「赤坂姉妹」より 夜の肌』('60)
『女は二度生まれる』('61)
監督 川島雄三


 県立美術館が「サヨナラだけが人生だ-川島雄三映画祭」と題して、二週に渡る土日の四日間で八プログラム十六本の特集上映を行ったのだが、そのうち僕が観ることができたのは、わずかに一プログラムだけだった。もっとも近頃は歳のせいか、映画鑑賞も固め打ちには気が乗らなくなり、全プログラム鑑賞に前売りでも八千円かかるようでは、二日で八本を二週続けてまで制覇しようという気が起こらない。プログラムは、一年前の溝口健二映画祭のときと同じように、製作時の順にならべていたようだが、今回観た二本はともに色街ものだった。


 『夜の肌』('60)では、何と言っても懐かしの伊藤雄之助が抜群によかった。女遊びの好きな大物政治家の役なのだが、鷹揚さと軽妙さを独特の味(いや、味というよりアクか)で演じて出色だった。保守与党の次期幹事長候補なのだが、政務の合間を縫っていそしく性務に励んでいた。一万人に一人の味の良さだと惚れ込んだマダム 夏生(淡島千景)の居室で寝そべっているところに、夏生の末妹 冬子(川口知子)から左翼デモの資金カンパを求められると、無心した冬子の思惑の十倍の額の札を渡しつつ、「あんまりやりすぎるんじゃないよ。もっともやりすぎてくれたほうが私らには都合がいいんだがね。」などと言っていたし、「久しぶりにまた読んでみたいから、それ貸しておくれ。」と言ってマルクスの『資本論』を読んだりしている人物だった。左翼学生たちとは器が違うというわけだ。

 それにしても、'60年当時に既に映画のなかでもきちんとこういう指摘がされていたのに、保守政権与党の彼らの都合のよさに向けてひた走り、'70年代には遂に連合赤軍事件にまで至ってしまった左翼運動の挫折を未然に防げなかったことが惜しまれる。労働戦線の今の体たらくを招いた遠因には、あの当時の新左翼の挫折があるような気がしているのだが、この作品で冬子にオルグを説いて学生運動に携わっているメンバーの一員に、若き日の蜷川幸雄の姿があった。

 ALWAYS 続・三丁目の夕日の翌年となる'60年の赤坂が舞台なのだが、まだ人力車が走っていたとは驚いた。TBSが出来たのもこの年だったようだ。高度経済成長期に入っていた時期なのに、まだブラジルへの移民も続いていたようで、夏生の次妹 秋枝(新珠三千代)が姉と別れた潤平(フランキー堺)の子を身籠もってブラジルへ追っていくのだが、三人姉妹が別れ別れになっていく顛末ながら、時代の帯びていた活気や活力というものが映画のなかにきちんと宿っていて、哀感がありながらも軽妙で明るい印象の残る作品だったように思う。



 『女は二度生まれる』('61)は、東京から折々に送られて来ている手元のリーフレットによれば、一昨年の三月に国際交流基金が英語字幕付き日本映画上映会シリーズの第五回として「巨匠が描いた花街の女たち(The Masters' Gaze on Women in Hanamachi)という企画上映を行った際に、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』('60 内田吐夢監督)、『四畳半襖の裏張り』('73 神代辰巳監督)、『噂の女』('54 溝口健二監督)、『偽れる盛装』('51 吉村公三郎監督)、『日本橋』('56 市川崑監督)とともにセレクトされていた作品だ。

 僕の生まれた'58年に施行された売春防止法を受け、少し商売がしにくくなりながらも“自由恋愛”を名目に変わりなく客を取りつつ、「恋愛だから、もし捕まったときに名前も知らないでは困るから」と寝間で客に名刺をねだる艶やかなオープニングシーンの嬉しい作品で、映画という娯楽のターゲットがまだ確かに男性客にあった時代の偲ばれる作品だったように思う。靖国神社の太鼓の聞こえる九段の置屋の枕芸者から、新興水商売で勢いを得ている新宿のバーのホステスを経て、当世は“二号”と言うんだとの妾になった後、お父さんと呼んで慕った一級建築士の旦那 筒井(山村聰)の死去で再び芸者に舞い戻る小えんを演じた御年二十八歳の若尾文子に尽きるという感じの作品だった。明るく若い健康さと枕芸者の色香とのアンバランスな共存が、まるでモンロー張りの魅力を放っていたように思うが、売春稼業に些かの屈託も見せない様子が、却って男を渡り歩く女の生の哀しさを鮮やかに浮かび上がらせているように感じた。

 唯一人、一度も枕を交わさずに想いを寄せただけの縁で終わっていた大学生 牧純一郎(藤巻潤)の颯爽としたサラリーマン姿での再会にときめきつつも、その彼から接待している外国人客の床の相手を求められ、落胆している姿が哀れだった。そのプロットが効いていたからなのか、ひとまわり余り年下の映画仲間の某君は、牧への落胆の後、映画館で再会した青年 孝ちゃん(高見国一)を誘って上高地に向かった旅の列車のなかで、自分の想いを袖にして山葵屋の大店に望まれて後家の元に入り婿をしたと聞いていた寿司職人 文夫(フランキー堺)の仲睦まじい子連れ姿に遭遇した後、孝ちゃんと別れて信州島々駅の駅舎のベンチに一人ぽつねんと腰掛けている小えんの姿を線路から仰角で捉えたラストカットに、彼女の自殺を予感したようだ。僕は『女は二度生まれる』とのタイトルが刷り込まれていたからか、逆に最後の場面は、家族連れの文夫の姿を見て、憂さの種が男なら、憂さ晴らしもまた男であるような我が身の哀しさに小えんが覚醒し、初めて自分から生まれ変わろうとする意思を固めたように観ていたから、少々驚いた。しかし、それだけ女の哀れの宿った作品だったということなのだろう。

 文夫や孝ちゃんをいわゆる二枚目にしていない配役が効いている。牧だけならありきたりなのだが、人懐っこい芋少年のような孝ちゃんの筆おろしに妾の知子[小えん]の浮気心の衝動が生じたり、着実な将来設計を胸に修行に励んでいる純朴な文夫に心惹かれるのは、彼女が若い身空で既に成功した年輩者ばかりに身を売っているからに他ならない気がする。小えんは、自分の歳に見合った若者が恋しいのだろう。牧を登場させていなかったら、単に彼女の趣味の問題になりかねないが、三人の若者を並べ、他方で年輩者も筒井のみならず、タイプの異なる遊び馴れた矢島(山茶花究)を配置してあるところがいい。
by ヤマ

'08. 1.26. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>