『いまを生きる』(Dead Poets Society)['89]
『コッホ先生と僕らの革命』(Der Ganz Große Traum)['11]
監督 ピーター・ウィアー
監督 セバスチャン・グロブラー

 先に観たのは、名ばかり知る作だったアメリカ映画『いまを生きる』だ。原題「死せる詩人の会」の創始者だったキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)は、恋人をロンドンに残したまま、何を思ってアメリカの母校ウェルトン学院に赴任してきたのだろうなどと思った。トラディション【伝統】・オナー【名誉】・ディシプリン【規律】・エクセレンス【美徳】を掲げた母校の全寮制管理教育への、かつて敗れ去った抵抗のリベンジを内に秘めてのものだったのだろうか。

 だとすれば、ニール(ロバート・ショーン・レナード)に訪れた悲劇に対して、いささか不用意が過ぎた気がするし、その悔恨というか慙愧の念に苛まれていた風情は、確かに描かれてもいたけれど、一部とはいえ、少なからぬ生徒が立ち上がり、キーティング先生の自身を見つめ自身で考える力を身につけるという教育方針への支持を表明する、いわゆる感動的な場面で締め括るだけでは少々座りが悪い気がした。

 ニールと父親(カートウッド・スミス)との遣り取りのつぶさまでを知らずとも、公演本番前日になって主役に舞台をキャンセルしろなどと言ってくる父親をおいそれと説得できるはずがないことは自明なのに、それを十分確認しないままに了承してもらったと言うニールの言葉を鵜吞みにしていたことに対する“結果責任”として甘受していたことは支持できるものの、それで去るだけでは、もともと何を思って赴任してきたのかとの想いが抜き難かった。

 それにしても、ニールの父親の愚昧と学院長(ノーマン・ロイド)の不見識の後味の悪さにかなり苛立った。そして、アメリカであれ、日本であれ、エスタブリッシュメント層を担っていくエリートというのは、事態の重大さを察していち早く、学院長に「死せる詩人の会」の秘密を報告し、犯人探しをしたい学校側にキーティング先生を生贄として差し出していたミークス(アレロン・ルジェロ)のような保身と計算高さに長けた人物なのだろうと思うと、ますます以て気が塞いでくる。


 三か月後に観たドイツ映画『コッホ先生と僕らの革命』は、手元にあるチラシにドイツ版『いまを生きる』とあったが、確かに、と得心した。実在したというコンラート・コッホ先生(ダニエル・ブリュール)が赴任した町ブラウンシュバイクの学校は、キーティング先生の母校のように、トラディション【伝統】・オナー【名誉】・ディシプリン【規律】・エクセレンス【美徳】を掲げてはいなかったけれども、よく似た感じのお高く留まった校風だったような気がする。そして、ニールの父親に当たるのがハートゥンク(テオ・トレブス)の父親たる後援会長(ユストゥス・フォン・ドホナーニ)だったわけだが、校長(バーグハルト・クラウスナー)は『いまを生きる』の学院長とは逆にコッホ先生を庇護していた。

 三ヶ月前に『いまを生きる』を観たときも思ったが、アメリカやドイツの学校の教育方針として映し出されるものが僕のイメージにある英国風に見えるところが興味深い。教師に逆らう生徒に手の甲を出させ、指示棒で打つスタイルなど、英国風に思えて仕方がなかった。そして、そこに新風を吹き込もうとする教師が、両作ともイギリス帰りというわけだ。規律と従順ではなく、フェアプレイと自律の精神を教えようと奮闘し、子どもたちから慕われていく姿が描かれていた。

 それにしても、今でこそサッカーはワールドワイドなスポーツだが、僕が若い頃は、ブラジル・ドイツを両巨頭にイギリス・アルゼンチンが続くというイメージのマイナースポーツだった印象がある。イギリスが発祥というのは覚えがあるけれど、1874年当時のドイツでは禁止もされたりしていたとは思いがけず、大いに驚いた。両国は、映像の世紀バタフライエフェクト「チャーチルVSヒトラーで採り上げられていた二人を思い起こさせる、実に因縁のある国同士なのだなと思ったりした。

 また、労働者階級の少年ヨスト・ボーンシュテット(アドリアン・ムーア)へのハートゥンクの振る舞いを観ていると、いじめを生み出すものが差別意識と己が抱えているストレスであることが、とてもよく判る描き方をしているようにも思った。その点では、実に普遍的な啓発を含んでいる作品だったような気がする。
by ヤマ

'23.12.16. BSプレミアム録画
'24. 3.18. BSプレミアム録画



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