六八、正しき願は叶えられる  
     
   夫れ神は吾々に何を授け給ふべきか、われわれは神より種々のものを頂くべきなり。其數は一々之を記すべからず。其物も一々之を述ぶべからず。即ち神は吾々に無くてはならぬものは、悉(ことごと)く之を授け給ふべければなり。ソレ故吾々は我儘心(わがままごころ)を起して、神に之を与へ給へと願ふとも、神は必ずしも其願ふところのものを与へ給はざるべし。眞に吾々に必要なるものは、勿論(もちろん)之を与へ給ふべけれど、吾々に与ふる事によりて、却(かえっ)て吾々の不幸となる樣なものは、如何に神に願ひても、神は之を吾々に与へ給はざるなり。
 此事を知らずして、吾々は何にても直に自己の欲するものを神に願ひて、其れを与へられざる時に、直に神をうらみ神は何事も吾々の為めに、なさざるものなりなど考ふるものなれど、ソレは甚(はなはだ)しき誤なり。神は吾々の眞情を盡(つく)して、吾々一己の為めでなく、公衆の為め、一國の為めなどに願ふ時に、ソレを叶へさせらるる事あるは勿論なり。ソレ故昔より「願へよさらば与へられん、たゝけよさらば開かれん」といふ諺(ことわざ)あり。ソレを以て直に私利私慾に屬(ぞく)する事をも、願ひのまゝに与へられ叶へられると考へるは誤なり。神と人との交りは元より心によりて為さるヽが故に、其心を正しくし清らかにする時は、神の意は我心に其儘(そのまま)に写り來りて、神意の存するところを吾々も十分之を知り得るに至るものなり。斯くなる時は、我願ふところと神の心との間に隔り無くなるを以て、我願は直に神によりて叶へさせらるるが如く見ゆるものなり。即ち正しき願ひなれば神は必ず聞き給ふが故なり。
 其願ふところのものが、正しきか否かによりて、其叶へさせらるるか否かが定まるものなり。故に如何に願ひても叶へさせられざるが如き時は、其願は正しからざるもの、又は叶へさせる事によりて、却つて其人に不幸不利を來すものなりと云ふ、神の思召なりと知るべきなり。
(十一分)

 
     
   目次へもどる