私にお師匠様と言うべき人がいた、永島宏昭氏である。残念ながら故人だ。永島氏と付き合っていたころは、変なことを言う人だと思っていた。「徐福伝説」「イスラエルの失われた12部族」「日ユ同祖論」「ホピ族の信仰」など、話の飛躍にだんだん付いていくけなくなり、それ系の話からは離れて行った。私は仕事が忙しくなり、思想系は神様一本になったせいもある。今は私の方がかなり変な話をするかもしれない。時の流れとは不思議なものだ。
その永島氏の残した冊子の中に 『小川 勇 命 霊書・霊言集』 抜粋がある。 自動書記の記録であるが非常に興味深い。また、他の自動書記資料と比べてみると自動書記とはどういうものか理解の助けになると思う。
残念なことに、この本自体を完本で探しているが手に入れられないでいる。永島氏の遺品にないか遺族に聞いたが無いようだ。だれか、このHPを読まれてお持ちの方があればお知らせ願いたい。
以下永島氏遺族の了承を得て抜粋を掲載する。
緒言
弘法大師の信仰者で心霊研究家 光陽福村庄三郎氏の指導を受けて精神統一をはかり、静かに目を開きて右手に鉛筆を左手に雑記帳を持ち、鉛筆の先端を紙面に
當(あ)てヽ凝視する事、約二、三十秒にして鉛筆の先端が自然に動き始め、最初は文字を成さざること多きも、大抵一分以内に文字を書き始め、十分、二十分
又は三十分以上少しも休止すること無く、頗(すこぶ)る早き速度を以て、自動的に書き終りたるものを仮りに霊書と名けたり。霊書四巻即ち是なり。各項の終
に括弧して十分、二十分などと記したるは霊書に要した時間なり。十分間霊書したるものを他に写し取る為には三十分を要す。以て如何に霊書の速度早きかを知
るべく、又以て一々考へながら書きたるものにあらざることを知るべきなり。
同じく精神統一の状態に於て其侭(そのまま)閉目する時は、自然に唇動き始め、漸次聾(こえ)を発し言葉となり、或は長唄又は謡曲の口調を以て、種々の事を語るに至る。之を仮に霊言と名付たり。予の語るを福村氏の書き取られたるものなり。霊言集一巻は即ち其れなり。
各項の題目は福村氏より与へられたるものもあれど、大部分は無題なりしを内容に従ひて予の附したるものなり。
以上は昭和十三年三月二十八日より、同年十二月三日に至るまで
の業績なり。由来を記して緒言とす。茲(ここ)に先ず第一巻を発行し、第二巻以下も順次発行の予定なり。
昭和二十四年春
白王神社 書司 小川 勇
著者略歴
医学博士 小川 勇
明治十三年(ー八八〇)三月十三日、三島村大字延川字小野川、(現、愛媛県北宇和郡鬼北町大字延川)小川武七郎の長男として生まれる。
昭和四十三年(一九六八)一月二十日没す。
幼少のころ、才知に優れ神童といわれた。大字卒業まで成績抜群。明治三十年愛媛県立松山中学校へ、同三十三年同校卒業、明治三十六年京都帝国大学福岡医
科大学を卒業。同年六月、陸軍二等軍医となり歩兵第三連隊付を命ぜられた。大正三年九月、日本赤十字社奉天病院長、昭和五年十月一日依頼退職まで勤めた。
惜しまれながら奉天を去り昭和五年十一月五日、日本孝十字社三重支部山田病院長に就任、外宮前の同病院の改築事業は当時有名であった。
十八年九月十三日大平洋戦争のため大阪赤十字病院長を命ぜられ、二十一年三月三十日、退職した。
郷里延川に帰り、二十二年十月三日神社庁より三島村延川鎮座白王神社宮司に任ぜられ宮司を勤めていた。その間二十五年四月一日、三島診療所開設に当たり
所長を引き受けたが後任に女婿を迎え四月末退職。当時最新の医学を修得し四十年余年間の臨床医家として、軍患者および一般患者を診療して臨床医学の大家と
して名声高く、昭和二十九年四月一日には、日本赤十字社長より山田赤十字病院名誉院長の称号を授与された。著者は、自 伝の人生五十年、還暦、古稀、喜
寿、米寿の五冊のほか、満州回顧録、神道我観、霊書霊言など二十数冊に及んでいる。
※ 小川 勇 氏の名前に、命をつけた理由
ミコトとは神言であり、神の預言者、代弁者(言代主)を意味する、神人に対する尊称である。
『霊書・霊言集』 小川 勇 命