『鍵』['97]
監督 池田敏春

 先ごろ市川版『』['59]を再見したばかりのところへ偶々見つけたものだから、観逃す手はないと視聴してみたところ、思いのほか面白かった。売春防止法が施行されたばかりで、映画館に太陽の季節[S31]が掛かっている時分の物語だ。

 美術学者の安西(柄本明)が亡くなって四十九日を迎えた浜辺に落ちる鍵のショットで始まる池田版は、市川版とは違って最後に郁子(川島なお美)が回りくどく曖昧に…日記なんか使ってごちゃごちゃとと義娘の敏子(辻香緒里)に告げる日記の存在が原作どおり重要な役回りを負っていて、ハイライトシーンとも言うべき安西末期の場面での勧進帳もどきの日記朗読が印象深く、原作にもある場面なのかどうか、大いに気になった。

 安西が日記に綴っていた淫蕩な体質で欲望が強い郁子というのは、彼が読み取っていたものなのか、妻に密かに読ませることで促そうとしたものなのか、あざむき合い、けしかけ合い、そそのかし合って、ここまできたんだ…と安西が述懐する、暗黙の了解に基づく交換日記とも言うべきそれぞれの日記で郁子の記していた内容の充実感と圧力を私の中に感じたことだったとの記述と呼応してなかなか意味深長で、興味深いところがあった。

 市川版での女性の“得体の知れない不気味さ”と男の“気が知れない振舞い”との対照は、市川版のインターン医師と異なり、カメラマンと思しきながらも、正体不明の木村(大沢樹生)のみならず安西にも敢えて得体の知れなさを込めて描いているような気がした。市川版に顕著であった「不気味と滑稽の共存」から滑稽味を排して、代わりに「欺き」をクローズアップさせていたような気がする。安西を欺くために母親(二木てるみ)に対して木村が事実なんていつでも消せると豪語しつつ行った要請を欺いた母親が安西と出会うことになり、占いをして見せる場面を敢えて設えていたのは、そういうことなのだろう。化かし合いの代名詞とも言うべき狐の影絵を繰り返し映し出していたことも印象深い。

 読まれることを想定した日記に書くことが事実ばかりであろうはずがないのは、郁子の夫の日記は読まなかったが、写真はチラッと見てしまった。顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった。との記述によって明示させるまでもなく、自明の理だという気がする。そのうえで、木村から意外とアプレなんだね、君はと言われる敏子にしても、敏子から今わの際の父親について問われて教えてあげない。だって私だけの男だものと応える郁子にしても、得体の知れない不気味さは、市川版ほどにはなくとも、却って現実感とともに立ち現れていたような気がする。最後の郁子と敏子の対話場面による解題については、安西の死に郁子が笑みを浮かべる市川版と落涙する池田版の対照とともに、大いに賛否の分かれるところだろうが、僕は市川版も池田版もともに支持したいと思う。

 ラストショットで赤い夾竹桃に注いでいたクルボアジェを作中ではクールボアジェと言うようにしていたのは、今は亡き川島なお美によるものではないのかとふと思った。そして、三十七歳当時の美しい裸身が見事だった。『あんなに愛しあったのに』で魅せられたステファニア・サンドレッリが郁子を演じているらしいティント・ブラス監督版も観てみたいものだ。
by ヤマ

'23. 2.23. GYAO!配信動画



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