『映画をつくる』を読んで
山田洋次 著 <国民文庫>

 四半世紀以上前に観たマルセイユの恋』の映画日誌底流にある人間観に、例えば嘗ての山田洋次監督作品のような“庶民のところに降りてきた”といった不遜な眼差しがなく、それでいて共感と敬愛に留まらない知性の確かさが窺われる。といった形で言及している山田監督がまだ四十七歳の時分のものだ。

 手元にある観賞記録の最初に出てくる山田監督作品は、'77年に早稲田松竹で観た『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』['76]で次いで'78年に観た『愛の讃歌』['67]だから、本書のあとがきに記された1978年11月1日の頃合いとほぼ重なる。以降'80年に『同胞』['75]、86年にキネマの天地、91年に『息子』を観てからは苦手意識が薄れ、'93年学校、'96年『学校Ⅱ』、'97年『虹をつかむ男』、'98年『虹をつかむ男 南国奮斗篇』、'00年十五才~学校Ⅳ~、'02年たそがれ清兵衛、'04年『隠し剣 鬼の爪』、'07年『武士の一分』、'08年『母べえ』、'10年おとうと、13年東京家族、'13年家族['70]、'14年小さいおうち、'15年母と暮せば、'16年家族はつらいよ、'17年家族はつらいよ2、'17年『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』['80]、'18年妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢと観ながら、'19年に高校時分の同窓生の映画部部長から、寅さんシリーズのベストテンをと求められるまで、ずっと『男はつらいよ』シリーズには関心を寄せずに来ていた。その後は、'20年の『男はつらいよ50 お帰り寅さん』、'21年にキネマの神様、'22年にダウンタウンヒーローズ['88]、'23年こんにちは、母さんと観てきている。

 『十五才~学校Ⅳ~』の日誌には演出の確かさや感情の細やかさにおいて、山田洋次はさすがの円熟を遺憾なく発揮していて見事だ。と記しながらも、並置した『バトル・ロワイアル』の深作監督について学校自体は描かずとも学校教育への疑問と不満を表明している面もある山田作品の批判精神など足元に及ぶべくもない強烈で怒りの眼差しの篭もった大人たちへの反発があって、その精神の若々しさに圧倒される。と述べ、山田作品のほうはこの映画を観て、ある種の癒しを覚える人が少なからずいることを確信できるような作品だ。実際、僕も大いに心打たれた場面がいくつかあった。でも、感動して、そこに癒しを覚えるのは、おそらく総て大人だろうという気がする。それはそれで悪くはないが、少年を主人公にしていて少年世代の共感を得にくいように思われる作品というのは、大人の癒しのために子供が出汁にされているようで、少年たちに後ろめたい気にもさせられるし、下手したら、むしろ世代間断絶を助長しかねない情緒を育むかもしれない。としていた。

 続く『たそがれ清兵衛』では山田洋次監督が藤沢周平を原作に初の本格的時代劇に挑むと聞いて、そう言えば、山田的“真・善・美”の世界は、現代劇よりもむしろ時代劇のほうが、妙な説教臭さや虚構性が気にならない自然な形で生きてきそうだと感じたのだが、観てみると思った以上の出来栄えだった。としていて、『おとうと』には当年七十九歳になる山田洋次監督の『おとうと』は、まさしく車寅次郎を人情コメディとして作品化すると『男はつらいよ』になり、シリアスドラマとして描けば、本作になるという趣を持った映画だった。また、夜間学校の代わりにNPO事業者の運営によるホスピス施設に焦点を当ててもいて、言うなれば、山田監督の代表作『男はつらいよ』と『学校』を足し合わせたような作品だ。と記していた。

 僕が最も高く評価している山田作品は拵え物世界と言うほかない『永遠のゼロ』を撮った戦後生まれの山崎貴や百田尚樹が知らない時代を知る者として、リベラル派であれ自由主義歴史観派であれ、ファシズムに覆われ貧しく暗かった戦前だとか旧弊と共に美しき伝統の破壊された戦後だとかいった検証なき乱暴な思い込みによる歴史観が横行していることへの山田監督からの異議申し立てが託されていると日誌に綴っている十年前の作品『小さいおうち』なのだが、同作に三十六年先立つ本書が思いのほか興味深かった。

 映画監督としての仕事が充実していたからだろうが、あとがきに記された私には五〇〇枚からの原稿を書きおろすだけの体力的な余裕が到底ない。そこで…映画評論家の山田和夫氏の…リードで私が語り、それを三浦氏(大月書店の三浦嘉治)がまとめたものを私が目をとおし、手を入れていく、という方法P198)に相応しい引き出し方がなされていたように思う。三部作ならぬ三章建ての構成は「映画と私―映画について思うこと」「素材と脚本―モチーフと技術」「映画づくりの現場―スタッフと俳優と監督と」となっていて、第一章では「映画界にはいって」「映画との出会い」「映画とは」「映画とリアリズムについて」「「おかしさ」について」「観客とつくり手との共感」「「寅さん」とアメリカ人」「チャップリンについて」、第二章が「衝動の力」と「脚本について」、第三章は「私の演出」「監督とスタッフ」「「寅さん」のチーム」「演出家と俳優」「渥美清さんのこと」となっていた。

