九、神の計画に誤(あやまり)無し |
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とこしなへに書き現はさんとするものはソも何々にてあるか。ソレよりも何事にてあるべきかわからねども、何かわかるものの現はるるならんと思ふなり。 此世の中に現はるゝ諸々の事象は何によりてわかるかと云ふに皆夫々(それぞれ)よりどころあるなり。人はソレを悉(ことごとく)く知る由無しと雖(いえ ども)神は皆知り給(たも)ふなり。早くソレを知らんと思へば神の示しを守らねばならぬものなり。神の示しと云ふも他にあらず皆人々の持つところの頭の働 きによるなり。頭の働も神の示しによりてあらわるるものなれば其(その)働は皆神に歸(き)すべきなり。頭のよしあしは人の作用によるものにあらず神の与 へたるものなり。神が如何なる働を与へるかは人各々(それぞれ)知る事なし。其(その)与へられたるもの如何に現はすかによりて人の働の善し悪しがわかる なり。善し悪しと云ふも別のものにあらず。善しと感ずるも時として悪しき事あり。悪しと感ずる事も又善しと認めらるる事ある也、悪しと云ひ善しと云ふも皆 神の判斷(はんだん)に任すべきものにして人の勝手に定むべきにあらず。人の性は元善なりと雖其儘(いえどそのまま)に放任し置けば善のみにては濟まず、 時に不善に陥(おちい)る事あるなり。されば善を善として悪を悪と為すには神の力を借らざるべからず。神善を命ずれば善を為(な)し、悪を戒(いま)しむ れば之(これ)を避け得るに至るものなり。善を行はんとして悪を為し、悪を避けむとして悪を為すは人の常なれど、之も決して直し得ざるものにあらず。 神は常に吾人(われわれ)を守り給ふが故に大悪を為すことなくて終るべきなり。唯吾人常に心を清くして神に従ふの心掛け無ければ思はざる不覺に陷る事あるなり。常に其心の持方に注意するは人間のつとめなり。 人と獣との異るところは心の働にあり。心の働善ければ神に近くなるも若其(もしその)働悪しき時は獣に等しくなるなり。人と獣とも其(その)根元は皆一 つなり。神より見れば皆神の子とも見ゆるものなり。人間のみが我儘(わがまま)を働き人間のみが此世(このよ)を勝手に為し得るものと思ふは誤なり。人間 と同様に動植物も又愛せざるべからず。神の愛は皆一様なり。雨を植物に与ふるが如(ごと)く動物には水を与へ人間には乳を与へ給(たま)ふなり。其(そ の)好むと好まざるとに拘(かかわ)らず、其(その)各生くるに必要なるものは神之(これ)を与へ給(あた)ふなり。人間の不用と思ふものも神の目には必 要なるべし。人間の狭き浅き智によりて万事を判断せんとするは非(あらざる)也。人間の知り得ざる事に如何なる秘事の含まれ居るか、よくよく心して神の示 しを悟る事に努力せざるべからず。神の吾人(ごじん)に示し給ふところをよくよく調査する時は至れり、去せりにて決して無駄のあるものにあらざるなり。無 駄と見、不用と考へるは抑(そもそも)人間の我儘(わがまま)なり。万物を造り万物を支配し給ふ神は決して手落無く萬物を調和的に配置し給へるなり。毎日 太陽は東より出でて西に入り、其時間に一分一秒の相違も無く、月出て潮之に従ふと云ふも又其時を違へず。宇宙の森羅萬象悉(ことごと)く其規を一にして少 しも違ふところなきを見れば、如何に神の計画に過無きかを知り得るなり。人の智を以て神を計らんとするは全く言語道断なり。神は絶対に冒し得べからざるも のなり。 (二十二分) |
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