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高雄山神護寺 沿革史

□ 伝教大師と高雄山寺
 比叡山中にこもって修行を続けていた最澄伝教大師に対し、それまでの奈良仏教に代わる新しい仏教の求道者としての期待をよせていた清麻呂の子息、弘世、真綱の兄弟は、延暦二十一年(802)一月、伯母広虫の三周忌の法事供養として、高雄山寺に最澄を招き、法華経の講演を依頼している。
 広虫は生前、「七日ごとの法事や三年の忌明けには通常のように追福の儀式を営むのでなく、静かに二、三の行者と三宝を礼拝して造りたる罪を懺悔してほしい、このことを子孫にも伝えて法則とするように」との言葉を残している。
 清麻呂の子息たちは、伯母や父の遺志を生かしながら、遺言通りに追福ではなく、新しい仏教の確立のために心を砕いた。
 続日本後記の真綱卒伝によると、「天台、真言両宗の確立は、真綱及びその兄但馬守弘世両人の力なり」と高い評価をよせている。
 高雄山寺における天台講義は、桓武天皇の知るところとなった。
 天皇は治部大輔和気入鹿を勅使として、弘世に対し感謝の言葉を伝えている。
 また、法会に加わった大徳らも、その喜びを奏上している。
 十三年間の籠山修行にあきたらず最澄はさらに入唐して天台の法流をうけ、広くこの教えをひろめることを願っていた。
 弘世のはからいを得た最澄は、還学生(短期留学生)として唐に学ぶこととなった。
 そして、二年後の延暦二十三年(804)、最澄は唐に向けて出発、九月明州につき翌年五月同地を離れるまで天台の教旨、止観の法門を授かったことはもちろんであるが、離唐の直前に越州龍興寺順暁から、密教の灌頂も伝授された。
 帰朝後、九月には再度高雄山寺に入り、弘世の外護のもとに勤操らに対して、わが国最初の灌頂壇を開くこととなった。
 この最澄が伝授した灌頂は、後に帰朝する空海に比べ十分なものではなかった。
 また法流の違いもあって、最澄は数年後に改めて弟子の礼をとることとなる。
 そのころ高雄山寺では弘世はすでに世を去り弟真綱、仲世が外護する空海の時代であった。

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