『カケラ』['09]
『過激派オペラ』['16]
『エゴイスト』
監督・脚本 安藤モモ子
監督・原作 江本純子
監督 松永大司

 奇しくも同性愛を描いた映画を三作品続けて観る機会を得た。最初に観たのが『カケラ』だ。どうも『エゴイスト』に食指が動かないでいたら、思い掛けなく配信動画サイトで見つけたので、かねてより気になっていた宿題を片付ける気になったものだ。後半いささか失速した観があったけれども、なかなか達者な画面作りと運びに大いに感心した。

 そこに描かれていた「恋人って何? 付き合うって何?」というのは、相手が異性だろうが同性だろうが、真面目に恋と向き合う若者には、一大事であることがひしひしと伝わってくるようなところがあって気に入った。

 後半失速したのは、落しどころをどうしたものかとの作り手の迷いの現れなのだろうと感じていたら、まるで「参った~」と投げ出すように最後は北川ハル(満島ひかり)の叫びで終えていた。だが、それもまた、若々しい真面目さのように感じられたような気がする。

 ハルの通う早稲田大学キャンパスの掲示板が政治経済学部のもので、2009年当時は、僕が通っていた時分と変わりがなかったことが感慨深く、大教室での講義場面がギュンター・グラスの小説『ブリキの太鼓』だったことが目を惹いた。桜沢エリカによる原作漫画『ラブ・ヴァイブス』にも出てくるのだろうか。

 それにしても、ハルには公然と二股をかけていた学友の了太(永岡佑)にしても、ハルに惹かれ声を掛けて出会いに変えたと言い、ハルに私はそうやって堂々と言えない、まだと言わせてしまうリコ(中村映里子)にしても、紛うことなきエゴイストとして現れていたことが本作を観る契機になった作品を想起させて面白かった。リコの職業が自己や病気で欠けた身体のパーツを作るメディカル・アーティストであることも利いていたように思う。

 山崎ハコの歌う気分を変えてが、妙に懐かしく、なかなか嵌っていた。


 すると、少々気になっていた『過激派オペラ』も思い掛けなく観ることができた。前日に『カケラ』['09]を観た流れで上がってきたのだろう。だが、全裸で縺れ合うレズビアンの姿態から始まる映画を観ながら、これが劇団「毛皮族」ならぬ劇団「毛布教」の過激派オペラかと、いかにもキワモノめいた造りの映画に呆気に取られた。

 手元にある公開当時のチラシによれば、毛皮族というのは“伝説の劇団”となるのだが、本作を観る限り、舞台公演を観てみたい思いには駆られなかった。主演の早織と愛のえじき 女教師ハルカの告白で見覚えのある範田紗々によるオープニングには圧倒されたが、いわゆる劇団活動というものにありがちなイメージを表層的に借用した感のある、重信ナオコ(早織)の性遍歴というか、女漁りに何を託していたのだろう。

 また、僕より、ちょうどニ十歳年下になる江本純子が、どういう思いから劇団「毛布教」の主宰者であり劇作家兼演出家に重信ナオコの名を与え、旗揚げ公演『過激派オペラ』を往年の学生運動において“過激派”と呼ばれた若者たちの如き角材に赤・青・黒・白のヘルメットのいで立ちで演じさせ、機銃掃射をさせていたのか、さっぱり響いて来なかったところが面白くなかった。

 打ち上げで囃し立てていた腰巻、腰巻…のコールは、状況劇場の腰巻お仙からなのだろうか。旗揚げ公演に続く演題が「花魁ゲリラ」というのも、何だかなぁとの思いが拭えなかった。岡高春を演じていた中村有沙は、わりと目を惹いていただけに、残念な気がした。


 『エゴイスト』は、予告編を観て、僕と相性の悪いウォン・カーウァイ的なナルシズムが漂っていそうな気が何となくしてきて、食指の動かなかった作品なのだが、映友女性からのかなり強めの推しを受けて観てきたものだ。

 オープニング、いきなり鈴木亮平がまだ役名も判らないまま、値段の高そうな背広を羽織って現れ、孤狼の血 LEVEL2の上林を想起させていたのが可笑しかったが、その後、サングラスを掛けて故郷を訪ねる場面が現われようとも、上林とは似ても似つかわぬ好人物の斎藤浩輔だった。だが、どうしても上林の不気味さの面影がよぎってしまうからか、中村龍太(宮沢氷魚)との蜜月ぶりが延々と描かれるに従って、このまま行くはずがないとのカタストロフの予感に見舞われていたら、あろうことか、実に唐突に龍太の死が訪れ、これは一体何を描こうとしているのか、と些か呆気に取られた。

 思わぬ事故や不幸は現れても、悪行悪人のいっさい登場しない人間模様を観ながら、恋愛感情というのは、ある種「特別さ」によって駆り立てられるものであればこそ、タブーに触れる倫ならぬ恋のほうが燃え盛り勝ちであることを思ったりした。劇的なものとして描かれがちな不倫の恋や同性愛のなかでも、ファンタジックという点では、本作は抜きん出ていたような気がする。十二年前に『ピュ〜ぴる』上映会の手伝いをした折に、空港にピュ〜ぴるさんと松永監督を迎えに行き、終日、会場の藁工倉庫で過ごして、とても好感度の高い監督さんだと感じた覚えがあることを思い出した。

 そして、飛び抜けてファンタジックな一方で、妙に生々しく熱っぽい性交場面が繰り返し描かれていて、少々風変わりな共存を果たしていたように思う。その意味では、ウォン・カーワァイとは少々異なる意味で、ナルシスティックだとも感じた。浩輔と龍太の蜜月を濃厚な情感を湛えた描出によって続けるだけでなく、性交場面が成人映画的に続出してくることに食傷したかのように、一席空けた隣で単独観賞していた女性が途中で席を立っていった。『カケラ』での、男との付き合いにも自分の生き方にもルーズにだらしなく臨んでいたハルを腋毛も処理しない姿で満島ひかりに体現させていた安藤モモ子とは対照的に、徹頭徹尾、清潔感とポジティヴな生き方を押し出しつつ、底流に寂寥感と孤独を漂わせていた松永大司の“生々しさへの臨み方”の違いが印象深い。

 それにしても、タイトルの「エゴイスト」が気になるところだ。辞書などによくある利己的な人ではないことは明らかだが、いわゆる自己中心的な人という点では、己が気の済まなさを巧みに押し込んでいく浩輔の振る舞いは、それが善行であり、龍太の母(阿川佐和子)が言うように、受け取る側が“済まない行為”ではなく“愛”だと受け取るなら許されるのだとしても、自身の押し付けである点においては、やはり自己中心的なものというわけだ。浩輔にはその自覚があるからこそ、済まないと詫びるのであり、詫びつつも「己が気の済まなさ」を抑えきれないということなのだろう。

 だが、そのことの何が問題なのだろう。そういったことを「エゴイスト」として思念してみることの意味が一体どこにあるのだろうと今一つピンと来ないままだった。とはいえ、『カケラ』のリコと本作の浩輔の対照には、なかなか興味深いものがあるようにも思う。ともあれ本作は、「気の済まない」と「気が知れない」の二つが終始現れ続けている作品だったような気がする。




*『カケラ』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2010kacinemaindex.html#anchor002006

*『エゴイスト』
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20230217
by ヤマ

'23. 2.18. GYAO!配信動画
'23. 2.20. GYAO!配信動画
'23. 2.24. TOHOシネマズ2



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