三〇、神意  
     
   何事を書き出すべきか、今より現はるゝところのものは、皆神の示し給ふところのものなり。
 神の示し給ふところには必ず眞理あり。眞理は即ち神なればなり。
 唯(ただ)神神と云ふも如何(いか)なる神なるか、明らかならずして不可なり。先づ第一に神樣の名を示し給へかし。何神なるか何樣なるか、其神は日本に居ます神なるか、外國の神なるか、外國の神と日本の神とは其本必ず同じけれども、今は皆異なれるが如く思ふ也。一体は神は一つなるべきものにて數(かず)限り無くあるものにあらず。其れ故神と云へば即ち足れる也。されど日本に於ては、其神の働きを示す為めに、それに一々名をつけて何々の神と呼ぶを以(もっつ)て、澤山(たくさん)の神居ますが如くに思はるヽなり。
 其考へ方其見方も決して誤りにあらねど、元々別々の神と思ふは誤なり。其大本に至りては必ず唯一つに歸(き)すべきもの也。先づ第一に其事を理解せざるべからざる也。今よりは其唯一の大神の示しを以て記する事とすべし、其大神の示し給ふところの第一のものは何なるか、それは人間を此世に生れしめ給ひし目的也。それを人間其物は色々と解し居れど、本來の神の目的は何なるかと云ふに、それは神の働きを人間を通じて此世に行はんが為め也。神は色々のものを作りて、共働きを此世に示し給へども、就中(とりわけ)人間は最も神の働きを精神的に現はしたるものなり。
 それ故人間の心こそは、神の宮居とさへ呼ぶが如く、心を通じて神の本旨(ほんし)を現はし給ふなり。
 人間あつて初めて此世に神の本來の働は示さるる也。他の動植物と雖(いえども)、皆神の働を示たるものなれども、それと人間と比較する時は、如何に人間に神の心が現はれ居るかを知り得べきなり。
 神と人間との関係は、眞に親子の如きものなるを以て、神の心が即人間の心なりと云ふも過言にあらざる也。神は人間を通じて其働を示し、人間は神によりて其働を現はし得るなり。それ故(ゆえ)神と人間とは二つにして一つ、一つにして二と云ふもさまたげ無し。其神人合一の事を悟りなば、人間の価値は萬物に長たる事明らかとなるなり。されど人間は我儘(わがまま)を為すために生じたるにあらざるが故に、我儘(わがまま)を為しては不可なり。故に虚心坦懐(こしんたんかい)神意に合せんとする事肝要なり。神の示し給ふところのものを、其儘(そのまま)に行ひ得る場合は極めて平穏にて、又極めて樂なれども、今若(も)し神意に反したる事を行はんとすれば、大変苦しみを自発するものなり。それ故其(その)行為が神意に合し居るか、否かを判断するには、其行為が眞に樂々と何の苦もなく行はるゝか、否かによりて判断すべきなり。
 神の命ずるところのものは、必ず我良心に反せざるものなるが故に樂なれど、若し良心に反する時は苦を感ずる也。良心に反するとは即ち神意に反する事なり。それ故吾人は必ずその行為が神意に合し居るか、否かを常に注意して、日日の行動を行はざるべからざるなり。若し唯(ただ)茫然(ぼうぜん)として行為せば、後よりそれを顧りみて、神意に反したることを悔ゆるに至る事あるなり。若し後にても神意に反したるを悟りなば、無論直に之を改めて、眞に神意に合する事に努力せざるべからず。又爾(し)かする事によりて、吾人の行為は漸次(ぜんじ)浄化し得らるるものなり。
(二十分)
 
 
     
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