『知ることと味がわかるということ』
「こうち食品産業情報」No25['92.夏号]掲載
[発行:高知県食品産業協議会]


 食の楽しみは、先ず何といっても旨いと感じることです。でも、ただ旨い、旨いと言って食べているだけでは飽き足らなくなって、そのうち味が解るようになりたくなってきます。そのために幅広い食の体験を重ねたり、食通と呼ばれる人たちの意見を気に留めはじめ、料理のことや素材・味覚についての知識を仕入れはじめます。一通りのことをマスターし、自分なりの嗜好もハッキリしてくるようになると、自分もいっぱしの食通になった気がしてきます。そして、あそこの料理はまずまずだが、こっちのやつはどうにもいけないという論評や味についての蘊蓄を傾けはじめます。そういう場において、知らず知らずのうちに横行してくるのは、多くの場合、知識偏重の傾向ではないでしょうか。
 本来、多くを知ろうとすることは、より解るようになりたいからなのですが、多くを知れば、自ずからよく解るようになるとは限りません。知ることは、時として解らなくても判ることで解ったような気にさせてしまいます。より解りたいために求めた知識によって、むしろ解ることから遠ざけられてしまうおそれを含んでいるのです。さらには、あまりに多くを知ることは、素朴に旨いと感じる感覚をも脅かす可能性を持っています。楽しみの原点である旨味を奪われて、どうして食の楽しみと言えましょう。本末転倒も甚だしいと言わねばなりません。
 映画の楽しみにも実にこれと全く同じことがあるような気がします。旨味を奪われず、理解も遠ざけられずに多くを知り、知ることによって理解を深め、感性を高める。そのような知識の摂取の仕方というのは、実は大変にむずかしいことなのです。知ることが感じることをより生かすか、殺してしまうか、この違いはあまりにも大きい。

 僕自身は、かつて、知ることを遠ざけることで感じることを守ろうとしていました。しかし、それはあくまで守りという消極的な姿勢で、より生かすことに繋がらないばかりか、自主上映活動に携わりながら、知ることを遠ざけようというのは、現実的に困難なことでした。そこで今は方針を変えて、知ることを拒むのを止めています。ただ二つのことには、いつも気をつけています。
 第一点は、人の意見は、いかなる人の見解であれ、同じ俎上に置き、中身を吟味して、権威に惑わされたりしないこと。二点目は、情報はなるべく周辺情報の収集に心掛け、直接的なものを安易に求めないこと
 つまり、背景となる歴史や文化、風土、社会情勢等については積極的に知るべきだと思うのですが、監督が何を撮ろうとしたかとか誰の影響を受けたかというようなことを自分で言葉にしている部分をあまり重要視しないということです。(特にある種の映画監督には挑発的なくらいに自己韜晦している人が珍しくないので、直接インタビューなんてあまり信用してはいけません。)作り手が何を意図したかよりも重要なのは、自分が何を感じたのかということだと思います。そのうえで、自分の感じたものがより深く人と分かち合えるとき、映画も食も、その楽しみは一層豊かな広がりと充実感に満ちたものになるのだと思います。
by ヤマ

'92.Summer 季刊誌「こうち食品産業情報」No25



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