八尾フレンド中学部に入部したのは、センバツで近大付属高校が初優勝を果たした1990年のことだった。
バブルの崩壊、トレンディドラマの流行、そんな時代だった。
僕は、地元の中学校がヤンチャということもあり、どうしても私学に行きたかった。
その第一志望が近大付属中学校だった。近畿大学は一貫教育。野球も強いし、家からも近い。イメージもよかったし、人気も高い。
「このまま大学まで近大やな」
僕はそうシナリオを立てたのだったが、肝心の中学受験に失敗してしまった。
のちに、この出来事は運命を変えることになるのだが……。
落胆した僕だったが、両親はあきらめていなかった。
「地元の八尾市に最近できた『金光八尾中学』って所があるから、ダメもとで受けてこい」
結果は合格。僕のために、両親は駆けずり回ってくれたに違いない。
今思い返しても、このことは本当に感謝している。
そんな両親だが、まずは父親について少し紹介したい。
すらっと背が高く、歳のわりには若く見られることが多いだろう。
高校を中退し、各地を転々としていたらしいが、昔は相当ヤンチャだったと聞いている。
本格的に野球をしていたわけではないが、非常に懲り性で、本や雑誌を片手に、よく僕のことを指導した。
俗に言う「熱血親父」である。負けるのが嫌い、何でも一番、ケンカも一番、そんなことを毎日聞かされた。
中にはこんなエピソードがある。
確か5年生の冬だっただろうか、小学校のマラソン大会で1位になれなかったときのことだ。
僕は短距離は得意だが、長距離は苦手だった。結果は4位だった。
「あかん、しばかれる。言いたくない。帰りたくない」
いろんなことが脳裏をよぎる。
学校から帰ると、父親が家の前にいた。
「おまえ、今日のマラソン大会どうやってん」
「うん……4位やった」
「あん? もういっぺん言うてみ」
「……せやから4位やった」
「もう家入ってくんな」
それから僕は、近くの球場の周りをぐるぐるランニングした。母親が迎えに来たのは辺りが暗くなった頃だった。
そんな優しい母親だが、実は父親以上に負けん気が強い。
外食したとき、最初に注文したビールが来るのが遅いと、取り皿を投げつけて割ったり、車であおられたとき、信号待ちになるやいなや車から降りて後ろのドライバーにつめ寄って挟み撃ちにしたり、いつも先に動くのは母親の方なのである。
そんな母親だが、毎日泥んこになったユニフォームを洗濯し、僕が大好きなフレンチトーストが食べたいと言えば、いつもより早く起きて作ってくれたり、疲れてテレビの前で寝ていたら寝室まで僕を運んでくれたり、甘えん坊の僕にとって最高の、そして自慢の母親だ。
僕と弟との3人で、高校野球を観に甲子園へ連れていってもらったこともある。
母親の伯父さんが上宮で野球をしていたというのもあって、昔から高校野球が好きだったようだ。
伯父さんは大阪予選の決勝でPL学園に敗れ、甲子園には行けなかったと聞いている。
「僕もこのグラウンドで野球がしたい」
僕の夢は甲子園だった。
それには別の理由もあった。
母親の両親は離婚していて、僕のおばあちゃんにあたる母親の母は、手紙を残して家を出たらしい。そのまま行方もわからず、20年以上もの月日が流れていた。
「お母さんのお母さんに会いたい……」
時折、母親が、そう涙ながらに話すのを聞くたびに胸が締め付けられた。
僕は母親とある約束をした。
「甲子園行って有名になって、お母さんのお母さん探したる」
このことが、苦しいときも辛いときも、僕の支えになった。
「甲子園行くために、絶対途中で投げ出したりせえへん」
僕の心に芯が通った約束だった。
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