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『ジョンとメリー』(John and Mary)['69] 『田舎の日曜日』(Un Dimanche à La Campagne)['84] | |||||
監督 ピーター・イエーツ 監督 ベルトラン・タヴェルニエ | |||||
今回の課題作は、とある一日を描いた映画という括りでカップリングされたと思しき米仏の二作品だった。先に観たのは、'60年代のアメリカ映画『ジョンとメリー』。'70年代に思春期を過ごした僕には、これがケンとメリーならぬ『ジョンとメリー』かとの思いが湧いた。 同衾して互いに背を向け合って眠っている素っ裸の二人が迎える朝から始まり、そそくさと素っ裸になって二人がベッドに潜り込む夜を迎えて終える一日を観ながら、若い時分に観ていたらもう少し感興が湧いただろうになどと思いつつ、この何だかやけにめんどくさそうな二人が、この後、うまくいくような気がしてこなかった。ジョン(ダスティン・ホフマン)のあの質では、ルース(サニー・グリフィン)たち同様に、MURRYならぬMARY(ミア・ファロー)も、いずれ出て行くことになりそうな気がする。 '60年代最後の年の作品だが、この時分でも既に、いわゆる“意識高い系”の記号として自然食品マニアが使われていたことに驚いた。メリーがジョンに惹かれたのには、多分にジェームズ(マイケル・トーラン)との不倫のもたらした痛手が作用しているように感じられ、『十八歳、海へ』['79]の有島悠(島村佳江)を想起した。ただ、セックスに対するオープンな感覚が本作には宿っていて、今の時代の男女にはなさそうな風通しの良さが初対面の二人に感じられた。 すると、主宰者から映画の話法がとても好きなのだとのコメントが寄せられたので、内心の声を台詞にして語る話法か、それとも少々込入った感じのカットバックの繋ぎ方のほうかと訊ねたら、両方とのこと。僕は、前者は些か映画的ではない気がして感心しないが、後者はなかなか映画的な感じがして好かったような気がしている。 翌日に観た『田舎の日曜日』は、三十九年前に『エル・スール』との二本立てで観た作品だ。劇中でも再度繰り返される「イレーヌ、人生は欲張っては駄目よ」との母の台詞で始まる、とある田舎の日曜日を綴った作品で、オープニングの朝日射す優雅な邸宅で息子家族の来訪に備えて身支度を始める老画家ラドミラル氏(ルイ・デュクルー)の姿が微笑ましかった。 程なく古希を迎えようかという歳になっている今観直すと、二十代の時分と比較して、どのように映って来るのか違いが楽しみだったのだが、ラドミラル氏の息子ゴンザグ/エドアール(ミシェル・オーモン)の歳も過ぎ、老画家の歳が近くなっている今、卑近に映ってくる老境を思うに、二十代時分の日誌を読み返して、思いの外よく観ているじゃないかと、我ながら感心するようなところがあった。老画家の嗜むリキュールの色まで含めて僕の好きな緑色に溢れた綺麗な画面を愉しみつつ、僕ならば、娘のイレーヌ(サヴィーヌ・アゼマ)とのダンスよりも、肩車などしていた孫娘ミレイユと戯れるほうが楽しいような気がした。もっともラドミラル氏にとっては、絵心を解するイレーヌは特別な存在だったのだろう。 興味深かったのが、老画家が娘に語る「わしは独創性をほかの画家の中に見た。セザンヌの大展覧会のときだ。'96年か'97年だった。刺激されたが、ついて行ったらどうなったことか。ゴッホを初めて見たとき、わしは心ひかれた。ひと夏、アルルに出かけて描いた。母さんもいた。…おそらく勇気が欠けていた。何年か前、決心をしかけたよ。手法を変えようと真剣に考えていた。ただ母さんがこの年で模索するわしを見てつらい思いをするのだ。勲章をもらったときで地位もできてしまった。他人の独創性を模倣したところで、わしが認める画家のモネ、カイユボット、ルノワールにわしが及ぶはずがない。自分のものを失ったろうさ。