『捜索者』(The Searchers)['56]
『ガンヒルの決斗』(Last Train From Gun Hill)['59]
監督 ジョン・フォード
監督 ジョン・スタージェス

 先に観たのは、同じジョンでもフォードのほうの『捜索者』だ。このところ寄り道続きだったなか、西部劇に戻ってみたら、暗い室内からエドワーズ夫人が表に出ていくオープニングの画面の色の綺麗さに、とても六十五年も前の映画とは思えず、嬉しくなった。少々呆気に取られるほどに、何ともとりとめのない散漫な運びにも関わらず、二時間もの長尺を飽きさせない画面の力に感心しながら、さすがのアメリカでも、今このロケーションを果たせる土地はなくなっている気がしてならない。あのアメリカバイソンの群れなど、もう撮れなくなっているに違いないと思った。

 また、老いも若きも男も女も、やたらと血気盛んな激しいキャラクター揃いで、半ば唖然としながら、南北戦争を終えて間もないこの時代の南西部に生きた人々の死生観にせよ、人生観にせよ、今の時代の僕などからは、とうてい想いの及ばない価値観だったのだろうと妙に納得させられたことに驚いた。牧師とテキサス警備隊長の二足の草鞋を履いているクレイトン大尉(ワード・ボンド)の職業そのものに端的に示されていたように思うけれども、登場人物の皆人が、やたら粗暴かと思いきや妙に律儀で儀礼を尊重していたり、過去の経緯に異様に執着しているようで妙に恬淡としていたり、血縁に端的な縁への囚われと切替の速さの具合とか、人物像に違和感を誘われながら、いつの間にか押し流されていくスケール感に包まれるのが妙に心地よかった。何ともヘンで不思議な映画だ。

 イーサン(ジョン・ウェイン)が連れ帰り、弟のエドワーズ夫妻が育てた、先住民の父親と白人女性の母親の間に生まれたマーティン(ジェフリー・ハンター)の恋人ローリー(ヴェラ・マイルズ)の母親で、元教師だというジョーゲンセン夫人が言っていたような「いつか住みよい土地にするために頑張るんだ」というテキサス人の気概のようなものを人生観として持つ現代人は、希少種どころか絶滅危惧種になっているような気のする昨今だから、尚更だと思った。

 イーサンの姪デビー(少女期:ラナ・ウッド、娘期:ナタリー・ウッド)もコマンチ族に拉致されていたが、当時はマーティンのような生い立ちを持っている人が少なからずいたのだろう。このところBSプレミアム録画で観た西部劇には、そのような境遇の登場人物が頻繁に登場している気がする。もっとも、数多ある西部劇のなかから、いま世界的に深刻になってきている人種人権問題に関連するような作品を敢えてセレクトして放映しているような気がしなくもない。だとすれば、NHKの面目躍如たるものがあるように思う。


 次に観たスタージェスのほうの三年後の作品『ガンヒルの決斗』は、今ならさしずめカーチェイス場面とも言うべき、馬と馬車の疾走するオープニングから大いに惹き付けられた。二時間に及ぶ『捜索者』とは対照的に一〇〇分を切って、ほぼ僅か一日の顛末を描いてこれだけ充実した触発力に富んでいるとは思い掛けなかった。愚息を持った父親の無念を描いて、前年の大いなる西部['58]のルーファス親父を想起させる、なかなかの観応えの作品だったように思う。

 大牧場主でガンヒルのボスになったクレイグ・ベルデン(アンソニー・クイン)が、久しぶりに再会した嘗ての流れ者仲間で、今や連邦保安官になっているマット・モーガン(カーク・ダグラス)に零していた「何かのために頑張り続けても、いきなり失う、それが人生だ」との言葉が印象深かった。

 七年前に亡くした自身の妻のことを言っていたわけだが、マットも妻を亡くしたばかり。だが、病死とレイプ殺人とでは、同じ俎上に置けるはずもない。それと同時に、とことんヘタレだったリック・ベルデン(アール・ホリーマン)の様子からすると、マットの妻から鞭で頬に傷を負わされたからといって、殺意を持って殺すほどのタフさを備えているとは思えず、彼の弁明通り、レイプに抵抗されたなかでの弾みで石に頭を打ち付けてしまっての致死のほうが実際のところのようだったが、殺人であれ致死であれ、全くひどい話だ。

 それなのにチェロキーの女を殺したからって何だ、俺なら逮捕どころか、表彰してやりたいくらいだなどと悪態をついてマットに殴り飛ばされる牧童がいる時代に、先住民女性と結婚し、九歳になる息子をもうけ、十年間、馬泥棒も銃声もないという町にポーリーをした保安官の話であったことが印象深かった。先住民との混血馬飼いを主人公に据えた、同じくスタージェス作品の西部劇『さらばバルデス』['73]を一週間ほど前に観たところだったので、よけいに目に留まったのかもしれない。

 互いに認め合い、一目置いている旧友が、それぞれ自身のうちに懸念を抱えながらも、クレイグの息子がしでかした犯罪に互いの家族が直接関与しているとは知らぬままに再会を喜び、旧交を温め合うなかで、話の様子から、加害者と被害者がそれぞれの息子と妻であることをぼぼ同時に察してしまったときの苦衷の場面が鮮やかだった。

 日本語には人柄を示す言葉として「人格」という言葉があるが、人となりにおける「格」というものは、善悪や社会的地位を超えたところにある気がしてならない。本作でその格が一頭地抜きん出ている存在だったのが、マットとクレイグに加えてリンダ(キャロリン・ジョーンズ)だったわけだが、その核となる部分は、やはり“胆力”だと改めて思った。

 正義に拘って死んでいった嘗ての恋人と思しきジミーに通じるものを感知して、マットに忠告しつつも自分の立ち位置は揺るがせていなかったリンダが、リックの犯行目撃者リー(ブライアン・ハットン)から聞き取った話によってマットの執心が正義や職務への拘りだけではないことを知って、一旦は断ったマットからの頼みに応えたくなってしまう場面も心に残るものがあった。マットは、クレイグに対して「妻かどうかは関係ない」と言い放つが、リンダは、マットの無謀としか思えない行為の核に、正義や職務といった御題目ではなく、“恋女房への想い”を観留めて変心するわけだ。この鮮やかなまでの対照こそ、クラシカルな男と女の違いとしての、西部劇の面目とするところだという気がする。

 三者三様の人としての「格」に観応えのあるエンタテインメントだった。西部劇のこういうところが好きだったんだなぁと改めて思った。大牧場主である町のボスと連邦保安官の因縁含みの対決だけでは、そういうところが浮かび上がってこないから、リンダの存在は非常に重要だ。彼女の胆力が、どういう処世のもとに育まれたのかという部分も含め、マットとクレイグが、若い時分は流れ者であったことの持つ意味は大きいのかもしれない。
by ヤマ

'21. 3.30. BSプレミアム録画
'21. 4. 1. BSプレミアム録画



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