『味わうことと語ること』
「こうち食品産業情報」No28['93.春号]掲載
[発行:高知県食品産業協議会]


 この四月の三十日にあたご劇場で“大塚和祭”があります。これは、高知の南国市出身の映画プロデューサー、故大塚和氏を偲んで、映画の上映会と併せてシンポジウムを開催しようというものです。大塚氏は、『豚と軍艦』『キューポラのある街』『けんかえれじい』『戦争と人間』『祭りの準備』『海と毒薬』といった作品を製作した人です。多少なりとも映画に興味のある人は無論のこと、あまり普段は映画を観ない人でも、これらの作品群を見渡せば、彼が日本の映画史上きわめて重要な人物であったことが想像できるはずです。ところが、彼が高知の出身者であったことは、御当地の高知でも、例えば映画の自主上映などに携わっている人たちのなかでも、あまり知られていませんでした。亡くなって二年あまり経って、ようやく自主上映という形のなかで追悼上映会が開催されようとしています。しかし、このイヴェントに対する反応も不思議なことに、地元の高知よりも、むしろ中央のほうでより注目されているような節があります。
 地元が地元として他に誇り得るものを持ちながら、その価値に充分気づいていないことというのは、高知の食品産業の分野とも共通するものがあるような気がします。あるいはもしかして、誇りとするものは売り物にはしたくないとの思いがあるのかもしれませんが、したくはないというよりも、やはり売り方が下手ないしは誇り得るものの価値を充分には認識できないでいる不勉強さや時流に対するアンテナの感度の悪さといったことのほうが大きいように思えてなりません。高知の若者は、わりあい流行に敏感だと言われているように思うのですが、それにしたって、なるほどファッションや歌謡曲のヒットチャートといった分野ではそういう傾向が認められるにしても、その分野だけに留まっているのなら、結局はメディアに乗せられやすい、操作されやすいということの証明に過ぎません。自身の持つ感度ではなく、単なる受信機としてのアンテナではつまらないと思います。
 単なる受信機ではない自らの感性を獲得するためには、何よりも先ず自分の目で観、耳で聴き、舌で味わうことが大事ですが、それはそのための第一歩でしかありません。受け止めることができたら、今度はそれを自身のうちに定着させるための思索の時が必要です。そしてさらには、そうして定着させたものを互いに自信を持って謙虚に語り合わなければなりません。そういう一連の作業によって初めて感性は磨かれていくのだと思います。
 酒席の余興としての話題に終わらせていたのでは、せっかく受け止めたものも充分に生かせないままに過ごしてしまうような気がします。「高知の人間は議論好きだ」と高知の人はよく言いますが、議論に足る議論としての真摯な語り合い、言い換えれば、先に述べたような一連の作業に裏打ちされた語り合いが本当に好まれているのでしょうか。
 今度の“大塚和祭”では『にっぽん昆虫記』『地の群れ』の上映に併せてシンポジウムも開催されます。テーマは「日本人とは何か」「日本映画に未来はあるのか」「何故若者は邦画を見ないのか」ということです。設定された時間の枠には到底納まりきらない気もしますが、六人のパネラーがどういう言葉を発するのか、見届けたいと思います。
by ヤマ

'93.Spring 季刊誌「こうち食品産業情報」No28



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