『エマニエル夫人』(Emmanuelle)['74]
『続エマニエル夫人』(Emmanuelle l'antivierge)['75]
『さよならエマニエル夫人』(Goodbye Emmanuelle)['77]
監督 ジュスト・ジャカン
監督 フランシス・ジャコベッティ
監督 フランソワ・ルテリエ

 '70年代に一世を風靡した『エマニエル夫人』['74]のシルビア・クリステルがエマニエル夫人を演じたシリーズ三作品を続けて観た。最初に第一作を観たが、図らずも十年前に続・エマニエル夫人['75]のほうを先に観てしまっていたので、2007年版のDVDのためか、画質は十年前に観た続編のほうが上だったような気がした。

 それもあってか、初めて観た大ヒット作よりも、続編でのシルビアのほうが美しい肌をしていて物語的にも見映えがしたように思う。第一作は、何と言っても官能の伝道師たる触れ込みの老紳士マリオ(アラン・キューニー)の指南が余りにも御粗末と言うか失笑もので、いかにシルビア・クリステルであろうと、何してかような代物が世界的にヒットし、レジェンド・ムービーになったのだろうかと甚だ不思議な気がしてきてならなかった。

 字幕での翻訳語がゲイではなくホモだったりする時代の映画だ。囚われを排し、自由への解放を求めることが是とされるなかで、自然体の探求の一環として、天賦の肉体に賦与された官能への目覚めと開拓が人生の掛け替えのない課題として意識され、それを阻むような嫉妬心などが見下され、フリーセックスによってこそ真の人間解放が果されるとする風潮さえあった時代の作品だ。そこでは、性的に奔放なのは勇敢で進歩的だから決して恥ずかしいことではなくて、卑小な嫉妬心への囚われのほうこそ恥ずべきことだとされていた覚えがある。夫のジャン(ダニエル・サーキイ)やマリオの台詞の端々に、そのことの反映が窺えたように思う。

 白い梯子に凭れ、白いテニスウェアを捲られて胸を開けたエマニエル夫人の姿は、テニスではなくスカッシュだったのかとか、鮮やかなポスターになっていた籐椅子は、ここで出てきたのかとか、考古的妙味はあったものの、ドラマ的にはさっぱりだった。だが、エマニエル夫人が執心する考古学者の女性ビーを演じたマリカ・グリーンにも惹かれるものがあり、それなりに飽きずに観ることができた。

 また、無修正版だったので、小汚い暈しのちらつかない画面の美しさが好もしく、タイの少女が見世物として披露していた女性器による喫煙場面には驚いた。煙を吐き出す前の煙草の火の赤味が増す吸引加減が鮮烈だった。

 翌日十年ぶりに『続・エマニエル夫人』を再見した際に、併せて CS movie plus 録画のほうの第一作を観てみたら、やはり画質は、前日に観たDVDを上回っていたが、暈しが入っていたので、煙草の火の赤味が増す吸引は観ることが叶わなくなっていた。だが、BS松竹東急のような胸にまで暈しを掛ける無粋なことはしていなかった。

 併せ観ても、やはり続編のシルビアのほうが数段、綺麗になっていると思った。前作で若きマリー・アンジュ(クリスティーヌ・ボワッソン)を先生だと言っていたエマニエル夫人が、今度は若いアンナ・マリア(カトリーヌ・リヴェ)に官能指南を施す側に回る話になっていたわけだが、前作の指南役マリオよりも遥かに納得感のある導き方をしていたように思う。

 性戯に係る意匠にしても、ベッドの無い部屋においてスプリング代わりに椅子を巧みに使って揺らせる技に感心し、オリエンタル・テクニックとしての鍼は、マリオが前作で教えていた阿片より数段、気が利いていると思った。

 第三作『さよならエマニエル夫人』['77]も初見となる作品だ。バンコク【第一作】で花開き、香港【前作】で爛熟して、理想としてのフリーセックスを体現する新時代の夫婦としてセーシェル諸島にやってきたエマニエル夫人とジャン(ウンベルト・オルシーニ)が、クララ(シルヴィー・フェネック)とミシェル(ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ)の旧態然とした夫婦関係を尻目に開かれた性愛を謳歌するはずなのに、最終的には、エマニエルが言うところの「実験」に敗れつつ、悔いはないと新たなる関係に向けて飛び立つ形でさよならを告げていた。

