『君を想って海をゆく』(Welcome)
監督 フィリップ・リオレ


 本作が、フランス映画なのに英語の“Welcome”を原題としたうえで、痛烈に皮肉を利かせた“Welcome”ぶりを描いた作品であることは、主人公シモン(ヴァンサン・ランドン)の隣に住む不寛容で陰湿な男の部屋の入口に敷かれた玄関マットの模様文字が「WELCOME」であり、難民へのフランスの出入国管理対応の不寛容な陰湿さが描出されていたことからも明白なのだが、僕にとって響いてきたのは、そういう社会問題的な観点よりも、妻から離婚を迫られている中年男シモンのメンタリティのほうだった。

 人生の華々しいピークを遠き若かりし頃に迎え、今やしがない一介の市井の水泳指導者に過ぎなくなっている元メダリストが、家族の都合でイギリスに渡った恋人に逢うためにドーバー海峡を泳いで渡ろうとするクルド人の青年ビラル(フィラ・エヴェルディ)に水泳を教え、犯罪性を問われかねない密入国者の不法出国の手助けをしていたのだが、そのように入れ込む動機が、水泳に縁のない山岳の民でありながら頭抜けた素質をビラルが発揮するからではなく、また、チラシに記されていた「難民支援の活動をしている妻の心を取り戻すために過ぎな」いというようなものでもなく、彼が妻に向けて率直に表せないでいる心情をビラルに仮託しているように感じられたところに心惹かれた。

 自己表現や自己主張の強いフランス人において、他者への“仮託”というのは、そのメンタリティには少々そぐわないイメージが僕にはあるのだが、ベースにあるフランス的な確立した個人主義の部分にいささかも揺ぎがないなかで綴られているからこその味わいだったという気がしている。

 「恋人に会うために、あいつはイラクからここまで4000kmを歩いたうえに、今なおドーバーを泳いで渡ろうとしているのに、俺は目の前に姿の見えている妻を止めようともしない…」と呟いていたシモンになかなかの味があって、沁みてくるところのある作品だった。その隔たりが、もはや17歳の青年とは違うという意味での中年男の慨嘆にあったかどうかは定かではないが、恐れ入ったのは、顛末の付け方だった。この三日前にヒミズを観たばかりだったこともあり、敢えて思わせぶりに死を演出しつつ結局のところは些かお安い形での“希望”を設えていた『ヒミズ』に比べて、哀切極まりない顛末を用意しながらも、そこに長短で問われるべきではない生の意味と紛うことなく存在した命の証として彼が遺していったものを受け止めたミナ(デリヤ・エヴェルディ)の引継ぎとシモンの魂の再生を描くことで、続いていく生命の時間というものに救いの彩りを添えて描き出していた本作の品格を感じないではいられなかった。

 己が人生を己の責任で生きていくことを選び取るには、あまりに人生には迷いと障碍が多くて、無力感とともに投げ遣り気分に見舞われがちだが、迷いに惑わされ模索しているのは自分だけではないのだ。シモンを演じたヴァンサン・ランドンが実に良かったのだが、彼と離婚する妻マリオンを演じたオドレイ・ダナがしばしば見せる微妙な表情が実にニュアンス豊かで、観ている僕も大いに惑わされた。むろん彼女にも人生の迷いと惑いが自分自身にもよくわからない形で押し寄せていたのだろう。マリオンが携わっていた難民への炊き出しボランティアとは比較にならないリスキーな関わり方に踏み込んでいくシモンに彼女が寄せていた忠告と心配には、家族的義務や友好以上のものが明らかに窺えたように思う。そして、彼女が見せていた、コケットリーとは対極にある惑わし術は、無自覚なるが故に、より強力で罪作りなものだったような気がする。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1656878379&owner_id=3700229
推薦テクスト: 「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/838
推薦テクスト:「シネマ・サンライズ」より
http://blog.livedoor.jp/cinemasunrise/archives/1032028433.html
by ヤマ

'12. 1.21. 美術館ホール



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