『枯れ葉』(Kuolleet lehdet)['23]
監督・脚本 アキ・カウリスマキ

 県民文化ホール・グリーンで映画観賞をするのは、コロナ禍が始まる前の'19.1.19.の『ブルーハーツが聴こえる』以来だから、五年ぶりになる。かつて自主上映活動に携わっていた時分にホームグランドのようにしていた場所だから、随分久しぶりだなと映画が始まる前から妙に感慨深かった。

 そんなことも作用したのかもしれないが、'91年の新宿シネマスクエアでの『マッチ工場の少女』『スルー・ザ・ワイヤー』から始まり、テアトル梅田で観た『コントラクト・キラー』,'92年真夜中の虹,'94年『レニングラード・カウボーイズ モーゼに会う』,'97年『浮き雲』『愛しのタチアナ』,'98年『トータル・バラライカ・ショー』,'00年『白い花びら』,'03年過去のない男,'07年『街のあかり』,'12年ル・アーブルの靴磨き,'16年のフィンランドの名匠「アキ・カウリスマキ監督特集」での6作(『罪と罰』『カラマリ・ユニオン』『パラダイスの夕暮れ』『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』『真夜中の虹』『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』),'18年『希望のかなた』と観てきたところで、浮き雲を昨秋再見したばかりのカウリスマキの新作が、まるで'90年代の作品群を彷彿させるスタイルだったことに驚くとともに、何とも懐かしくてたまらなかった。

 純然たる新作で、時代背景も、ゼレンスキー大統領の訴えがラジオを通じて繰り返される紛れもなき“現在”であって、郷愁を誘う時代を描いているわけではないのに、カウリスマキ作品のミューズとも言うべきカティ・オウティネンを偲ばせるところのあるアルマ・ポウスティの演じるアンサが、バスや電車のシートに腰掛けて漂わせている無表情を捉えたカットの角度といいサイズといい、'90年代のカウリスマキ作品を呼び起こしてきたりするものだから、時間の感覚が狂ってしまい、新作を観ているのに旧作を観ているような得も言われぬ心持ちになってきた。音楽がまた懐かしい響きで奏でるものだから尚のことだ。

 それにしても、とても現在とは思えぬ風俗のファンタジックなまでの古めかしさはどうだろう。実際のヘルシンキがここまで古式ゆかしいとは思えぬほどに、ラジオの型式にしても映画館で掛かっている作品にしても、もはや作り手の趣味で造形し構築した世界に他ならない気がした。ホラッパ(ユッシ・ヴァタネン)が失くす電話番号のメモにしても、せっかくの資格を不意にして得た職をも失うほどに浸っていたアルコール依存がそう易々と克服できるはずもないことにしても、アンサとホラッパの関わりの始まりにしても再会にしても、彼らが見舞われる不運にしても、現実離れしているとしか思えないと同時に、現実世界で起きても何ら不思議はない気もしてくるあたりがミソなのだと思わずにいられなかった。「人が生きている世界というのは、ウクライナに限らず元々実に危うく不確かな世界であるわけだ」などという“ファンタジーとは真逆のメッセージ”を含んで尚且つ、実にファンタジックだという稀有な味わいを宿していた気がする。

 折しも映友たちとの定例合評会で松竹ヌーベルバーグの旗手の一人である篠田正浩監督の'64年作品二作を観た折から、同時代で過ごすには僕が十年ほど遅れたヌーベルバーグと違って、'90年代に持て囃されたキアロスタミやカウリスマキのスタイルについて振り返ることができた。'94年に観た虹のアルバムの日誌に劇映画とドキュメンタリー映画が相互に接近し、乗り入れを図り始めている今日の映画状況と記し、映画新聞に寄せた鈴木志郎康著『映画素志』書評九〇年代に入って、それ以前とはかなり違う形でドキュメンタリー・フィルムが注目されるようになってきている。それは、一方では、かつて劇映画においてドキュメンタリー・タッチと称されたスタイルの問題とは本質的に異なる、方法論の問題として劇映画を触発し、他方では、ドキュメンタリー・フィルムのドラマティックな編集という、いわば、劇映画とドキュメンタリー・フィルムの相互乗り入れという状況のなかに顕著に窺える。特に最近のアッバス・キアロスタミの公開やケン・ローチのレトロスペクティヴ、セミョーン・D・アラノヴィッチやキドラッド・タヒミックへの関心の寄せられ方などを見ると、それは、単なる流行ではなく、映画の状況の現在を示す最も興味深い現象として捉えられるべきではないかと思われる。と述べた状況におけるキアロスタミと対照的な位置にカウリスマキ作品があったことを改めて感じた。

 キアロスタミがドキュメンタリー的な設えのなかで劇映画的世界を構築していたことに対して、カウリスマキは屋外にカメラを持ち出してさえもスタジオ撮影によるフィクショナルな劇映画的な設えを構えたうえで劇的な物語を劇的には語らずにドキュメンタリー的な抑制を利かせるスタイルを取っていたように思う。両者の作品が当時、めっぽう新鮮に感じられたのは、それゆえだったような気がする。そして、両者の作品を見合わせることで、映画における劇性とは何かということについて思いを巡らせた覚えがあることを、懐かしく思い出した。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20240115
by ヤマ

'24. 1.29. 県民文化ホール・グリーン



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