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6.中学時代の八尾フレンド

厳しい野球の幕開け

中学部になると、まずは体力づくり
2、3年生とは別メニューで、走り込みサーキットなどをする。
体格差がありすぎて、一緒にプレーをするのが危険だからだ。スピードも全然違う。
八尾フレンドの中学部は上下関係もあり、1年生は1時間前の集合、硬球の糸の縫い合わせ、道具の管理、様々な雑用が課せられた。
練習帰りにジュースを飲んでいるところを見つかろうものなら、たちまち集合をかけられ、連帯責任で1年生全員がしごかれた。
言葉使いから練習中の態度まで、徹底的に教えられた。耐えきれずにすぐ辞めた者も何人かいた。
小学部までの楽しい野球から一転、厳しい野球の幕開けであった。
夏が終わると、3年生は進学を見据えて引退する。それまでの辛抱と思い、毎日を過ごした。
野球どころの環境じゃない。ボールが握れなくても、首脳陣に名前を覚えられなくてもいい、とりあえずこの半年間は耐えに耐えた。

新チームのレギュラーをめざして

3年生が引退した1年生の秋、やっとの思いで新チームになった。
3年生は次々に進路が決まり、高校野球への道を歩んでいる。
当時「大阪3強」と呼ばれていたPL学園、上宮、近大付属高校にも、多くの先輩が進学した。
当時の3年生と僕とを比較しても、まだまだ進学を考えられるような状況ではない。体もできてないし、遠い目標に向かって進んでいくだけだった。
新チームになると、1、2年生が合同で練習する。
ここからが本当の勝負だ。実力があれば、下級生でもメンバーに入ることができる
まずはそれを目指した。
冬になると、さらに厳しい練習が待っていた。
まずボールは握らせてもらえない。シーズンオフで試合がないのもあるが、寒い状況で投げたり打ったりするとケガの原因になる。
冬は基礎体力をつくるのが野球界の常識だ。
毎日筋肉がパンパンになるまで、ランニングとサーキットを繰り返した。自転車もまともに漕げないくらい、ボロボロになるまで体をいじめた。
ここで、僕の中である変化が生まれる。
短距離限定だが、誰よりも足が速くなっていたのだ。
動物が四つ足で走るように腕を振り、そして重心を低く大股で跳ねるように走れと何かの本に書いてあって、それを実行したら速くなった。
原因はそれだけではない。
いつの間にか身長は母親を抜き、下半身の肉付きが変わっていた。成長とともに基礎体力がついてきたのだ。
声変わりをしたのもこの頃だった。大人への階段を急激に登り始めたのである。
「やってることは確実に身になっている」
大きな自信になった。

中学部に入って初めての優勝

春になり、僕は選手権予選のベンチ入りメンバーに選ばれた。
「足」を評価してもらえたのだろう。たまに守備固めや、代走などで試合にも出させてもらえた。
決勝までコマを進めたが、若江ジャイアンツというチームに敗れた。力負けだった。
小学部のときと違って、周りのチームの選手も大きくなっているし、野球の質も上がっている。
「そう簡単には勝たせてくれないか……」
上には上がいると改めて感じた。
春休みも終わる頃、唯一中学1年生だけで出場できる大会があった。八尾大会である。
1年前、6年生として出場し、優勝したあの大会だ。
「久しぶりに自分たちの野球ができる」
喜びをかみしめながらプレーした。
同じ学年では1番セカンドが僕の定位置。初戦からエンジン全開だった。
早くに負けた2年生が見つめる中、僕らは八尾大会を制した
中学部に入って初めての優勝
「うちらは、中学部でもできる!」
今までとはまた違った嬉しさがこみ上げていた。

中学2年でつかんだレギュラー

新学期が始まり、2年生になった。
八尾大会を境に、活躍した僕らの学年の4人が、正レギュラーになった。滅多にないことである。
僕も、その中の1人だった。
どうやら、首脳陣は僕らの代に期待をしているらしい。言動や態度からも、それがわかる。
期待されると悪い気はしない。僕も期待に応えるべく結果を残した。
しかし、夏の全国大会は予選落ち。日刊大会も敗退した。
なんとも物足りない成績に終わったが、僕にとってはレギュラーをつかんだ飛躍の年になった。
八尾フレンド中学部の練習は週5日。
黒土の市営球場を本拠に、平日は16時から19時頃まで、週末は大会があったり練習試合が組まれる。
自動車で片道30分程かかる私立中学に通っていた僕は、授業が終わってから家に帰り、さらに着替えを済ませて球場に向かっては、到底間に合わない。
そこで、平日は通学バッグの他に、ユニフォームを詰め込んだ野球バッグも一緒に持って学校に行った。学校から直接球場へ向かうためだ。
球場で着替えて練習に合流。7限目まで授業があるときは、頭も体もクタクタになっていた。

7章につづく

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