『しあわせのパン』['11]
『ぶどうのなみだ』['14]
監督・脚本 三島有紀子

 これまで『繕い裁つ人』少女幼な子われらに生まれを観ている三島監督の未見の初期作品を続けて観る機会を得た。両作とも北海道を舞台にした大泉洋主演作だった。

 先に観た『しあわせのパン』は、十三年前の作品だ。当時はまだ、かように長閑でメルヘンチックなファンタジーが撮れたのだなと妙な感慨を覚えた。四組の“一人ではなく二人”を噛み締める二人の関係をバランスに配慮して描いていたような気がする。失意と倦怠に見舞われているなかで思わぬ出会いを得た若い男女(平岡祐太・森カンナ)、母親が去ってわだかまりを抱えていた父娘家庭(光石研・八木優希)、生きる意味と希望を失っていた老夫婦(中村嘉葎雄・渡辺美佐子)。そして、しあわせのパンを焼く水縞夫妻(大泉洋・原田知世)の四組だ。

 夏に訪れた香織を演じていた森カンナが目を惹いたが、覚えのない女優だった。本作以降、どのような映画に出ていたのだろう。怪訝な気がした。コンパニオンならぬカンパニオンという言葉がパンから来ているというのは、本当の話なのだろうか。乾杯のほうは日本語だから、かこつけたものなのだろうが、悪くないアナロジーではないかと感心した。仲間としてのカンパニーに乾杯は付き物だ。

 三年後となる次作『ぶどうのなみだ』は、大泉洋がコンダクターという思い掛けない配役によるマスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ田舎の騎士道)で始まり、前作を観て乾杯のほうは日本語だから、かこつけたものなのだろうが、悪くないアナロジーじゃないかと感心した「乾杯!」で終えるカンパニオン物語だったように思う。

 前作では本多力が演じた郵便屋を思わせるキャラクター(前野朋哉)が配され、陽子さん(余貴美子)に当たるリリさん(りりィ)や、アコーディオン弾きの阿部さん(あがた森魚)に当たるバーバーミウラ(きたろう)、仲良しの広川(中村靖日)に当たる警官のアサヒ(田口トモロヲ)のみならず、パンとコーヒーの次は、ワインかと思わぬでもなかったが、悪くない話だった気がする。一日の終わりには乾杯とアサヒが言い、ね、乾杯しよとエリカ(安藤裕子)が言う物語だったのは、ワインを素材にした作品なれば、さもあらんと言うほかない。

 印象深かったのは、前作同様、幼き時分に母に去られる少女(高嶋琴羽)が登場することで、オリジナル脚本も兼ねた三島監督の原体験なのかもしれないと思った。自分の名はヒース(荒地)から来るものだと語るエリカの言葉には『嵐が丘』を思わぬでもなかったが、豈図らんやおよそテイストの異なる作品だった。むしろエリカの母親である岩田伶子(江波杏子)が言っていた“荒野に逞しく可憐に咲く明紫色の花のイメージ”に彩られていたように思う。

 兄アオ(大泉洋)が言っていた変わらなきゃダメなんだよだとか、ワインはブドウが形を変えて生まれ変わったものだと言った言葉に窺える、「変わること」への肯定感が一般的になったのは、いつからだろうと思ったりした。僕が子どもの時分には、不変や一貫性に比べて「変わること」というのは、心変わりや変節といった言葉にあるように、あまり褒められることではなかったような気がする。ところが今や「変わらなきゃダメなんだよ」というわけだ。

 ちょうど理想と現実という問題において、かつては理想のほうが高位で現実論が低位だったものが逆転しているのと通底している気がしている。建前が蔑ろにされ、本音のほうが大事だとされるようになるや、いかなる本音であれ、本音でありさえすれば、それは建前に優るといった本末転倒した考え方が一般化してきていることにも通じるものがあるような気がしてならない。そのようななかにあって、本作ではエリカが大事にし、探し求めているものが不変の象徴とも言えなくないアンモナイトである点が意味深長だと感じる。

 それはともかく、おそらく『ぶどうのなみだ』とのタイトルは、ワインのことを指すのだろうと思っていたら、厳しい冬の積雪に耐え、雪解けた雫が垂れたもののことだと言っていたことに意表を突かれたが、アオがようやく完成させたワインに付けた名前が「ぶどうのなみだ」だった。

 前作のナオ(大泉洋)のパートナーは、りえ(原田知世)だったが、本作では、一回り歳の離れた弟の緑【ロク】(染谷将太)になっていた。僕の好みとしては、こちらのほうだ。ただ、カンパニオン物語の楽隊が演奏する楽曲にブラスの響きが混じっていることが目に映るものと乖離していて、空知ならぬ空耳みたいで違和感があった。クストリッツァ作品を思わせる好い場面だったのに勿体ない気がする。
by ヤマ

'24. 2.19,20. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>