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沿革史
□ 文覚上人と神護寺
平安末期の神護寺は、大変衰微していた。
平家物語の作者によると、「久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて落ち葉の下に朽ち、甍は雨露におかされて仏
壇更にあらはなり、住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり」という惨憺たる有様であった。
これを復興しようという大願を起こしたのが、文覚であった。
仁安三年(1168)、三十歳のころ当寺を訪れた文覚は、早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置し、空海住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建す
る。
しかし、復興事業が思うにまかせぬため、承安三年(1173)、意を決した文覚は後白河法皇の法住寺殿におもむき、千石の収入のある荘園の寄進を強要し
た。
そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に流されることとなった。
この地で文覚は、平治の乱のときに清盛の義母池禅尼の助命によって辛うじて斬罪を免れた源氏の嫡男、源頼朝と親しくなっていた。
平家物語は、文覚が頼朝に父義朝の髑髏をみせて挙兵を迫ったと伝える。
ことによると、史実に基づいた話かもしれない。
心中深く決意した頼朝は、神護寺復興を約束した。
治承二年(1178)、中宮徳子の皇子出産にともなう恩赦によって、文覚は赦免された。
その後、しばらくの消息は明らかではない。あるいは、頼朝再起の画策を行っていたのかもしれない。
還住五年後の寿永元年(1182)十一月二十一日、後白河法皇が蓮華王院御幸のとき、御堂内陣まで進参して訴え、ようやく御裁許を得ることとなった。
それに先立って、同年七月宰相中将藤原泰通は先帝高倉院の御菩提のため、紀伊国神野真国荘を施入している。
法皇は翌年、紀伊国桛田荘を寄進せられ、頼朝は寿永三年(1184)、丹波国宇都荘ほかを寄進し、神護寺の荘園は八箇荘にもなって、再興は軌道に乗り、
寺の財政は安定した。
そこで、文覚は元暦二年(1185)、現在着手しているこの寺を、どのような寺にしていくかという自身の考えを、四十五箇條にして法皇に提出した。
この神護寺の憲法というべき資料が、文覚四十五箇條起請文である。
「第一條、寺僧は一味同心の事。二、貴賎を簡ぶべからず。」から始まり、それぞれの條文の内容を詳細に説明している。
興味を引く條文を挙げると、「大事の訴訟あるの時、僧徒を引き連れて公家に奏せしむべき事」とあり、その内容説明として、「右末代大事の出来る時は、大
衆陣に参じて天聴を驚かせ奉るべし、若し裁許を蒙らざるの時は陣庭に立ちながら一生を尽くすべきなり。たとえ本寺に還らずして死亡に及ぶといえども、更に
私威を以って合戦を企て、勝負を決すべからず、あるいは臣下に追従し賄賂を致すべからず」と、十七年前、法住寺殿に強訴した自身の行動をそのまま末代の規
範にし、しかも法皇の認めるところとなるのである。
この起請文提出の直前に、高野山に渡っていた高雄曼荼羅二幅と、それに付属していた播磨国福井荘も、法皇によって三十数年ぶりに返還され、続いて銅鐘及
び五大虚空蔵菩薩像も仁和寺より返還された。
復興が一段落した文治六年(1190)二月、法皇の御幸があり、文覚は箒を持って御堂の前庭を掃き清め、それをご覧になった法皇が微笑まれたという。
法皇自ら石を打って常灯をともされ、内陣安置の本尊を礼拝された。
文覚は神護寺復興と平行して東寺の復興、高野山の大塔の復興にもたずさわった。
「東寺長者補任」によると、建久九年(1198)五月、東寺講堂の仏像の修造事業が終了して、諸仏を元の位置に安置しなおした。
これに対して、源通親は文覚が諸仏をかってに動かしたとして流罪に処すこととし、翌年頼朝の死の二ヵ月後、佐土(佐渡)に流罪となった。その通親が三年
後に死亡すると文覚は直ちに許されて京に帰るが、その留守中に六代が斬首されている。
六代は、平家の直系で重盛の孫にあたる。
かねて文覚は頼朝に対して、幼い六代の助命歎願をおこない、名を妙覚と改めて指導していたが、その成長と共に頼朝は、「文覚は六代が謀叛を起こさば味方
しかねない聖の御房なり」と側近に語っていたという。
その頼朝も死亡し、文覚の配流中に妙覚は殺された。
佐渡から帰った文覚は、引続き神護寺の再興につとめていたが、後鳥羽上皇より謀叛の意思ありとして、三年後の元久二年(1205)にまたもや対馬に流さ
れ、寺領はことごとく院の近臣、女房に分け与えられ、復興事業も中断のやむなきに至った。
弟子上覚の記録によると、文覚終焉の地は鎮西であったといわれる。
文覚亡き後は、上覚と明恵が復興事業を受け継ぎ、嘉禄元年(1225)、明恵を導師として伝法会が修され、翌年落慶の総供養を執行するまでになった。
このとき、後高倉院の妃北白川院が勅使として本尊の前で読み上げた啓白文、及び四年後に描かれた神護寺絵図、創立から鎌倉時代までの記録である神護寺略
記、及びその後まもなく描かれた大伽藍図によって、復興の全貌を知ることが出来る。
文覚以下師弟三代の書状、頼朝夫妻の書状から戦国時代の文書二百七十四点が、神護寺文書(重文)として収められ、中には復興事業が苦難の連続であったこ
とを伝えている。
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