺歴は全く不明である。
「豊前国分寺縁起」では、往古の僧寺と尼寺は僧20人、尼10人を擁し、寺領150町歩、封戸50を有した七堂伽藍を呈していた。そして、山門内には心海院・永寿院・誓願院・地蔵院・大坊・悟庵の6子院と、郡内には柳井田福正院・綾野善門寺・上坂観音院・国作荘厳院・国分歓喜寺・徳政妙善院の6末寺を有すると云う。
つまり縁起によれば、おそらく、天正年中までは何とか国分寺は体裁を保って、存続していたものと推定される。
一方、天正年中の文書中には「至天正之間、遭大友氏之乱、寺及大小院、一夕廃而丘墟也」とあり、これに従えば、大友宗麟の乱により灰燼に帰するものと思われる。
この焼失後「天正年間、末寺僧心海院英賢が灰燼の旧址に草庵を結び、本尊薬師如来を造仏安置する。」とあり、形ばかりの再興がなされたと思われる。
さらに「慶安3年(1650)尊応、下毛郡大貞山南坊より来りて千載の霊場を徘徊、蒼然として去るに忍びず、村老と相謀り中興する。」とある。
16年後の「寛文6年(1666)小笠原藩主の命を受け郡鑑島角左衛門本堂建立、五穀成熟祈願し菱御紋は御幕二張、御紋付大提灯四張、御供米六石御寄付あり」とあり、これが現在の国分寺である。
(※2013/10/27撮影:豊前国分寺山門 豊前国分寺山門内 豊前国分寺鐘楼門
豊前国分寺本堂 豊前国分寺護摩堂 豊前国分寺庫裏)
★豊前国分寺三重塔
明治再興三重塔が現存する。
豊前国分寺三重塔
三重塔も天正年間(1573-1592)大友宗麟の兵火で焼失と伝える。
明治28年再建。昭和27年落雷大破。昭和40年修復。昭和60年から62年に解体修理を実施。
一辺7.49m(初重は極端に広い)、高さ24.5m。
屋根瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元 し、葺く。本尊は大日如来。二重目上部の外壁面には、十二星座の彫刻を施す。
側柱は角柱(四天柱も角柱と云う)を用いる。
心柱は初重から建つようであり、心柱も角柱のように思われる。(心柱は全長23m、根元は60cm角の杉材の一本物と云う。)
※下に三重塔床下写真を数点掲載するも、心柱・心礎・四天柱などの状況は良く分からない。
豊前国分寺塔床下1 豊前国分寺塔床下2 豊前国分寺塔床下3 豊前国分寺塔礎石
○「日本の文化遺産(上)(下)」1985年刊 より
豊前国分寺三重塔:昭和60年の刊行本であり、かつ写真から判断すると、昭和60年修理開始前の写真であろう。
2013/10/18追加:
○「MIYAKO TOWN DIGITAL MUSEUM(建物たんけんのページ)」 より転載
豊前国分寺修理前三重塔:写真から判断すると「昭和27年落雷大破」後の写真であろうか。
2013/11/04追加:
○「豊前国分寺跡」みやこ町歴史民俗博物館発行リーフレット より
明治再興当時は「明治記念大宝塔」と呼称すると云う。
国分寺中興18世宮本孝梁は明治18年三重塔建立を発願、私財を全て注ぎ込み、不足分は上下に喜捨を呼びかけ、奔走10年で悲願を達成する。昭和2年86歳にて遷化。
三重塔の棟梁は緒方義高である。豊津地区での名工であった。寺社建築は独力で研究して、三重塔を建立。竣工直前の明治28年9月逝去。
昭和50年国分寺三重塔
豊前国分寺三重塔断面図:図版が小さく不明瞭であるが、心柱は地上心礎上に据えられるように描かれる。
2010/03/24追加:
○「福岡県名所図録図会」明治31年 より
豊前国分寺境内之図
2006年以前作成:2013/11/04更新:ホームページ、日本の塔婆
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