六九、神を知る法  
     
   何事を書き出すべきかは、誰れかの指圖(さしず)によりて定まるものなり。ソレを書かしめるものは誰なるか、われはソレを知らずと雖(いえども)、恐らく神なるべし。神の靈なるべし。われの手を通じて神の示しをわれは書くのみなり。何を云ひ給ふとも、われは唯其儘(ただそのまま)に記すべきなり。何なりとも示し給へかし。われの知らざる事を示し給ふべし。われの知れる事を書きては、吾々の心の働としか思はれざるなり。ソレ故吾の知らざる事を何なりとも書かしめ給へかし。神樣は何を考へ給ふか、何なるかは誰も知るものなし。何卒(なにとぞ)神の考へ給ふ儘(まま)を吾に書かしめ給へかし。
 然らば今より書かしむべし。ソレ吾々(われわれ)の願は神の願なりと誰か云ふものありとも、ソレを信ずべからず。人の願の多くは其人の心の願にて、神の願にはあらざるなり。神は願ふところ無きものなり。神は己が欲する儘(まま)を欲するが儘(まま)に行ひ得るが故に、神には別に願ふところなきものなり。神神と人はいへど、人のいふ神は必ずしも眞の神にあらず、人の心にうつりたるまぼろしを人は神と呼ぶ事多し。即ち人は己れの心の影を見て、直に神と呼ぶ事多きものなり。
 眞の神は容易に人の心にうつるものにあらず、目に見ゆるものにあらず、其存在を知り得るものにあらず、神と人とは隔(へだた)り居るが如くにして隔らず、近きが如くにして近からず、其れを隔りたりと見るも近きと見るも、ソレは皆人間の勝手なる考へなり。ソレ故人間の勝手なる考によりて書き出されたるものを、直に神と信ずるは抑(そもそも)の誤なり。然らば眞の神は何によりて知るべきか、何によりて見るべきか、ソレを教へ給はれかし。ソレは容易の業にあらざるが如きも、實(じつ)は左程(さほど)難しき業にあらざるなり。
 神といふも人といふも、元々は全く同一物なり。ソレを別(わか)ちて考へるが故に見えざるなり。形を離れて其靈(そのれい)に歸(き)する時は、神人合一となり得るなり。人の形によりて直に神を知らむとし、人の形を持ち其形に屬(ぞく)する種々の欲情を持ちながら、神を見神を知らむとする時、神は仲々見るべからず知るべからずと雖(いえども)、其形を超越し其欲情を去つて、眞の靈に歸する時、直に神と人とは合一し得べきなり。其事を知らずして、直に神を見神を知らんとするも、決して十分に之を達し得ざるなり。
(十四分)
 
     
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