『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』(The White Crow)['19]
監督 レイフ・ファインズ

 劇中でルディともルディックとも呼ばれていたバレエダンサーのルドルフ・ヌレエフ(オレグ・イヴェンコ)については、四十三年前にケン・ラッセル監督の『バレンチノ』['77]を観ているくらいで、名前のほかは殆ど知らずにいるが、本作を観る限りにおいては、彼の亡命に多大な貢献をした仏人女性クララ・サン(アデル・エグザルコプロス)の言っていた“世界で一番身勝手な男”というのが相当だと思われる、類稀な才能と我執の塊のような人物だったようだ。まさに異端の白鴉というわけだ。かなりはっきりとヌレエフ観を出していることが目を惹いた。没後、四半世紀を過ぎ、直接の関係者も殆ど他界していることの効用かもしれない。

 1938年に汽車のなかで生まれたようだから、僕が観た『バレンチノ』のときは、既に四十歳前だったことになる。本作のエンドクレジットのバックに映し出されていたモノクロの記録映像がヌレエフの踊りなのだろうが、改めて半世紀近く前の映画を再見してみたくなった。本作に描かれていたヌレエフは、途轍もないモテ男で、窮地が訪れると必ず女性に助けられていた。バレエ学校の卒業時に政府から故郷の田舎町ウファに派遣されそうになって抗議していたら、キーロフバレエのドゥジンスカヤからパートナーに指名されて難を逃れていたし、転倒で足を怪我して二年は踊れないと宣告されたときには、バレエの師たるプーシキン教授(レイフ・ファインズ)の妻が家に引き取って甲斐甲斐しく介抱して早期の復帰をさせ、パリ公演中の奔放で身勝手な行状が咎められて帰国させられそうになったときは、フランス政府要人のアンドレ・マルロー文化相と近しい女性が政治亡命の手引きをしてくれていた。

 また、六歳の時にたまたま母親の当てた籤でオペラを観に行ったことが人生を変えたというような話をヌレエフがしていた気がするが、確かにオペラハウスで観るオペラには特別なものがあると、僕も思う。もっとも僕が観たのは二十歳のときだし、僕には然したる才能もないので、人生を変えるには至っていないが、僕の“ジャンルに囚われない芸術愛好”の発端の一つには間違いなく、なっているような気がする。

 本作では、ルディ幼時のモノクロ場面と、彼が亡命した'61年のパリ公演で滞在した五週間、そこから六年遡る十七歳でロシアバレエの名門校に入学してからの六年間が並行して描かれ、ヌレエフの人物像がなかなか手際よく描出されていたように思う。ルーブル博物館でジェリコーの『メデューズ号の筏』を観入っている姿が印象深い。玩具の列車への拘りが何だったのか今ひとつピンと来なかったが、やはり出自との関係なのだろうか。或いは、居場所定まらぬ旅行者のイメージなのかもしれない。劇中にレンブラントの描いた『放蕩息子の帰還』が示されていたように思うが、ヌレエフはまさにソ連の放蕩息子とも言えるような気がした。映画の最後にテロップで、1993年の彼の死と、その数年前に母親の死に際して亡命後の初の帰還があったことが示されていた。

 それにしても、彼の亡命に係る顛末が本作に描かれたようなものであったのならば、放蕩ダンサーと言うべきヌレエフに手を焼き、目に余る奔放さを懲らしめるべく灸を据えようとした海外公演監督者の脅しが効き過ぎて彼を追い込み、たまさか仏人有力者とのコネがヌレエフにあったために生じた、瓢箪から駒のような亡命劇だったとも言えるわけで、その起こした結果の反響の大きさからも、関係者にとってはとんだ災難だったような気がした。ヌレエフ亡命に関する聴取調査に応じたプーシキン教授が(彼をきちんと育て損ねたことを)恥じていると言っていたのも無理からぬヌレエフ像だったように思う。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5996093330490200/
by ヤマ

'23. 8.18. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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