『森崎書店の日々』
監督 日向朝子

 本作の舞台となっている古本屋というのは、学生時分に文芸サークルに身を置き、就職に際しては出版社2社を受けたこともある僕が、かつて退職後の楽しみとして一度は夢想したことのあるものだが、それもあってか今なお神田神保町にある古本屋街というのは、ある種、ファンタジックなイメージを誘うところがあって、かような物語にとても適しているように感じながら観た。その一方で、映画作品自体には、ファンタジックな異世界的な趣や筋立てと同時に、非常に現実感を誘われる描出が施されていて、そのことに大いに感心した。

 具体的には、文学などに凡そ関心を持ったことがなかったと言っていた貴子(菊池亜希子)が、目を閉じて当てずっぽうに選んで最初に読んだ尾崎一雄の『まぼろしの記』によって、初めて読書らしい読書を果たした手応えに驚きと喜びを感じているときの表情や、叔父(内藤剛志)に頼まれた自分とのデートのために律儀に現れたと思っていたら、気に掛けているトモチャン(田中麗奈)の情報を探ってほしくての高野(奥村知史)の訪問だったことが判明して、そんな時代遅れの微笑ましい可笑しさの得られる街にいることの喜びと寛ぎを噛み締めているような笑みとともに飴玉を頬張ろうとしたときの表情、あるいは、読書の喜びに目覚め、精力的に読書を重ねたうえで、叔父から値付けの課題を与えられた『愛についてのデッサン』を読み終えたときの、初めて読書の手応えに目覚めたときの喜びよりも数段深い感応を見せた表情などに宿っていた実感に大いに魅せられた。そこに、日向朝子監督の並々ならぬ演出力を感じるとともに、自分と一年半も社内恋愛を続けていながら、同じ社内の別の女性との結婚を決めたことを事もなげに告げられたレストランで、「で今から、どうする? ホテルもなんだし、そっちの部屋へでも行くか?」などと言われて、とことん傷つき、就職に苦労して入ったらしき会社を退社するまでに到った原因となった、別れた男のことを、コインランドリーで乾燥機が止まるのを座って待っている間に、ぼんやり眺めていた乾燥機のガラス窓に映る自分にふと男が愛撫を加えている幻影をまざまざと観てしまう形で生々しく思い出し、そんな自分への憤りと屈辱感にベッドで布団を被り込んでいた貴子の姿に、脚本を書いた監督自身の実体験ではないかと思うほどの現実感を抱きつつ、彼女の脚本力の確かさに唸らされた。

 そういった演出力と脚本力に大いに触発されたからなのだろう、作品のなかで直接的に語られていたことではないが、僕は、貴子は、叔父とされていた悟と、彼が二十三年前に別れたと思しき桃子との間に生まれた娘だったのだろうと思っている。履歴書に森崎ではなく三浦貴子と記されていた彼女の生年は昭和59年だったようだが、悟が三十年前からの行き付けだと貴子に語った喫茶店に残されていたノートには、確か1987年3月29日の日付で記された“悟&桃子”の署名と29歳の誕生祝の言葉があって、それが二人の最後の記録であり、悟が父親から継いだ森崎書店の二階の部屋を貴子に提供してのち、問わず語りにマスター(きたろう)に訊ねた「あのとき引き止めていたら、桃子はどうしていたのかな」との言葉が示すように、悟は、桃子を引き止めもせずに家庭を崩壊させてしまったために、3歳の娘を姉に託して、世界を彷徨う旅に出ることになったのだろうという気がした。

 読書を愛し、行間を読む楽しみを知る作り手なればこそ、決してあからさまにしなかった貴子の叔父、悟の物語というのは、そういうことだったのではなかろうか。そんな思いを触発してくれることで、文学や映画の描く物語が喚起してくれる想像力というものを改めて感じさせてくれたように思う。

 貴子が叔父の物語の行間を察したかどうかも、もちろん描かれてはいなかったが、僕は、この時点ではまだ察してはいなかったように思っている。ただの叔父・姪の関係では済まないくらいによくしてくれる理由を貴子が悟に問うたときに、彼の施した説明が、男からモノのように粗雑に扱われ、“自身の存在価値のなさ”に打ちひしがれていたであろう貴子の、まさにツボに嵌まるような直截さで、彼女の心を満たしたように見えたからだ。この世に生れ出た存在にはそれだけでもう掛け替えのない価値があるものなのだと実感させてくれることというのは、そのときの貴子が最も欲しかったものであろうから、彼女は一も二もなく信じることで救われたはずで、それゆえに、悟の説明とは異なる物語を彼の話の行間に読む余裕はなかったような気がする。だからこそ、貴子は、別れた男とのことに始末をつけ、森崎書店の二階の部屋を出ていく決意を固めることができ、己が人生を再び歩み出す力を得ることができたのだろう。そして、新たな職を得たのちのどこかの時点では、退職後に叔父の後を継いで森崎書店の店主になることを夢想したりするのではなかろうか。



参照テクスト:MIXIコメント編集採録


推薦テクスト:「シネマ・サンライズ」より
http://blog.livedoor.jp/cinemasunrise/archives/1032029648.html
by ヤマ

'11. 8.21. 民権ホール



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