『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird)['62]
『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)['62]
監督 ロバート・マリガン
監督 デヴィッド・リーン

 先に観たのは『アラバマ物語』ローマの休日['53]大いなる西部['58]西部開拓史['62]にも通じる、ハリウッドの加藤剛とも言えそうなグレゴリー・ペックらしいキャラクターのリベラルな弁護士アティカス・フィンチの見せる矜持もさることながら、原題の「モッキングバードを殺すこと」が何ゆえ、アラバマ物語という題になっているのかのほうが興味深い作品だった。

 アラバマすなわちアメリカ南部の物語というわけだが、差別問題以上にミステリアス・サウスというか、むかしギフト['00]を観た際にも触れた“不可思議な感覚”の漂っているところが目を惹いた。

 原題のモッキングバードの指しているものは何だったのだろう。白人娘メイエラ・ユーエル(コリン・ウィルコックス)に陥れられたと思しき黒人青年トム(ブロック・ピーターズ)とするには、彼は誰の物まねでも、また、格別美しい声【言葉】で人々を慰めていたわけでもないから腑に落ちないし、人としてのあるべき姿を説き、体現しようとしていたアティカスだとするには彼に死が訪れたわけでもなく、合点のいかないところがあった。しばし反芻してみて思い当たったのは、原題は人道や良心を封殺しようとする集団的圧力のことを指しているのかもしれないということだった。即ち、陪審員たちが下した評決の類のことだ。森友学園事件で良心的な役人を死に追いやった理不尽な圧力のことを想起しないではいられなかった。

 だが、魔人ブーことアーサー・ラドリー(ロバート・デュバル)を巡る三人の子どもたちの関わりを語る運びに、些かまどろっこしいところがあって少々倦んだ。1932年に六歳だったアティカスの幼い娘スカウト(メアリー・バダム)が語り手として長じて幼時を振り返っている物語だから、已む無き所もあるのだろう。子どもの目には秘密と闇だらけに映る大人の世界を印象づけることによって、大人からしても秘密と闇だらけに映る南部世界を描出しようとしていたような気がする。

 噂を信じちゃいけないよというアティカス弁護士の台詞もあったように思うが、噂を“世間の常識”“大人たちの言うこと”に置き換えてもいい。人を理解するには、その人の靴を履いて歩けと父は言っていたけど、ポーチに立つだけで充分だったと述懐する聡明なスカウトことジーン・ルイーズ・フィンチ(キム・スタンリー)ならずとも、ミステリアス南部を理解するには、四歳上の兄ジェム(フィリップ・アルフォード)と自分のように生まれ育たずとも、幼友達ディル(ジョン・メグナ)のようにバカンスに訪れ暮らすだけでも充分なのかもしれない。

 また、いまの時代に観ると、性被害を主張する女性の逆恨みによって濡れ衣を着せられる男の物語にもなっていたことが目を惹いた。あろうことか黒人に色目を使ったとして怒り狂ったと思しき父親ボブ・ユーエル(ジェームズ・アンダーソン)から暴力的に強制されたドメスティック・ヴァイオレンス問題も含んでいて、半世紀以上も前になる公民権運動の時代の人種差別を描いただけに留まらない普遍性を宿した作品であることは間違いない。暴行場面も誘惑場面も画面には映し出さず、証言だけしか見せない事件の顛末は、誰の言葉が真実なのか矢張り“秘密と闇”に包まれていたような気がする。もしかすると、メイエラの証言はそっくりそのまま父親から暴力によって強いられたものであって、トムを誘惑して拒まれたことすら事実としてはないのかもしれず、すべては娘への自分の暴行を黒人トムに擦り付けるための方便だった気さえするボブの有様だったように思う。