 (欧米人ではなく)ヨーロッパ人が映画を見るときと、日本人が映画を見るときの見方とはかなり違うのではないだろうか、映画に登場する人物をまるで自分の兄弟であるかのようにのりだして共感しながら見る見方はヨーロッパ人の感覚ではないように思うわけです。…画面のなかと見る自分が一体化してゆく、あるいは積極的に没入していくという見方がヨーロッパ人において成立するのかというと、とても疑問なのです。P32)との言葉に意表を突かれ、そのような観客観を持っていたのかと驚いた。そして、半世紀近くも前に私は前にいいましたように、満州から引揚てきたのですが、その当時、内地の田舎で、…電車に乗って学校にいくとき、デモクラシーというのはこうだとかああだとか、そして日本の政治について、さらには世界の将来について乗客たちがわいわい討論しあう光景をしょっちゅう見ていた記憶があります。それに比べて今は競輪という話題が出ると、競輪場にゆくみんなが、まるで一〇年も前からの友だちであったかのように親しく気持をかよい合わせ、楽しそうに話をする。そのことに、私はある種の羨望と同時に、なにやら悲しい気持を味わったのです。
 ひとつの社会にあって、人びとがなにに関心をもって生きているかということはもうそのまま文化の問題といっていい。…文化人という妙な言葉があって、あたかも文化人は文化をつくる人間であるかのように思われていますが、じつは文化というものは、民衆の生活のなかにあるものです。…
 今日の日本は、文化的にはまことに衰弱した時代なのでしょう。今娯楽といえば、末梢神経刺激的なものが圧倒的で、たとえば競輪やパチンコ、またトルコぶろやキャバレーであったりする。たしかに、人間の心にはつねに矛盾があって、たとえばおそろしいものから眼をそむけようと思いながら、同時にちょっとでいいから見てみたいという衝動をいだくものです。ですから、同じ娯楽、楽しみにも、良い楽しみと悪い楽しみがあり、しかもその悪い楽しみにきわめて魅力があるということは誰にも否定できない。しかし、楽しければよい、おもしろければよいのか、といえばそれは違います。…なにもかもいっしょくたにしてとにかくおもしろければいいという乱暴ないい方は間違っていると思います。
P49~P50)と嘆いていることが感慨深かった。

 なににたいして笑うかでその人間の人格が決まる、と昔からいいますが、笑いというものは、笑う人自身がもっている生活感覚、認識、思考で変わってきます。P67~P68)としつつ、『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』のなかのメロンのエピソードを引き、上映される映画館によってその笑い方が微妙に違うのです。P68~P69)として浅草と新宿の映画館での違いに言及していた。寅次郎が自分の分を取っておいてくれていないことに怒り出す場面は僕もよく覚えているが、笑うどころか何だか厭味なネタだなと思った記憶がある。寅さんに気持ちを寄せる浅草では笑いの量が少なく、メロン一切れぐらいで大さわぎする寅さんや貧しいその肉親たちがこっけいだという感じ方のほうが強いP69)というような見下ろし方をしていたから厭味なネタだと感じたのだろうと妙に得心した。欧米での『なつかしい風来坊』の上映に関して、拍手喝采だったアメリカ人の日本の小市民、サラリーマンの生活感情に寄せた思いと対照的に、ロンドンでの上映では観客が総体にしかつめらしく批評的な気分で見ていたP94~P95)と述べていた部分は、先に挙げた“ヨーロッパ人の感覚”とも重なる。

 そのうえで日本人にはわからないけどアメリカ人にはよくわかるというような映画はあるわけがないと思います。逆にいえば、私たちが感動する外国映画を製作した監督が、これは日本人にもわからせたい、というような意識でそれをつくったのかといえばけっしてそうではない。やはりどちらかといえばこの映画は自分の国の人たちだけがわかってくれるのだ、と考えてつくった映画だと思います。自分の国を、自分の民族を、その生活を誠実にみつめることによってはじめて、その映画は国や民族を越えて国際的なものになるのではないだろうか。P99)とも述べているが、同じようなことをタヴィアーニ兄弟の言葉として聞いた覚えがある。足元が留守になっているとか地に足のついていないような上っ面では感動を与えることはできないということなのだろう。そしてそれが『独裁者』という作品を見ていると、私はチャップリンがヒトラーという人間と自分自身に共通するものを描こうとしているように見えてないりません。つまり、チャップリンは自分のなかにある、ということは人間のなかにある、といいなおしてもいいのですが、権力というものへの憧れを告発しようとしている。戦争を企む奴、戦争を起こしたがっている奴は、しかしお前と同じ人間だということを忘れてはならない、とチャップリンはいっているような気がする。その己を見すえるきびしさ、すさまじさ、といったものを、あの作品からおそろしいまでに感じとってしまうのです。P108)との一節に繋がっていくところに感心した。

 そして、最後に芸術というのはけっしてひねくれた小理屈や、判じ絵の如きものではない、それは人をして心を開かせるもの、気持をのびやかにときほぐすもの、うんと大きく広がった先に永遠の高みが見えるようなものではないでしょうか。良いものを良い、と称えることこそむずかしいことだと思います。良いものはとても当りまえのものだし、誰にでもわかることだからです。P195~P196)と述べているところに、山田監督の自負と気合を感じた。

by ヤマ

'25. 9. 1. 国民文庫



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