小さな世界だが…」との述懐だった。父のその言葉を真剣に聴いているイレーヌの眼差しがなかなか好い。そこで娘が踊ってと申し出るのだが、この老画家の台詞に、映画の作り手としての当時四十路半ばのタヴェルニエの心境が投影されているような気がした。 合評会では、『田舎の日曜日』のナレーションが鬱陶しかったとの声が先ず上がり、全員が一致した。そこで、『ジョンとメリー』の内心の声の台詞化のほうはどうかと訊ねると、僕以外の三人は気にならなかったとのことで、些か驚いた。 気にならないどころか、話法の新しさとして効果的だったと、むしろ積極的に支持する声もあった。それもあってか、各人の支持も三対一で『ジョンとメリー』が上回った。かつての若かりし頃を懐かしむ気分になったという意見もあった。パブで出会った初めての晩に互いの名前も知らぬままに一夜を共にした経験などない僕には及びもつかないところながら、執心と疑念の交錯する心の内のようなものはわからぬではない。 だが、ダスティン・ホフマンが『卒業』['67]で演じたベンにも通じるジョンの唐変木ぶりには、呆れが先立ち、共感が湧かなかった。気紛れメリーのミア・ファローには少しも惹かれなかった僕は、画家としての葛藤を語る老父の言葉を真剣な眼差しで聴いて、父に「パパ、私と踊って」と声を掛けたイレーヌを演じたサヴィーヌ・アゼマには大いに魅せられたので、『田舎の日曜日』のほうに投じた。 その『田舎の日曜日』に対しては、悪くはないけれど、いかにも何の変哲もない話で感興に乏しかったという意見があったけれども、四十年前の日誌に「映画が、多くの場合、日常性に楔を打つものとしてあればこそ、こういった日常性の側に立った作品は少ないということなのかもしれないが、単にそういった稀少価値だけではなく、映像としてもストーリー・テーマとしても穏やかさを穏やかに表現し得たところがなかなかのものである」と綴り、「通常、こうした心情を背景にした家族劇が描かれると、多くの場合、個人の寂しさがクローズ・アップされたり、家族的な穏やかさを保つための自制とか演技を自身への欺瞞とする視点であったり、そうでなければ、極端に自己犠牲を伴う人情劇であったりする。そうした派手さや殊更のような問題意識を捨てて、各人の対等ないしは応分の自制と演技によって保たれる共同作業としての穏やかさの家族にとっての価値や掛け替えのなさが描かれることは少ない。しかし、多くの人々の日常性を支えているものが、まさにここにある」と述べているように、個人映画なども含めて今ほどに日常性の側に立つ作品が氾濫する前の時代の映画として際立っているし、映画の話法としての新しさも充分にある作品だったような気がする。 期せずして主宰者からも、元々明確なテーマ設定の下に選んだカップリングではなかったが、結果的に映画の話法について考えさせてくれる作品が並んだように感じているとの付言の元、今回のカップリングテーマは、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ(A Day in the Life)~人生のある一日の情景~」ということでどうだろうかとの提案があった。むろん誰からも異論はなく、承認された。意図して組まれた二本ではなかったことに驚くほどに、なかなかのナイスカップリングだと思った。 ラドミラル氏が最後に描きかけの室内画を外し、新たなカンバスを構えて向きを変え、画想を練り始めて終わった『田舎の日曜日』については、次に氏が描き始めるのはどのような画だろうかとの投げ掛けもあった。これまでの画風を捨てて新たな挑戦を始めるのではないかとの意見もあったが、僕は老父の話を聴いて「パパ、私と踊って」と言ったときのイレーヌを描いてほしいと思った。 | |||||
by ヤマ '25. 4.12. DVD観賞 '25. 4.13. DVD観賞 | |||||
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