 序盤に現れる隣家のデュボース夫人(ルース・ホワイト)にアティカスが掛ける耳障りの好い言葉の方便と、最後にヘック保安官(フランク・オーヴァートン)がアティカスに諭す言葉が対になって、大人の世界には必要な“道理に根差した偽り”が描かれていたわけだが、それこそが道理なき偽りを呼び込む土台にもなっていると言える。そこのところを分かつ鍵こそは、「モッキングバードを殺すことは罪だ」とする良心と人道の精神と知性なのだろう。アティカスが夫人に掛ける言葉を嘘偽りだと咎める子どもたちの仕草を後ろ手で制止していた姿と、ボブの死の真相を明らかにすべきことに苦悩する弁護士を制して、事故死にするよう諭していた保安官の姿が印象深い。アーサー・ラドリーの真の姿のように、明かされるべき“秘密と闇”と、そうではないものとがあるのが人間社会の真実であって、それは何もアメリカ南部に限った話ではない。なかなか奥の深い物語だった。


 四十二年前に名画座で『ユーズド・カー』との併映で観て以来と思しき『アラビアのロレンス』の四時間近くに及ぶ完全版を観たのは初めてだが、画面のスケール感と色彩の美しさに驚いた。その“清潔さ”ゆえに砂漠に魅了されるのだと言うトーマス・エドワード・ロレンス(ピーター・オトゥール)には、薄汚い三枚舌外交の政治の世界が馴染まなかったということなのだろう。だが、専ら砂漠と戦闘に生きた男の生涯を見せる作品であった点から、内容的には、以前BSプレミアム録画で観た、映像の世紀バタフライエフェクト「砂漠の英雄と百年の悲劇のほうが面白かったような気がした。

 それにしても、見事な画面だった。ベドウィンさえもが不可能だとする内陸部からのアカバ奇襲作戦よりも、シナイ半島を横断してスエズ運河に出た場面が気に入っている。オマー・シャリフの演じたシャリーフ・アリのみならず、アレック・ギネスの演じたファイサル王子、アンソニー・クインの演じたアウダ・アブ・タイを加えた三人のアラブ人の個性の対照が利いていて、観応えのある映画になっていたように思う。失踪するバイクのように砂漠を駆け抜け、老境を迎えることなく、苦難の人生を駆け抜けて逝ったロレンスの姿を、悲劇の英雄として美しく描いていた。最後にバイクに追い抜かれる姿で終えていたのは、ロレンスが時流に取り残されていったことを暗示していたような気もする。


 合評会では、年に数百本単位で映画を観ている筋金入りの映画部長から、彼が映画に開眼した記念作であり、これまでにニ十回近くも観ているという『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールがアカデミー賞主演男優賞を争って敗れた『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックとの主演男優賞争いは、どちらに軍配が上がるべきだったと思うかという趣向によるカップリングだったとの解題があった。

 その意向を受けてか、他のメンバーは、すんなりピーターのほうを支持していたが、僕は『アラビアのロレンス』という作品でキャラクター的に存在感を発揮していたのは、ロレンス以上にアラブ人三人のほうで、同作で主演を言うなら「砂漠」に他ならない気がしていたものだから、それからすれば『アラバマ物語』のグレゴリーは、紛れもなく同作の主演者として映っていたように思うと応えた。脚本の奥が深い『アラバマ物語』と圧倒的な画面で魅せる『アラビアのロレンス』は、ある意味、対照的な映画作品だから比較がなかなか難しいとも添えた意見に賛同してくれるメンバーもいた。ちなみに件の映画部長は「あのスエズ運河がえいよね。それを観にアカバ~紅海ースエズ運河クルーズに申し込もうと思ってる。😂」のだそうだ。

 また、『アラバマ物語』が些かまどろっこしくさえ感じさせる前半部を何ゆえ置いてあったのかということと原題の意味するところがフックとなって反芻するうちに浮かび上がってきた、“秘密と闇”を鍵にした僕なりの解題を述べると、成程と大いに賛同が得られて愉しかった。
by ヤマ

'24. 3.11. DVD観賞
'24. 3.14/BSプレミアム録画



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