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『ペンギン・レッスン』(The Penguin Lessons)['24]
監督 ピーター・カッタネオ

 ちょうど今から半世紀前の軍政下アルゼンチンで起こった出来事を綴った体験記を映画化した作品のようだが、1976年と言えば、まさに僕が大学進学をした年で、同窓生の多くがその年に十九歳を迎えていたのだから、本作に登場した女学生ソフィアとは同じ年配になるわけだ。映画の最後に、半世紀を経た今なお、逮捕拘束されたまま行方不明の人々の消息を求める要請が続けられているとのテロップが現われたが、劇中しばしば登場していた軍服姿の武装兵士が日常的に街中にいる光景の気持ちの悪さには、英国人教師のトム・ミッシェル(スティーヴ・クーガン)が繰返し見せていた強張った表情が偲ばせていた以上のものがあったような気がする。

 畢竟、トムが「自由」について想いを巡らせる場面の示唆していたものがペンギン・レッスンに外ならないということなのだろう。物言わぬペンギン相手にしか忌憚のない思いの表白ができない社会の息苦しさには、武装兵士や秘密警察が街中を闊歩している社会環境が確実に影響を及ぼしているはずだ。

 二ヶ月前に観たばかりの同年作品アイム・スティル・ヒアが描いていたのは、1970年のブラジルだったが、同じく軍政下における反体制派弾圧だった。折しも我が国ではスパイ防止法なるものの制定が広言されるようになっている。外国の脅威を煽り立てる風潮を醸成することで勢いを得てきているが、本作でも外国人のトムは殴られ脅されはしても一日で解放されたことに対し、彼が解放を求めたソフィアが戻って来たのは、卒業シーズンになってからで、しかも、拘留によるやつれだけでは済まない打撲の痕を今なお顔面に湛えた姿での解放だったように見えた。

 反体制派弾圧は、歴史的に見ても当然ながら自国民に向けられて行使されるものだ。スパイの名のもとに目の敵にされるのは外国人スパイではなく、国権よりも人権の尊重を求める反体制派国民であるのは、古今東西の国家主義者がさんざん繰り返し、今も現に行っていることを観れば明らかなのに、いつまで経ってもかような扇動に乗せられる輩が絶えないことが悲しい。

 すると、高校時分の映画部の部長だった友人からペンギンにみんなが「告解的独白」をしていたシーンは白眉やったねぇ。とのコメントが寄せられた。言葉にして発することによって初めて人が変わり得るというのは、かなり普遍的なことだから、きちんと言葉にできる相手の存在が如何に大きいかということを印象づけていた点からも、大事なことが描かれている作品だった気がする。

 映画に感動して原作を読んだというネットの知人女性によれば原作のトムは20代の若者で…映画のようにペンギンを救う際の女性も出て来ない。掃除のおばさんのマリアは出て来るが、…ソフィアはいないし、ソフィアとトムが軍部に連行されて拷問されるという事もないのだそうだ。青年とペンギンの暖かい交流話から、残虐な軍事政権下のアルゼンチンの世相を巧みに取り込んだ映画を作ってしまった脚本家と監督は凄いなあ…と記していたが、実物のフアン・サルバトールがプールで泳ぐのを撮影した当時の8mmフィルムと思しき映像をエンドロールで流していた。実話に基づくと冒頭でクレジットされた実話というのは、フアン・サルバトールと名付けられたペンギンの存在とトムの職業、そして、軍政下当時のアルゼンチンで行なわれていた反体制派への弾圧ということなのだろう。

 秘密警察に拉致される際にトム、助けて!とソフィアから呼ばれながらも身が竦んでいたことの情けなさに傷ついていた劇中のトムが、たまたま街で見つけた幼い娘連れの秘密警察指揮官に向って慎重に言葉を選びながら恐る恐るソフィアの解放を求めたことで自分が拘束連行されて殴られ脅されて帰って来たときに、同僚から一日で解放されるとは思わなかったとの言葉とともに、虐待されたことを労わられて痛い、しかし、気分はいいんだと告げていたのが印象深い。不慮の心外な交通事故によって十三歳で愛娘を奪われ、家庭も崩壊したというトムからの懇願に対してそれで、俺に正しいことをしろというのかと返していた男に屈託の蔭をよぎらせているように感じられた点も心に残った。軍政下の反体制派弾圧という情勢に見舞われなければ、彼とても好き好んで、こういうことはしていないはずなのだと作り手が訴えているように感じた。
by ヤマ

'26. 1.28. キネマM



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