 キーワードは、シリーズ作を通して問われ、試されていた“嫉妬心”だったように思う。それは超克すべき恥ずべきものだとしつつ、エマニエルが身体のみならず心も寄せた映画監督のグレゴリー・ペラン(ジャン=ピエール・ブーヴィエ)に対して抑え難くなって醜態を晒す夫の欺瞞に失望し、別離を決めるエマニエルは、もはや疾うにジャンの導きの手に負える相手ではなくなっていたわけだ。賭けに出て敗れたと失意を露にして、クロエ(シャルロット・アレクサンドラ)に零していたが、寄り添うクロエの微笑みに、すぐさま拾う女神のいるモテ男ぶりが何とも癪に障る物語だった。

 もっとも、オープニングでもエンディングでも変わることなく、セルジュ・ゲンズブールによる主題曲にて♪セックスとインテリが好きで快楽を求める♪と歌われていたエマニエルは、ジャンから得た学習によってペランに対する幻想など抱いてはないことが明示されていたのに比べ、ジャンのほうにはそれがなく、クロエとの間でも同じ失敗をきっと繰り返すのだろうということが暗示されていた点が痛烈だった気はする。'70年代も後半になると、かつて称揚されたフリーセックスも理念通りに果たせないのが人間の現実だとして、実際のところ廃れていっていたことに呼応した顛末になっていたように思う。

 ドラマ的な展開としては、ある意味、真っ当な分だけ納得感はありながらも凡庸で、エロティックな挑発力においても前作には及ばないように感じるけれども、シリーズ最終作としての仕舞いがきちんとついていたことに感心した。

 それにしても、ジャンの配役まで前作を踏襲しておきながら、なぜ職業を建築家に変えていたのだろう。また、本作でのハイライト・セックスが、波打ち際及び浜辺でのグレゴリーとの交わりになっていたことの陳腐さに失笑した。実際にあのような致し方をすれば、砂が紛れ込んで痛くて敵わない気がする。

 そして、序盤でのエマニエル主導の交情に対して一矢報い、彼女からの娼婦扱いするのかとの異議に対して「娼婦を見下すな!」との言葉と共に、相場の200ルピーに対して300ルピーを「とてもよかった」と差し出して払い除けられながらも、エマニエルを痛撃していたグレゴリーの折角のインパクトが、その後、まるで活かされていなかったのが勿体ないように思った。




【追記】'23.11.18.
 『処女シルビア・クリステル/初体験(Frank En Eva)』['72](監督 ビム・ド・ラ・パラ・Jr)をDVD観賞で観た。
 パッケージの表面にエマニエル・エロティシズムはすべてここから始まったとあるから、てっきり官能映画と思いきや、いきなり頭部から血を流し銃を握ってベッドに倒れている男の場面から始まって意表を突かれ、どことなく息をしている感じがあって、何だか御粗末な造りの映画だなと思っていたら、家政婦から呼ばれた妻に股間をぶちのめされて飛び起きる偽自殺だったという序章から始まる奇妙奇天烈な夫婦フランクとエヴァの原題どおりの物語だった。living apart together とのサブタイトルからすると、正式に結婚はしていないのかもしれない。
 タイトルバックでフランクの運転する車の中でパンティ一枚になって酒を浴びるシルヴィア(シルヴィア・クリステル)が登場したものの、物語の主軸には絡まず、処女とか初体験とは程遠い奔放な男遊びをしている端役で、パッケージの幻の処女作「シルビア・クリステル」の初ヌード!との触れ込みも、シャワーを浴びながら後ろから抱きかかえられている場面が登場するだけで出番自体があまりない、クレジット六番目の映画だった。
 妻エヴァからも放蕩老爺マックスからも、ろくでなし呼ばわりされるフランクの享楽的で刹那的な“自由という名の放埓”を描いた、いかにも'70年代的な映画で、マックスの葬儀場面が印象深い。
 シルヴィアの出身国オランダ作品だから、通貨が聞き慣れぬフローリンだった。邦題の初体験というのは、どうやら映画出演初体験ということらしい。それにしても、原題と邦題の乖離度の大きさには呆れてしまった。



*『エマニエル夫人』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid02KdHuSeZPi6A1E3tg
Btu6WfREDJSXo8Fygew96n2oCDBngZadqZZuYMtj4SxtKi3jl

*『続・エマニエル夫人』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid02F3oVqxoGqgQF6crh
DpYDEQaoiCE2UWVJY7vdkmpcxL8j6gKyaye5fSrsPAf7ey9Wl

by ヤマ

'23. 6. 9. DVD観賞
'23. 6.10. CS movie plus 録画
'23. 6.11. CS movie plus 録画



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